玄文講

日記

清水美和「中国農民の反乱」(2)

2006-02-25 02:46:00 | 
前回の内容)
時は西暦200X年、中国の農村には悪吏がはびこり、農民たちは次々と蜂起するのであった。

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農村内がこのような有り様なので都会に活路を求める者は当然増加する。
では外に出た農民たちにはどのような運命が待っているのであろうか。
それは「二等公民」としての差別的な待遇である。

そもそも中国には「都市戸籍」と「農業戸籍」という二種類の身分が存在する。
この制度により「農業戸籍」の持ち主は都市で暮らすことを制限され、都市で働いたり、教育を受けることを禁止されている。
この制度の目的は、農民の移動を制限して彼らを食糧生産に従事させ、農産物を安く買いとることにあった。これにより都市住民の配給食は安値で確保され、中国は工業労働者の賃金を安く抑えることができ、工業を農民の犠牲の上に発展させたのである。

やがて毛政権が終わり、改革開放によって農村からの安い労働力が必要とされたため、戸籍制度は緩和されてきた。
だが急増する農村からの移住者により治安が悪くなることを恐れた党政府は、この制度を撤廃はしなかった。
また都市住民が「外地人は質が悪い」と言い、あからさまに農村からの労働者を嫌い、差別し、戸籍制度がなくなるのを喜ばないことも、この制度がなくならない理由かもしれない。

だから農村戸籍の人間は都市へ出稼ぎに来ても二、三年間、都市戸籍の持ち主より低い給料で使われた挙げ句に村へ返される。
しかも農村戸籍者の子供は都市で教育を受けさせることができないので、彼らは高い授業料を要求される私塾のような場所に行くしかない。だが多くの出稼ぎ労働者にそんな余裕はない。

結局の所、中でも外でも農民の権利は軽んじられており、不満だけが蓄積されていくのである。
しかもこの不満を抱えた農民たちは今後必然的に外に出ざるをえなくなるのである。

その理由が中国のWTO加盟にある。
実は中国の農産物の多くは外国産の農作物より競争力がない。つまり外国産の農作物の方が安いのである。
ただでさえ貧乏な農民は今後外国産作物に押されてますます貧しくなっていくことであろう。
そうなれば彼らは「外地人」として冷遇されようが、生きるために外に出ざるをえない。

そもそも農村の困窮の原因は、中国が急成長しているにも関わらず彼らの収入がまるで増加していないことにある。
何故彼らの収入が増加しないのかと言えば、狭い耕作地にあまりにも多すぎる農民がいるからである。
2002年度の中国人農家一戸辺りの耕作面積地はわずか0.6ヘクタールである。これは日本や韓国の一戸当りの耕作面積地の数分の一である。あの広大な国の住人が狭い島国や半島の人間より少ない土地に頼って生きているのである。
参考「農家一戸辺りの耕作面積地」;アメリカ、197ヘクタール。日本、1.6ヘクタール。中国、0.6ヘクタール。その比率、約328:3:1)

しかし普通に市場原理が働けば、農民は収入の少ない農業に見切りをつけて土地を売ったり、貸したりしてから、都市に流れるはずである。
そして人々が都市に流れることで農業従事人口が減少すれば、一人あたりの耕地面積は増加して農民の収入も増加する。そして工業が発展すれば都市へ流れる人口はますます増加し、同時に農民一人当りの耕作面積地も増加して、誰もが豊かになっていくはずだ。

ここで、この流れを疎外しているのが戸籍制度である。
先に述べたように農村戸籍の人間は都市では教育も受けられず、社会保証もなく、正規の就業機会が与えられていない。
こんな状態では都市に働きに出かけても、いつ失敗して農村に帰らざるをえなくなるか分からない。
そのとき、もし土地を他人に売ってなくしていれば、彼らは明日からどうやって生きていけばいいのであろうか?

