名のもとに生きて

人の一生はだれもが等しく一回かぎり。
先人の気高い精神に敬意を表して、その生涯を追う

キェルツェポグロム 憎悪と怜悧な撲滅

2016-06-14 23:18:02 | 出来事
なぜアウシュビッツ後に?
なぜアウシュビッツ後のポーランドで?
生き残ったユダヤ人を襲う残忍な人間性


絶滅収容所への引込線

おもな参考文献
FEAR Anti-semitism in Poland after Auschwitz,An Essay in Historical Interpretation
/Jan Gross 2006
「アウシュビッツ後の反ユダヤ主義 ポーランドにおける虐殺事件を糺明する」
染谷徹 訳



第二次大戦が終わった翌年、ナチスにより9割が「始末」されたユダヤ人、その生き残りをポーランド市民が襲った。共にナチスに虐げられ、そのうちのより一層過酷に虐げられた、元は隣人だったユダヤ人に対し、残虐極まる殺戮が起きた。
なぜこの時期に、なぜこの国で起きたのか。
人間性の根底の救いようのない闇を認識しておかねばならない。


反ユダヤ主義の歴史
ユダヤ人に対する迫害や虐殺は、ナチスによる所謂ホロコーストに限らず、千年以上にわたって繰り返されてきた。国家政策として大規模に展開したものがホロコーストであるが、あらゆる地域で自然発生的に、あるいは時の国家権力の誘導によって小規模に連動したものを、一般にポグロムと呼ぶ。
歴史的に国家を持たなかったユダヤ人であるが、その存在するところには必ず迫害が横行した。
その原因の根底には宗教が関係している。
一つには、キリスト教においてユダヤ人はイエスを殺したとみなされていること。さらに、キリスト教では認められていない「金貸し業」をユダヤ人が担っていたため、恨みや妬みの対象になりやすかったこと、などがある。
このようなトラブルを収めるために、13世紀、ポーランド公はユダヤ人の権力や安全を保障する「カリシュの法」を制定したため、ポーランドを中心とする東欧地域にたくさんのユダヤ人が居住するようになっていた。
しかしこれは国家の権力者の定めた法令であり、庶民にとっては不服もあったことだろう。一揆や乱が起こるに乗じて、ユダヤ人が虐殺されることはしばしばあった。
ポーランド分割後は庇護を失い、ロシアにおいては皇帝によっても迫害された。

ウクライナ リヴィウ 囲まれたユダヤ人の少女

ウクライナ リヴィウ 集められたユダヤ人
悲しみにはりさけそうな表情



東欧でのポグロム暴発
1941年、独ソ不可侵条約を破り、ナチスドイツが東欧に侵入し始める。そのとき、東欧各国ではゲシュタポの到着を待たず、ユダヤ人を虐殺した。
際立った動きは以下の通り。

ウクライナ
「我々にユダヤ人始末の権限を与えよ」
ウクライナ人は、それまでにポーランド人やユダヤ人の陰となって生きてきた。ナチスには「劣等人種」と蔑まれ、大量虐殺もされた。にもかかわらず、ナチスの将兵に進んで協力し、ユダヤ人を見つけ次第、殺害する。その迅速性ゆえに、ウクライナには収容所を作る必要がなかった。

ウクライナ リヴィウ 女性は囲まれ、服を脱がされ、ときには衆人環視の中で強姦される ドイツ兵やソ連兵にではなく、それまでの隣人たちに

棍棒を持った子供らに追い回されるユダヤの女性
この残酷な虐待に子供まで加担している


ウクライナ リヴィウ 住民によるポグロムの間、見物するドイツ兵


リトアニア
ドイツが攻めこむ前から既に、独自にポグロムを行う。その徹底ぶりにより、ユダヤ人生存者は1割となった。一夜にして男女子供は殺され、四肢はばらばらに転がる。むしろ、リトアニア人によるユダヤ人攻撃が落ち着くのは、ドイツ人が占領するようになってからだという。
「私たちを隣人から守るためにナチが出てくるなんて、変なことになったものだ」
なお、杉浦千畝の計らいで国外脱出できたものは多くはアメリカ、一部は神戸に身を寄せた。

