現代文化の快楽

60年代に東大の文系・理系の大学院生がコラボして、他大学にも声を掛けて、横断的に作っていた現代文化研究会へのオマージュ

ノスタルジック理(6)   万年筆(一)  ペン先

2012年07月25日 | 随想録

盤側のオーナー殿が万年筆に凝られ始めた。愚にはノスタルジアの世界。

↑モンブラン(独)     ペリカン(独)↓

デルタ社(伊) ドルチェヴィータ↓

金、イリジウム、ロジウム、パラジウムというのは尖端部にちょっぴり付けてある金属(実際はその合金。例えばイリジウムはプラチナとの。)で、所有者の書き癖に馴染むための適度な摩耗性と、耐久性(耐摩耗性、耐食性)とのバランス。

「しなり」は、尖端に繋がる数ミリの部分で決まる。(愚説)

金は減りやすいから、そう長持ちしないけれども、少なくとも他の希少金属と紙との摩擦による書き心地の差が区別できるはずは有りませぬ。一つにはインクそのものがが滑らかさに貢献するから。(同上)

ただ、14金、18金、イリジウムは、なんとなく違う感じがするけれども、それはその金属の格とイメージに応じて、ペン先本体をどれほどよく仕上げてあるかでしょう。例えば18Kのほうはペン先も軟らか目に作って有るとか。いうまでもなくペン先のしなりがどれほどが良いかは人好き好き。ただし或る程度柔らかくないと筆圧を掛けないと、ペン先の割れ(開き)具合が足りず、書き出しのインクの出が悪くなる。しかし技術革新のせいか、この頃はガチガチなのにインクがよく流れる不思議な万年筆も有るようだ。ただしその場合は、製図用の筆記具並みに一様な線質の、例えば脅迫状向きの味の無い文字になる。(〃〃)

そのペン先は、これらの写真のものは、最高級なので、一定の書き心地が保証されている。しかしこの装飾はスキ好きなので、金一色でも無論最高級のものは有る。それにどうも近頃では、この装飾も量産出来るようになった気配がある。(〃〃)


或る将棋棋士の晩節(9)   真相と思しきこと

2012年07月19日 | 随想録

現在、駒音掲示板で起こっている見かけ上の事実の要点は、管理上、武者野棋士と山☓某が一体的であり、そこで駒爺氏の言動が一方的に防護されていて、同氏にとって不都合らしい投稿や投稿者が、些細な口実で(無頼者の言い掛かりと同じ。)尽く排斥されることである。

そして、山☓某の正にその管理行為への自制を促す気配でもあれば、武者野棋士が自信たっぷりに語る例の「悪魔のルール」、つまり愚劣で邪悪で自家撞着的で、多少なりとも尊敬されるべき言論メディアとしてはあり得べからざるルールで、すかさず居丈高で侮辱的な言辞を用いつつ排除される。

ただし、その依って来る理由を確かめることは、同掲示板における最近の某氏らの貴重な投稿の成果で、別に急ぐ必要は無くなった。なぜならば、武者野棋士の明確な現行の管理支持の主張を引き出したからである。

最早、一人でも二人でも、同じ事だ。大津の苛め事件と同じで、内部の役割分担が何であろうと、我々は、彼らを一体としてその非を咎めるべきことになる。

当面は、掲示板やそれに関係している人間或いは人間集団の信用、尊厳、道義の問題なのだから。

山☓某は、そのような議論の対象にしても始まらないとも見られる。例えばこの人物に非礼や侮辱について謝罪を求めるのも空しいかも知れぬ。

それにひきかえ、武者野棋士には一定の社会的地位が有る。棋士全般を社会的にどう評価するかは別問題として(少しずつ低下する可能性はあるにしても、相場としてはまだまだ高いものがあるのではないか。)私のような単なる観戦愛好家を含めた将棋関係の世界では、公人とも言うべき立場に有る人だ。(その意味では、この度の言行は惜しい。)

☆ ☆ ☆

さて、ここまでは前口上だった。今回は、上の前提にも拘らず、内情について一つの推理をしようというものである。

そういうことはナンセンスか?決してそうではない。駒音掲示板の改善は、残念ながらいつ果たされるか見込みが立たぬ。そうであれば、将来の動きを予測して、なるべく無駄な労力を省かねばならないからだ。

ここで、駒爺こと鵜川(善)氏が、主役に浮上する。

今回の問題について最も深く観察した人達の推測と実際に知っているらしいことを総合すると、次のことの蓋然性が高い。

鵜川氏は、武者野棋士になんらかの金銭的援助をしている(事業資金かどうかは分からない)。そのため駒音掲示板について実質的に支配できる立場になった。武者野棋士は創設者で元オーナーだが、クラブに例えれば現在は雇われマダムと似た立場であり、山☓某は一介の黒服に過ぎぬ。