つまり彼らは都市で成功する希望がないので土地を手放すことができないのである。自分の土地とそれによる自給自足は彼らの命の最後のセーフティ・ネットなのである。
だから誰も土地を手放さそうとはせず、その結果一人当りの耕作面積地は増えない。そのくせ彼らが都市で働いている間、耕作地は放置され荒れ果てていく。
悪循環だけがめぐっていくわけである。

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中国の農民の前途の暗さには、かける言葉もない。
しかしそんな本書にも明るい話題はあった。
それは安い授業料で子供達に教育を与え、非合法な存在とされながらも都市で生きる農村戸籍者の子供の為に学校を爪に火を灯すようにして運営している中国人の話であった。
そしてその学校で子供たちは「北京の子供たちは人を罵るのが好きだから嫌いだ」「彼らはすぐに田舎者をバカにし傲慢だ」と反骨精神を剥き出しにしてたくましく生き、「自分達は将来困っている人を助けるような人間になりたい」と公共性を身につけて成長している。頼もしいことである。
彼らの未来に幸多きことを願うばかりである。

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異常な人間が異常な制度を作り、異常な事件や異常な問題を次々と起こしている。
ああ、本当に中国というのは何て徹頭徹尾、異常なのだろうか。

中国に関する報告を見聞きするたびに、そういうことを言う人がいる。
彼らは「中国が異常な国である」ということを、ただ自分に納得させたいだけなのである。
あの国が自分達とは異質な存在ならば、安心して嫌い、蔑み、無視し、高みに立って見下していられるのだから。

確かに中国は厄介な国である。問題を多く抱えている。彼らとの価値観の違いにはうんざりさせられることも多い。
だが、そこにいるのは私たちとは異なる異常者などではない。
むしろ悲しいまでに私たちと同質な人々がいるばかりである。

彼の国では前例のない問題の数々が発生しており、政府が、その地に生きる人々が、試行錯誤を重ね失敗と挫折を繰り返しながらも、事態を改善させるべく懸命に努力をしている。
無力な人々が時代に翻弄されながら死にもの狂いで生にしがみついている。
苦悩があれば、希望も憎悪もある。悪意もあれば、義侠心もある。過去に縛られ、未来に悩む人々がいる。同じである。そこにいるのは鏡で映したかのように私たちと似た生き物たちである。

一体そんな人々をどのように見れば「異常者」に思えるのだろうか。
どうして彼らの努力や希望を異常者の奇行として笑うことができようか。

中国は一歩間違えれば悲惨なことになる状況に置かれている。
その時は私が幸多きことを願った彼らも無惨な人生を送ることになるだろう。
そして彼の国の混乱は日本をも巻き込まずにはおれないはずである。
だから私は、個人的な精神の安息と私の穏やかな未来の為に彼の国の安定と発展を願うのである。

清水美和「中国農民の反乱」

2006-02-24 17:53:18 | 
中国が抱える問題の中に「三農問題」と「貧富の格差」がある。
この2つは似たような問題であり、その問題点とは農民の収入がまるで上がらず、沿岸部の工業地域が豊かになる一方で農民は日々ひたすら貧しくなっているということである。

この事情を知りたくて、以前読んだ本が2002年に刊行された「中国農民の反乱」である。

この本において、まず著者は、農民が集団で共産党政府に「上訪」する例が急増していることを報告する。

「上訪」とは腐敗幹部の糾弾、賃金の未払い、土地紛争、補償問題などの解決を求めて、農民たちがより上級の政府機関に直接陳情する行為を指している。
その行動は過激化することもしばしばで、双方から死傷者が出ることもあるほどである。
そしてこの「上訪」は中国の報道機関においても、たびたび取り上げられる大きな問題となっている。
暴動などの報道を検閲している中国において事態がこれだけ表面化するということは、実際には更に多くの暴動が起きているものと思われる。

その上訪する農民たちは「農民領袖」と呼ばれるリーダーを持つ場合が多い。そのリーダー達の多くは村郷幹部の横暴に怒り、農民達に同情して行動を起こした者たちである。
その団結力は強く、警察が「上訪」の首謀者を逮捕に来ても、村人は誰も捜査に協力せず、むしろ匿(かくま)い、支援し、いざ「農民領袖」が捕まった時は激しい抗議活動を起こすのである。