リトアニア カウナスの虐殺
狩りの手柄の記念撮影か 地面は血の海



ルーマニア
エスカレートした民衆による殺害は、想像を絶するほどの残酷さだった。集められたユダヤ人は家畜の場に連れて行かれ、家畜同様のやり方で殺され、そして家畜同様のやり方で「吊るされた」。或いは、吊るしておいて、生きたまま皮膚を剥いだ。5つにもならない幼女の死体も逆さに吊られていた。その残虐ぶりにはナチスでさえも耐えられなかったらしい。

ルーマニア ヤッシーの虐殺で犠牲になった子供の写真


ハンガリー
ゲシュタポ以上に厳しい憲兵の摘発により集められたユダヤ人は、ブタペストからオーストリア国境まで「死の行進」を強いられた。不眠不休、飲食禁止のこの行進を、スウェーデンの外交官ラウル・ワレンバーグはトラックで追いかけ、食料や衣服を与え、一部はトラックで連れ戻した。
ワレンバーグは保護証書を大量発行してユダヤ人を保護し、ほかにセーフハウスも設けた。
ワレンバーグはその後、ソ連との話し合いに呼ばれたのち、行方不明となった。その消息は現在でも明らかになっていない。

ラウル・ワレンバーグ 1947に消息不明


ポーランド
この時期の、一般市民によるポグロムとして有名なイェドバブネ事件の他、30件以上の虐殺が起きた。数百人が瞬く間に殺害されたイェドバブネ事件は、最近に至るまで、ナチスの誘導で起きた事件として目されてきた。しかし後代、上記の本の著者グロスの前著にて、ナチス関与が否定されたことにより、それまでのポーランド社会の被害者意識は豆鉄砲を食らうことになった。

このように、東欧では一斉に、民衆によるポグロムが暴発した。ここにあげていないスロヴァキアやオーストリアでも事態は同様であった。

イェドバブネの小屋の焼跡から見つかった鍵
広場に集められた後、すぐに家に帰れると思っていたらしい



アウシュビッツ以前のポーランドのポグロム
イェドバブネ事件

1941年7月10日、ゲットーから連行されたユダヤ人あるいはたまたまその地を訪れていたユダヤ人が広場に集められ、危害暴行を加えられる。そのうちの40~50人が連れ出され、レーニン像破壊とともに殺害され、像の残骸もろとも埋められた。
その1~2時間後、広場の残りのユダヤ人(女性や子供多数)がユダヤ人墓地前の小屋に閉じ込められ、外から火を点けられ、焼死。およそ40人の非ユダヤ系ポーランド人が主謀した。

この時点で、ポーランドは他の東欧諸国同様、まだアウシュビッツなどの絶滅収容所を経ていない。建設はこの後だからである。


絶滅収容所とポーランド
ポーランドは、絶滅収容所を知っている。
それはポーランドにあったからだ。
知らないはずはなかったが、収容所が解体された後、周辺住民はそれを見せられ、「知らなかった」と一様に答えた。
事実上、知っていたに違いない、しかし無関心だった。それは他者の問題であって、自分は「それ」ではないという優越に浴していた。

黒い灰を落とす‥
「春、陽光、4月の雲、そして黒々と執拗に舞い降りてくる黒い雪片、黒い煤の片。
「ゲットーからよ」。
そう言って、母は窓の下枠から黒い雪を払い落とす。私の顔からも、目からも黒い雪を払い落とす‥
「何も心配することはない。ゲットーの中のことだから」‥」

ワルシャワに住んでいたハリナ・ポルトノフスカが60年後に回想している。

「‥黒い雪が降ってきたとき私はいったい何を感じていたのだろうか。何も感じなかったのだ。いや、本当に何も感じなかったのだろうか」

絶滅収容所近辺の村にも黒い雪が降っただろう。
白い雪は黒いものを消してくれない。払い落とさねばならない。その目からも。
彼らは知っていたはずだ。
フランス人やドイツ人はむしろ、目の前で連れて行かれたユダヤ人の行く末は知らなかったから、絶滅収容所の実態を知ったときには驚愕した。収容所の所在地のポーランド人は、自らが協力して連行させたユダヤ人の運命を知っていたはずである。元隣人の残酷な結末を、戦時中から知っていたはずである。
これが、なぜ絶滅収容所のあったポーランドにおいてポグロムが再発したのかの疑問である。