鵜川氏に、もう少し慎みがあれば、問題が顕在化することは避けられたかも知れぬが、駒音掲示板が尊敬され、新時代のメディアの一つとしてはむしろ伝統すらあることの重みを良くは認識せずに、昼日中からとぐろを巻いている姿をしばしば見せたために、異変が明るみに出た。

無論、鵜川氏なりに駒音掲示板の価値は認識していない筈はない。穿った見方をすれば、氏には、何らかの理由で、駒音掲示板の2代目(かまたは共同の)オーナーに実質的になったことを公表できない事情か思惑がある。その一方で、人間の常として、やはりオーナー的な力は活用したい。好き放題に発言し、目障りな者や煙たい者は排除したい。

山☓某は、鵜川氏の意向に基づくというよりは威光の生口となって、上記のような露骨に一方的な管理行動をするようになった。

この想定の下で、私は、次のように考える。

駒音掲示板は、単なるバーやクラブではない。娯楽場でもあったことは否定しないが、我々から見れば、一定の尊敬をし、また尊敬を受けてきた言論の場ないしメディアである。

鵜川氏が駒音の実質的主宰者または金主になり、最近にわかに執筆が増えた武者野棋士が主筆格になったのであれば、その事実を公表すべきである。また山☓某についても、両人が連帯して委嘱しているものであることを明確にすべきである。

それならば、自ずと現在の駒音掲示板の性格も、従来とは、或る面では全く違った物に変わることが明らかになり、、去る者は去るであろうが、残る者も十分多いだろう。

無論今のように曖昧にしていても、時間が経てば、いずれ正体は知られる。ただ、そういうやり方では、日本社会の中でどちらかと言えば真面目な人間の間での、信用や尊敬、ましてや信頼を急速に失ってしまう。

匿名ネット掲示板も、この位に長く大きくなった以上、その運営管理にけじめとか透明性とか公平性というものが必要なのだ。

☆ ☆ ☆

冒頭にも書いたことだが、今回の結びとして、現在の駒音掲示板に比較的新たに発生した具体的かつ致命的な問題を、改めて記す。

従来から駒音掲示板は「反米長」という傾向を持っていた。それは武者野棋士がオーナーだったから、両人が敵対するようになった時期以降、ある程度はやむを得ないものではあった。

しかし、最近の異様な歪みは、鵜川氏に気兼ねして「親LPSA」でなければ投稿しにくいという程度の生易しいものではない。

●あらゆるテーマの議論で、鵜川氏が少しでも劣勢になりかけた途端、山☓某がすかさず介入して排除にかかる。

これは、掲示板の主流が、例えば「反米長」とか、「親LPSA」といった心情的ないし思想的な偏向傾向を持っているなどと上品に表現できるような次元ではない。

掲示板としての理性が失われたのだ。

(鵜川氏自身は、ときにキレることは有っても(?)、基本的に正気だし論争能力も高いのだから、不良審判に頼る必要は全く無い。じつに惜しいことだ。)


ある将棋棋士の晩節(8)   怒りと悲しみを堪えつつ

2012年07月19日 | 随想録

十数分ほど時間が余ったので、一言だけ書く。

私はさっき駒音にコメントしたが、それは事実上無頼漢か狂人が監視官をしている(それは「無法地帯」の定義に十分該当するものだ。)前で、新しい難癖を付けられないように、精一杯の用心をしながらのことだった。

これを武者野棋士は承知のうえで全面的に擁護しているし、次に取り上げざるを得ない問題として、第3の人物こそ、現状をここまで酷いものにしている主役なのではないかという疑惑がある。

だとすれば、大津市と同じで、3人掛かりで私を傷めつけてきたことになる。

(一部の生徒は気づいて行動したが、多数の生徒や先生や警察も見て見ぬふり。それどころか被害者やその家庭のアラや落ち度を探して言い立てる、etc.ということまで、何らかの類似性があったりする?)

 

(蛇足)  ただ私は、幸いに大津市の自殺少年とは、ちょっとだけ違う。


ある将棋棋士の晩節(7)   管理人にメールは笑止だ

2012年07月18日 | 随想録

本シリーズの前の方で、駒音掲示板のルールを、「悪魔のルール」と形容し、しかもそれに基づいて、管理人によって侮辱的で恣意的な管理が行われている現状を指摘した。

オーナーシップを明らかにすべき一つの理由は、この不当で異常な管理の責任の所在が、誰にあるのかを確認して、その事態を解消するためのステップにするためであった。

もしも武者野棋士が、従前通りいわゆるオーナーであれば、そして今回新たに述べている通り月額1万円程度の謝礼を払って山☓某に管理を依頼しているのであれば、必要に応じて、同人に改善を指示し、或いは更迭すべきである。

というのは、山☓某の管理は、公平でもなく下品である以前に、そもそも介入のし過ぎなのだ。

一部には同人がある宗教的傾向を隠しているとの指摘がある。宗教かどうかは知らぬが、同人の奇妙で独善的な偽善的傾向は、分かる人には何年も前から分かっていたものだ。ただ実害がひどくない内は、黙っていただけのことである。

ところで、もう一つ重大な指摘をしよう。これは管理人でなく、武者野棋士の不明と愚昧を表しているものである。

●管理については管理人にメールせよ。それがルールだと?