そして彼らをそこまで過激な行為に走らせた原因は「腐敗幹部」と「土皇帝」にある。

まず問題なのは、多くの村や郷において党幹部が国務院の「農民の負担は前年度の収入の五%以下」という規定を勝手に破り、何かと名目をたてては農民から税を取りあげ無償労働を要求していることである。
例えば93年5月11日の「中国消費者報」は四川・仁寿における幹部の腐敗を以下のように報告している。

「多くの郷や鎮で幹部は負担を拒否する農民の家に押し入り、テレビなどの家財道具や豚や食糧などを奪い、歯向かう農民には暴力を振るった」

抵抗した農民の妻や子供をうちのめした。農民を手錠にかけて何時間も木に吊るした。

過重な農民負担を禁止する党中央の指示を村人に知られないようにするためにテレビニュースの時間には全村を停電させている。

中央の通達を村に張り出した農民を逮捕連行した。


ほとんど現代の話とは思えないような農奴のごとき待遇である。
それでいながら幹部たちは豪邸を建て、ハイヤーを雇い、その運転手の給料やガソリン代までも税金でまかなっている。
農民たちにしてみれば、その日の暮らしにも困っているのに、自分達の金で贅沢をされてはたまらないであろう。


そして「土皇帝」とは村郷において鉱山や工場などを経営し、多大な富を築き、まるで皇帝のように村郷に君臨する党幹部のことを指す。
もちろん資本家が企業を起こし公正な手段で裕福になっているだけならば、その反発は単なる嫉妬である。
しかし問題は、「土皇帝」が村人を不当に安い給料で酷使し、安全性を無視した環境で働かせ、事故が起きても補償せず、時には給料の未払いさえ起こしていることである。つまり幹部が権力を乱用して農民の権利を完全に侵害しているのである。
その一方で土皇帝は役人や監察官に賄賂を渡し自分達に不利な事実を揉み消し、親族たちだけで団結して利益を独占し「縁故資本主義」を始めるのだ。

このような「腐敗官僚」や「土皇帝」に反発し、農民たちの利益を代表して「農民領袖」が立ち上がり、頼りにならない地方官僚を無視して直接上級機関に陳情をするケースが増えている。
その過程で組織化し、過激化する集団が続出しているというわけである。これが現在起きている「上訪」問題の原因なのである。

もちろん治安と政権の安定を重視する共産党政権にとってもこの問題は重大であり、「上訪」した農民を罰するだけでは問題が解決しないことを理解している。
彼らは自分達の統治の及ばないところで村郷の幹部が勝手をしている状況を深刻に受け止めている。
中国の過去の多くの王朝が、地方の幹部が農民に重い徴税や刑罰を課すのを許した為に農民反乱を招き滅びていったのだから。

党の機関誌では「農民領袖」を英雄とみるかならず者とみるかで議論が交わされるなど、共産党内部にも「農民領袖」に同情する意見が存在しており、党中央組織の報告書は「最近発生した悪性の事件の大多数は幹部の粗暴な態度が引き起こした」と腐敗幹部を断罪している。

ちなみに例の仁寿では党政府の強い指導により事態は改善されつつあるという。
しかしその他の地域でも同様の問題は起きており、対処療法ではない根本的な制度の改革が求められている。

そこで共産党が音頭をとって実行した政策が安徽(あんき)省で実験的に行われた農民負担軽減政策である。
その中身は、農民の公共事業への無償労働力提供に対する制限日数の設定と段階的全廃。郷・鎮の留保金、義務教育の経費徴収の禁止などであった。更には国からの200万元の援助も与えられた。

しかしこの政策は予定をはるかに上回る税収不足を各村郷にもたらした。
特に各農村では学校教師に払う賃金が不足し、農村の義務教育制度が成り立たなくなってしまったのである。
農民の為に始めた政策が農民の教育水準を下げる結果になってしまったのだ。こうして実験は失敗した。