絶滅収容所 煙突が見える

アウシュビッツ以後のポーランドのポグロム
戦争が終結して、絶滅収容所の惨劇を知った世界は、ユダヤ人へ同情を寄せた。戦争していたどの国でも悲惨な戦禍で苦しんでいたにもかかわらず、ユダヤ人の受けた残酷な苦しみをとりわけ憐れんだ。
ところが、ポーランドの隣人はそうではなかった。ポグロムが各地で起こったのである。

終戦後、ユダヤ人が自分のいた地に帰ってくる。
国内のどこかで避難していた人や絶滅収容所で生き残れた人8万6千人、ソ連から解放された人13万6千人。かつての隣人が冷やかに迎える。そして、ここにいては危険だからすぐに何処かへ行くように、と。そしてこう付け加える。

「あなたの財産を私に渡しなさい。
さもなければ、あなたを傷つける連中が何もかも取ってしまうんだから」

亡くなったユダヤ人の財産は、ポーランド人が受け継いで良いことになっていた。ところが、絶滅させられたと思っていたユダヤ人が帰ってきた。自分の取り分として手に入るはずだった財産が手に入らなくなる。他の人はまんまと手にしているのに!
そうした妬みが膨らんで、地方で小規模なポグロムが起き始めた。都市部は比較的安全だったため、ユダヤ人は都市部に身を寄せた。
しかし、次には都市部においてもポグロムが起きるようになった。「妬み」だけが原因ではなかったことが次第に明らかになっていく。
1945年8月クラクフポグロム、1946年7月キェルツェポグロム。
当時、都市部ではドイツ人追放やウクライナ民族主義者弾圧、共産党をめぐる抗争もあり、非常に不安定でもあった。しかし、戦後の混乱に付き物のこれらの事件とは一線を画して、ポグロムが起きている。単にその目的は、殺害、略奪だった。


キェルツェポグロム
少年の嘘が虐殺を引き起こす

8歳の少年ヘンリク・ブワシチクはサクランボが食べたくて、以前住んでいた土地の友人のところへ親にだまってヒッチハイクで出かけた。親は捜索願を出した。2日後の晩、ヘンリクはたくさんのサクランボを抱えて帰宅。酔っ払っていた父親に、「ユダヤ人に誘拐されていた」と嘘をついた。
翌朝、父と隣人とともに警察に報告に向かう途中、通りにあったユダヤ人会館を指差し、「ここの地下室に監禁されていた」「入り口にいた緑色の帽子のユダヤ人に連れ込まれた」「他にもつかまっているポーランド人の子供がいた」と作り話をする。プランティ通り7番地ユダヤ人会館、当時、この会館には180人のユダヤ人が居住していた。

事件のあったユダヤ人会館 川のそばのため、地下水が多く、地下室はなかった

民警が事をあらためるために来ると、人々が集まってきて、話は次第に膨張し、「ポーランド人の子供が殺された」と広がっていった。
しかし、この建物には地下室はなく、中を調べた者により、少年が嘘をついたことが明らかになったのだった。本来、これで収束するはずの事態は、もはや収束できなくなっていた。民衆が建物前を取り囲み、建物に乱入しようとする。その場にいた民警も、公安警察も、エキサイトする民衆を制止できない。軍隊も危険を察知し、遠巻きに見守るだけだった。
状況に流された兵士が動いたのを見て、民衆が建物になだれ込み、広場に引きずり出されたユダヤ人は、棒や石で撲殺されるか銃殺された。病院に運ばれた遺体のほとんどは身ぐるみ略奪されて裸だった。結果42人が殺され、80人以上が負傷して病院に運ばれた。病院に運ばれた者には、看護師による虐待が待っていた。
暴徒は駅に入ってくる列車も襲い、年端もゆかぬボーイスカウトの少年がユダヤ人をピックアップして車外に出し、暴徒はここでも撲殺した。
停車中のコンパートメントから、1人の男性が、自分とそれほど年の違わぬ少年に連れて行かれるのを見た10歳の少年。のちに思い出して驚くのは、同じコンパートメントにいた誰一人として、このことに全く無反応であったということ。「黒い灰」を目から払う、それと同じ反応と言えるだろう。