武者野君よ、ふざけるのも休み休みにし給え。

私を含む何人かの常連は、管理人の性格と愚かしさで散々に迷惑を被って来た。さなくとも同人のせいで駒音掲示板の議論の質が下がっていることを嘆かわしく思ってきたのだ。山☓某本人にメールしてこういうレベルの問題が改善される見込みは全くない。

今だから明かそう。じつは私は、何年か前に、既にこのことを経験しているのだ。

つまり、武者野棋士が繰り返しとくとくと語っている管理人へのメールは、問題を指摘するとか苦情をいう側にとって「百害あって一利なし」のナンセンスな要求であることは、原理的には余程想像力に欠けていない人間でないかぎり気づくはずだが、現実にも、過去のさまざまな経緯を通じて実証されてしまったことなのだ。

武者野棋士が、駒音掲示板に、実質的に影響できる立場にあり、その意志が有るのであれば、同棋士にメールを出せというのならば、未だ無駄では無かったかもしれない。

しかし、本人がどうであれ、同掲示板の所有運営管理に関わる周辺の人物達の人格と行動に信用が出来ないことが、更に明らかになった現段階では、それも無意味だと分かった。

じつは、今回に至る以前に、管理人宛メールの無駄とリスクを知った私は、連盟に武者野棋士宛の信書を託すことも何度か考えて見た。これは将来においても、或いは有効であり得るかも知れぬが。

(蛇足) 山☓某には、と金倶楽部や盤側の談話室のような他の有力将棋掲示板のオーナー兼管理人と違い、特段のソフト的な技術は無いようである。それで務まるのであれば、より問題が無く信用を回復できる管理人を探すのはそう難しい筈はなかろう。

蛇足の蛇足  今回は、武者野棋士に実質的な運営権が残っているという前提で、ある部分を書いた。 少なくとも同棋士の最近の主張から見れば、責任は問えると考えている。しかしながら、依然としてそこに釈然としないものが残ってあり、運営の透明化を期待している。

其のマタ蛇足  私は、武者野棋士は、上品で公正な人物であり、すくなくとも邪心や、奇妙な人格的偏りは無いと思う。

駒爺氏は、失礼ながら多少の癖や臭みをお持ちらしい。しかしLPSAの肩を強烈に持つのは人間として一貫していることで、功罪相半ばするにしても、個人の立場ないし個性としてそれなりに評価できる。

有力な書き手の毀誉褒貶や個性の偏りは問題にすべきではない。駒音掲示板を同氏が管理しているわけではないのだから。

無論、一部で危惧されているように、もしも現在の異様で欠陥がある管理が、実質的に(闇で)支配権を持った駒爺氏の意向に沿って行われているとすれば、事態は最悪であり、所属棋士が今も積極的に関与している以上、連盟に協力を求めてでも改善を図らねばなるまい。 


ある将棋棋士の晩節(6)

2012年07月16日 | 随想録

本題については、(5)まで書き進んだところで、通常の人には意味が伝わったと考えて、一旦様子を見ることにした。

多忙だったことと、細かいところには興味が無い質なので、その段階に入ってからは、駒音掲示板は数日に一度見る程度になっていたのだが、今日になって、私も提起していた問題―それを取り上げるための一つの方法としてこのブログを開設したのだが―について、本質的な展開が有ったことに気づいた。

まだ、詳細は読んでいないが、武者野棋士が、相当に積極的に、駒音掲示板にテコ入れし、また質問者ないし批判者に対して反論しているらしい。

無論、同棋士の、駒音管理についての愚かな開き直りは、ちょっと以前にも見られたのだけれども、まだ多少の慎みが感じられた。それに比べると今回は、ずっと強硬で攻撃的であるかに見える。

いずれにせよ、現在の下卑た掲示板管理体制を、全く正当なものとして手放しで自画自賛している。

それだけで、この人物が、既にして尊敬に値しない者に堕したと考えるほかはない。

麒麟も老いては駑馬に劣るというが、あまりに呆れた今の言辞を知れば、もともと衣装を纏った馬子だったのかもしれぬとさえ思う。

考えてみれば、将棋の棋士について、我々が、過大に聡明さ、知性、教養を期待していたのが間違いだったことはあるだろう。これは近年少しずつ世間に察しられるようになって来ていたことではある。勝手に過大評価しておいて、急に武者野棋士だけを責めるのは酷かもしれぬ。

しかし、それでもなお、同棋士は指弾さるべきであるのだ。