この義務教育の経費不足は全国的な現象であるらしく、税負担を減少させると多くの学校がとたんに破綻してしまうようだ。
中には学校内で子供に内職をさせて学校の運営費を稼ぐところもあるという。特に2001年には学校で爆竹造りの内職をしていた児童42名が爆死するという無惨な事故が起きている。

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農村内がこのような有り様なので都会に活路を求める者は当然増加する。
では外に出た農民たちにはどのような運命が待っているのであろうか。
それは「二等公民」としての差別的な待遇である。

(明日に続く)

私が「支那」という言葉を使う理由について

2006-02-21 23:07:58 | メモ
私は中国のことを好んで支那(しな)と呼ぶ。

「支那」という言葉は一般には差別語だとされ、一部の人たちが極めて感情的な反応を示す危険な言葉である。
特に報道機関などでは絶対に使ってはいけない言葉とされている。

それでも私がその言葉を使う理由は他人に不快感を与えるためであり、私を嫌悪させ、論争と罵倒を招き、この場を炎上させるためである。

ただし私はいたずらに他人に不快感を与えることを良しとはしない。
私が不快感を与えたい「他人」とは「言葉狩り」をすることが差別の改善に役立つと信じるような輩に限定される。
彼らは問題を隠蔽することで「解決した」と誤解するような倒錯した人間であり、自分たちの正義に反する異論を許さない集団であり、人権を錦の御旗に掲げているくせに他人の精神を尊重しない矛盾した存在である。

そこでまず私は、中華人民共和国とその人民を侮蔑する気持ちは微塵(みじん)のかけらも抱いておらず、彼らの全てに不快感を与えるのを望んでいないことを強調しておかなくてはならない。

私は支那の歴史書を好んで読んでおり、仮にかの国を嫌悪する気持ちを持っていたのなら、私はわざわざその国の歴史を学ぼうとはしないはずであり、また私の知人にはかの国の人々が何人もおり、私が彼らに対して敬意を抱きこそすれ侮蔑の念を抱くことなどはありえないと断言できる。

私はかの国の文化に対して敬意を抱き、現共産党政権の安定を願い、かの国が抱える多大な困難を嘆き、その人民の多くが安息を得られることを希望し、日本が今後ともかの国の問題解決のためにODAなどによる金銭的かつ人的援助を続行することを求めるものである。

私は「親支那派」であり、(左右という分類に何の意味もないことを知りながら敢えて言えば)私は「サヨク」である。


しかし差別意識がないとはいえ、公的な場で明らかな差別語を使うことは控えるべきだという意見にも一理はある。
そこで次に主張したいのが、この言葉を使う正当性についてである。

まず「支那」という言葉が広く知られるようになったのは、革命者 孫文が自分の目指す国家「中華民国」と当時の政権である清朝を区別するために、清朝をさして「支那」と呼んだことに求められる。

この言葉の背景には西洋列強の進出、日本帝国との外交や闘争、袁世凱、西太后とそれに連なる歴代皇帝たち、太平天国、義和団事件といった「崩れてゆく清朝」というイメージが存在していた。

これ以降「支那」という言葉には侮蔑的な意味が込められ、日本が日中戦争や大東亜戦争を通じて「中国」そのものを支那と呼び植民地支配したことから、支那は完全な忌み言葉となった。

しかし語源的には「支那」はCina(チャイナ)の音声に基づいた漢語訳で、古代インドにおける古代中国の呼称であり、かの大陸の文化圏を指し示す普遍的な意味がある。
そして欧米が語源を同じくするChinaを使うのを許して、日本語だけが遠慮する理由もない。
よってこの単語は根源的には差別語にあらず、明らかな差別語とみなすべきではないと私は考える。

よって私としては

一、この言葉を使うのは中華人民共和国の人々への差別意識からではない。

一、この言葉を使う正当な理由がある。

という二点を示したのであり、この二点に偽りがない限り私にはこの言葉を使う権利があると信じている。

この正当なる理由を理解した上でそれでも「支那」を使うのは不愉快だと言われる方には、「嫌がるほうが悪い」と私は返答する。



最後に付け加えておくと、私が罵倒とケンカを好むのは、衝突を通じて意見を出し合うことに意義があると考えるからである。
だが私は論争による相手の説得や和解を期待しているわけではない。