キェルツェポグロムの犠牲者の墓地


「過去に自分が傷つけた相手を憎むのは、まさしく人間の常である」
これはタキトゥスが当時すでに言い古された箴言として紹介した言葉である。
隣人に棍棒を振るった人々。ユダヤ人が報復で彼らに危害を加える怖れがあったからではなく、ポーランド民衆は別の恐怖心を抱いていた。ユダヤ人の存在が、自分の道徳を崩壊させるのをまざまざと思い知らせることに恐怖を覚えていた。自分がまっとうに存在するためには、彼らを排除したい。そうすることで過去を葬りたい。
「加害者には過去に自分が傷つけた被害者を激しく憎悪する性向がある」
戦後のポーランドのポグロムは、決して群衆心理(※)に流された暴発事件ではない。そこには自分の存在のために相手にとどめを刺そうとする怜悧な計画があった。
殺害は日常生活の延長線上で行われている。
調書によれば、「家族でピクニックから帰ってきた後、‥」「仕事から戻って来てから、‥」「プールから帰ってきた後に、‥」殺害に出かけている。友人と何気ない会話をしながら、ユダヤ人に石を投げている。森に連れて行って殺そうとしている相手の交渉に言葉を返している。近所付き合いのあったユダヤ人を撲殺する間、殴られながら愛称で呼びかけ、話しかけている。まるで、学校の裏のリンチのようだ。
「挑発はあったのか」「煽動者がいたか」が争点になる。それがあれば、起きた結果はその者のせいにできる。同じような、隣人による虐殺として、ルワンダのジェノサイドがあるが、あの発端には煽動的なラジオ放送があった。戦後のポーランドのポグロムは、煽動も挑発もなく、心に根付いていた積年のわだかまりに自然発火したものだと言える。
上部機関からの命令に強いられたわけでもない。参加するかしないかは個人の判断だった。ということは、それを止められるのは自らの意志だけだったことになる。暴動を阻止しようとした勇気あるポーランド人にも危害は加えられている。自分を否定する者の存在を許せない。自分が崩壊しないために相手を打ち砕く。人間の心の、暗く冷たい底なし沼に浸される幻覚‥。

(※)「集団(群衆)心理」に見られる性質
⑴過度の情動 ⑵衝動性 ⑶暴力性 ⑷移り気性 ⑸一貫性の欠如 ⑹優柔不断 ⑺極端な行為 ⑻粗野な情動の表出 ⑼高度の被暗示性 ⑽不注意性 (11)性急な判断 (12)単純かつ不完全な推理 (13)自我意識、自己批判、自己抑制の喪失 (14)自尊心と責任感の欠如による付和雷同性
グレーは私がこの事件においては該当しないと考えるもの。つまり、集団の流れによって起こったと考えにくい。


事件との距離 カトリック司祭と知識階級
ポーランドには階級意識が周囲の国々よりも顕著であった。インテリゲンチャ(知識階級)は常に、祖国と名誉のために戦う誇り高き階層であり、第二次大戦で、ポーランドは売国的なファシスト政権は登場せず、独ソから挟み撃ちにされながらも英雄的に戦った。そして悲劇的な犠牲者であり、祖国の被害の語り手になった。
ただし、知識階級の人々の描く祖国には、庶民は描かれていなかった。度々起こるポグロムは、下層階級間の「下々のできごと」として捉えた。
戦後のポグロムに直面しても、当事者ではない知識階級は再び「語り手」だった。

カトリックの司祭たちは、キェルツェポグロムの最中、民衆を説得しようと近くまで来ていた。しかし、近寄るのは危険だと民警に制止され、仕方なく安全なところで待っているうち、早々に事件が収束したので引き揚げた、と報告している。これは本当に「仕方なかった」か。
そして、司祭の尽力で解決したかのような共同声明。ところが、たった一人、そのようなまやかしの声明を述べず、真実を教会で伝えた司祭がいた。ユダヤ人によるポーランド人の儀式殺人の否定、ユダヤ人殺害の事実。ポグロムでは度々、ユダヤ人が儀式のためにポーランド人の子供を襲うとして、儀式殺人の罪を着せて虐殺することがあった。キェルツェの事件では、警察の発表でも教会の発表でも、「人は死んでいない」とされていた。ユダヤ人40人以上が亡くなっているのだが、彼らを人として数えないからである。真実を伝えた司祭は罰せられた。さらに、上位の司教は嘘の上塗りもする。私(司教)の聞いた話では、ユダヤ人に虐待されたと証言してキェルツェポグロムのきっかけを作った子供は実際にユダヤ人に虐待されており、その子供の腕から血を抜いた証拠もあると、英国大使に話し、大使を唖然とさせている。
自明のことだが教会関係者こそ、紛う方なき反ユダヤ主義者である。宗教上、想定しうるものであるのに「寛容」の仮面が取り繕う。