この世には価値観の違いというものが存在し、相反する2つの意見のどちらも間違っていないという矛盾があり、万言を尽くしたとしても決して相容れない隔たりがあることを私は知っている。

私が論争をする目的は決して正解を見つけて白黒決着つけることではなく、異なる価値観の存在を確認し、自分の意見が完全に正しいわけではないことを自戒し、それでもなお他人と相反する価値観を選択する覚悟を決めるためである。


しかし最近はネットにおいて反中国感情が高まり、私が支那という言葉を使っても誰も不快感を表明してくれなくなってしまった。

むしろ喜ばれる始末である。
まったくもって遺憾である。

どうやらネットの世界で嫌われるためには反中国的とみられる態度は不利であるようだ。
よって今後はネットにおいてのみは支那という言葉の使用を控えることにしようと思っている。

理解できない感情

2006-02-19 21:55:22 | メモ
とうとう私も携帯電話なる文明の利器を入手した。
会社からの命令で買わざるをえなくなったのである。

しかし購入してから二週間がたつが、いまだに一度も使用していない。

誰からも連絡は来ないし、誰にも連絡を取っていない。
そもそも電話番号を教える相手がいない。
おそらくこれからも、コレを使うことはほとんどないであろう。
私にとって携帯電話は少し大きめのデジタル時計でしかないのである。

簡単に言えば私には友人がいないのである。
そして私は友人を欲しいと思ったこともあまりない。

ただし仲間ならば欲しい。
なぜなら私は無能だからである。
私一人では人生における多くの困難を乗り切ることができない。
だから相互に助け合い、お互いの利益を保護しあう仲間は必要不可欠な存在だ。
彼らは有益な道具であり、また私も彼らにとっては便利な道具である。

そして一般にはこういう人間関係を「友人」とは言わないと私は聞いている。
「友人」というのはもっと他愛のない、利害関係を度外視した、契約を伴わない気楽な相互関係であるという。
私にはできないことである。利害関係なしに他人との付き合いを長期間維持するだなんて、一体どうすればいいのだろうか。
いや、どうすればいいのかは分かる。こまめに連絡を取ればいいのだ。
しかし利害関係のない他人と連絡を取るというエネルギーや気力がどこから湧いてくるのかが私には理解できない。

世の中には不思議なことがたくさんあるものだ。
そもそも私は人と人の間に生じる情や仁という概念がよく理解できない。

もちろん私は人でなしではないので、困っている人がいれば哀れに思い助けるし、苦しんでいる人間がいれば同情する。
しかしその感情は誰にでも平等に抱くものである。哀れみ、同情する相手は誰であってもかまわないのである。

一方「友情」や「愛情」というのは特定の誰かに対してにのみ抱く感情であろう。
それが分からない。もっとも分かる必要性も感じないので、分かりたいとも思わないのではあるが。

特に些細なことで他人を嫌い、無視し、自分達の価値観が通じる人間だけを友人として選別して閉じこもる人間を見ていると、友情などという概念は死ぬまで理解したくない感情だと思えてしまうのである。

酒は偉大なり

2006-02-18 23:18:51 | 個人的記録
こんばんはー。

どうも、どうも。
いえね、さっき研究室の冷蔵庫をあけたらバドワイザーと日本酒が入っていましてね、
それを今ありがたくいただいているところなわけです。

いえいえ、私は酔っていませんよ。

酔っていませんけれども、「酔っている」か「酔っていないか」のどちらかを二者択一で選べと言われれば、前者を選ばないといけない状態であることは認めざるをえないことも事実であります。

でも酔ってませんよ、今の私はh

ところで、父の実家は造り酒屋でしてね。

もっとも、正確に言えば実家ではなくて居候(いそうろう)なのですけど、

ああ、違うか。正確に言えば居候なのですけど、父の実家は造り酒屋なのです。
そういう細かい事情はさておきまして、父の縁で私も酒とは関わりが深いはずだったのですが、昔の私はまるでアルコールが飲めませんでした。

特に町内会で行ったキャンプ場でウイスキーを一口飲まされて、笑いながら夜の森の中に消えていった「軽井沢失踪事件」以来、うちの家族が私にお酒を飲ませてくれなくなりまして、友達のいない私は酒の席に出る機会もなく、長い間完全に酒との縁が切れることになったわけです。

それで22年間私は自分が下戸だとばかり思っていました。
ですが大学院に入ってから酒盛りに何度も参加しているうちに、意外と自分が酒を飲めることに気がつきまして、今ではすっかり昼間から酒を飲むクズ野郎に成り下がっているわけであります。


そうそう、その造り酒屋は、最近新しく職人を招いて吟醸酒を作り始めています。
たまに彼らが池袋とか新宿のデパートでやる物産展に出店するときには、私も売り子として手伝いをして、そのお礼にそのお酒がもらえるわけです。
「松竹梅」大安売りセールばかり飲んでいる身には吟醸酒はアリガタイことです。


ところで、今の私は一人で飲んでいます。
酒は一人で飲むに限ります。
単に友人がいないだけというのもありますが。

そう言えば中国の漢の時代には「群飲」が禁止されていたそうです。
つまり3人以上でお酒を飲むと罪になって罰金刑が下されたわけです。
だから宴は国家の慶事における民爵賜与のときや祭りや婚姻などの「礼」の席でのみ行うことが許されていたわけです。

この禁止令の裏には興味深い理由があります。

まず今から約2220年前、始皇帝を生んだ秦は戦国時代を勝ち上がり、各地を支配していた諸王に代わり官僚を派遣して各村々を直接統治するという群県制をしき、中央集権国家「秦帝国」を築いたわけです。

ですがその統治は各地の官僚による農民の圧迫をもたらし、ついには大規模な農民反乱を連鎖的に起こすはめになり、秦帝国はわずか2代目にして滅亡したのでした。

次の支那の支配者となった漢王朝は同じ轍をふまないように様々な工夫をしました。
特に農民の生活を安定させつつ、彼らを支配下に確実に組み込む必要がありました。

そんな漢王朝が農民たちを社会秩序に組み込むために実行したのが、国家の慶事の際に皇帝だけが人民男子に爵位を与えることができるという「民爵制度」でした。
これは農民にも貴族のように爵位が与えられるという世界でも、中国においてでも珍しい身分制度でした。

そしてこの「爵位」は貯蓄することが可能で、既に1度民爵賜与を受けていれば、次の民爵賜与のときには更に一つ上の階級に登ることができ、農民は8番目の階級まで昇ることが許されたのです。

つまり長生きすればするほど「民爵賜与」される機会が増えて年長者が年少者より偉くなり、「父老」が「子弟」を指導するという旧来の郷土的社会秩序が自然な形で皇帝の権威による「民爵制度」にすり替わっていったのです。

そして「民爵賜与」のときは、必ず同時に里ごとに牛肉と酒がふるまわれ、5日間の宴会を行うことが許されたのです。

群飲が禁止されていた当時、酒が飲める席は「礼」、つまり宗教祭礼的な意味を持った場でした。
実際、この宴会は里の神社などで行われました。
そして酒の席では爵位の序列によって座席が決められていました。
これにより「神聖な共同飲食儀礼において、新しい爵位の序列によって定められた席に着座するということは、爵位による里内の新しい身分秩序が相互に確認される機会になるのみならず、その身分が秩序が神前で確定したという誓約的性格をもつものとなり、それによって、その後の里内の生活秩序が規律されたことに」なったのです。
(西嶋定生「秦漢帝国」(講談社学術文庫)より引用)

つまりこれは酒と権威を通じて行われた人民統治であったのです。
漢の時代、酒とは人を結びつけ、支配するための道具でした。面白い話であります。

酒は素晴らしい。発酵万歳!微生物は偉大なり!

ちなみに冷蔵庫の中には他にもワインが入っていたのですけども、あの野郎は酢になっていやがりました。