キェルツェポグロム犠牲者の葬儀


擬似的種形成
チンパンジーの生態を研究したジェーン・グドールが、霊長類に起こりうる「擬似的種形成」を報告している。あるチンパンジーの集団で、それまで一緒に育ち、親しく暮らしたメンバーが、グループごと群れから分裂するとき、かつての仲間からは非常に激しく攻撃される。ともに毛づくろいもした元仲間が容赦なく攻撃する様は、それを別のサルに対して仕掛ける襲撃とは異なり、チンパンジーが大型の動物を殺し、解体して餌にするときのような、脚を捻りあげる動作や地面に叩きつける動作まで見られた。大型の動物に対峙するときは、半端でない殺意をもって挑むはずだ。
人の世界でも、最も激しく残酷になるのが「内戦」である。それは、文化的な対立である場合より、一層残酷極まるのは民族対立の場合である。

「5年前には、私は誰がクロアチア人か、セルビア人か、それともムスリムかなど、考えたこともなかった。気にかける必要もないことだった。友人が何という人種なのかさえ知らなかった。恐ろしいのは、いや、それ以上に魂消るのは、人種意識というものがなんと早く広がるかということだ」

ボスニアの三つ巴の戦いは不可解なほど残酷だった。とにかく多くを殺す、絶滅させる、数で勝負の大量殺戮だった。
いままで互いに「友人」だったのが、ある日「クロアチア人」になり「セルビア人」になる。もはや友人ではなくなるどころか、暗殺者になる。


ポーランドの現在
図らずも、ヒトラーが果たせなかった「ユダヤ人なき国家」に、その上、ほぼ単一民族国家になったのはポーランドだった。ユダヤ人は戦後のポグロムを怖れて国外へ、多くはイスラエルやアメリカへと脱出したからだ。
その後、ポーランドでは歴史認識をまとめるための国民記憶院を設けた。その流れの中で、2001年、ヤン・T・グロスが著書『隣人たち』により、イェドバブネ事件にドイツ兵は関与しておらず、非ユダヤ系ポーランド人が主犯だったことを明らかにした。それまで自国の被害者としての立場に落ち着いていたポーランド人達には、受け容れがたい事実だった。国民記憶院はグロスの説をやみくもに否定することをせず、説を検証した結果、大筋で説が正しかったと証明し、国民もそれを受け容れた。加害者でもあったことを、国家も国民も正面から認めたのだ。
これがどのくらい国民に定着しているかの物差しとして、教科書での取り上げ方がある。キェルツェポグロムに関しては、「キェルツェのユダヤ系住民虐殺」という項で6ページが割かれ、そのなかでは煽動説を否定と、国外脱出したユダヤ人亡命を加速させる要因となったと記されている。

歴史を正しく認識することは重要だ。
時に加害者ともなったことを認めねばならない。認めた上で何をするべきかも誤ってはいけない。ポーランド政府は国内国外問わず全てのユダヤ人に謝罪の意を表した。この方針に強く反対する動きは見られなかったようである。

翻って、イスラエルに定住したユダヤ人は、ガザをゲットーにしている。被害者だった者達が、別の地で加害者となっている。
最も長く迫害の歴史を経てきたユダヤ人が、解放された途端、迫害をする側になった。
被害者意識がそれほどまでに強かったのか。
我が身のいたみ以外、他者のいたみなどを想像してみることはなかったからなのか。
その限定された土地に固執するあまりに、人間性を失うその人たちが、アウシュビッツを経てきたユダヤ人なのだとは、信じたくない事実である。

平等な共存を保障しない限り、パレスチナはいつまでも抵抗を続けるだろう。ユダヤの歴史の中で、先に述べたカリシュの法をポーランドから授けられた時、先祖のユダヤ人たちは歓喜した。
法を尊ぶ宗教ならばこそ、カリシュを超える、平和の法を示してほしい。


ビルケナウ絶滅収容所