この本は著者が1979年当時のはたらく若者たちへ取材した記録をまとめたものである。
私はこの本を読んで、働くということについて思いをはせてみた。
製鉄所で働く青年は言う。仕事がおもしろいなんていうヘンな話は聞いたことがない。おもしろくなんかない。
単調ですぐに飽きがくる仕事。平均寿命65歳という肉体的にきつい仕事。大学出との待遇の違い。むくわれない愛社精神。徹底した管理体制。
彼らは人生の楽しみを、仕事にではなく家庭や酒、車、パチンコなどの余暇に見い出している。
働くこととは生きていくこと。職場は生きるための場所。
人生を楽しむのは別の場所でやる、ということなのであろう。
肉体労働者は働き続けないと生きていけない。
長距離トラックの運転手は眠気を抑えて一往復でも多く、車を走らせようとする。
国有林の伐採作業員は、減り続ける仕事に悩み、チェーンソーの振動からくる職業病、手の震え、全身のしびれ、性的不能などに耐えながら森で暮らす。
線路の修繕作業をする日雇いの人々は、ひどい寒さと高速で目の前を走り抜ける列車の圧迫感にさらされ、管理職との待遇の差に不満を持ち、「あんなふうになったらいかんよ」と言う無神経で教養のない人間にさげすまれながら、それでも自分の仕事に誇りをもって生きている。
港の荷物の積み出し作業には流れ者や荒くれ者たちが集まる。
流れ者はその日暮らしの生活をする。老後や将来を考える余裕はない。
過酷な労働条件のなかでは、体力だけが頼れる資本だ。
しかし中には体力のない者がいるが、荒くれたちはそんな彼らをかばい、彼らはあえて危険な仕事に自分から名乗りをあげている。
知的な職業だって楽ではない。
システムエンジニア(SE)は日々進歩する技術についていかないといけない。
しかし仕事に忙殺される中で新しい技術を身につけるのは困難だ。
システムエンジニア35歳定年説というのがある。つまり「SEはいつまでも続けることのできない仕事だ」という意味である。
SEを定年したあと管理職に移れる人はいいが、会社を辞めるしかない人は大変だ。
私の知り合いにもSEになった人は多いが、彼らの過酷な労働環境を見ていると「使い捨て」という単語が脳裏に浮かぶ。
残業、ノイローゼ、入院、退職。暗い話はいくらでも聞こえてくる。
核融合炉のシュミレーションをしていた知人は警察官になり、別のSEになった知人は司法書士になろうとしている。
仕事が楽しい、と言う人も中にはいる。
はえ縄漁船の漁師は「マグロ釣りは博打だ」と言う。一匹釣れば大儲け。そのスリルと充実感は忘れられないそうである。
仕事で自己実現。なんとも嘘臭い言葉だが、楽しい仕事というのは確実に存在する。
事実、私は印刷屋の仕事が楽しくて好きだった。
需要が少ないゆえに続けるわけにはいかない仕事もある。
DJがそれだ。(当時の話。今はどうだか知らない)
この世界でトップクラスの実力者になっても、この仕事では生きていけない。
しょせんは若い間だけできるバイトのような仕事である。
「需要が少ないゆえに優秀な人でも仕事にありつけない」という意味では理論物理学の世界も同じである。
東大や京大で10年に1人の逸材、と言われるような人でさえ研究職につくのが困難な世界なのだから。
生まれが仕事に制限を与える場合もある。
朝鮮人、在日韓国人は大学を出ても企業が雇ってくれない。納税などの義務を果たしても、社会保障などの権利は十分に認められていない。
彼らが政治に関心はなくとも、彼らの存在自体が「政治的なもの」になってしまう。
なんとも面倒くさい立場である。
まず彼らは医者を目指す。資格さえあれば生きていける仕事だ。
しかし誰もが医者になれるわけではない。次に彼らは資格も国籍もいらない仕事を目指す。
廃品回収業者や工場の作業員になるのだ。
千差万別、多種多様。
この本を読んで私は働くということが、ますます分からなくなった。
しかしそれは分かる必要もないことでもある。とにかく口を動かす前に身体を動かせ、考える暇があるなら仕事に行け、である。
***********************
(個人的見解:在日朝鮮人が受け取るべきサービスについての考察)
在日朝鮮人は、彼らの果たしている義務に対して十分な権利が与えられていないとされている。
彼らの要求する権利の中身としては、社会保障、一般教育、公務員採用、職業機会均等、日本地方参政権、日本国政参政権、登録証不携帯、登録証廃止、帰化簡易化がある。
もし彼らを差別をするなら明確に彼らの権利を制限し、差別すればいいのである。その代わり免税など彼らの義務の方も軽減すればいい。もし彼らが優遇されるのが我慢できなというケチなことを言いたいのならば「外人税」でも導入すればいい。
今のように同じ名目で金を払わせておきながら、同じ商品を渡さないのは問題だ。と、私は思っている。
「同じ商品」の中身についてだが社会保障、教育、中間管理職クラスの公務員への採用は与えるべきだと思っている。少なくとも国益には反しないサービスである。
ちなみに、ここで言う国益とは治安の維持、生産性の向上、行政機能の維持のことである。旗とか歌のことではない。
登録証などについてはどうでもいい。それは彼らにとって少し不便なだけである。私は実害のない差別は容認し、無視する主義である。
参政権については民主主義とは何かという思想の問題になるのでめんどうだ。私のように選挙制度を過大評価していない人間は選挙権を金(納税)で買うことに反対はない。
税は公共サービスに対して支払われる代価であり、参政権は「国民の義務」に対して与えられるものだと言う人もいる。もっともな話である。
しかし日本にも「徴兵制」のような分かりやすい基準があればいいのだが、軍隊を持たない国では「国民の義務」は「納税」とほぼ同意義語である。一過性の不法滞在者や外国人労働者や旅行者ならともかく、長期滞在している彼らは「納税」についてならば私たち同様の義務を果たしている。
さて、どうします?
だが、やはり参政権や国籍なんて何の意味もない話である。彼らの生活環境の改善にも国益にも何の影響もない(と私は考えている)。あんなのは、愛国者と朝鮮人のたんなる意地のはりあいでしかない。つまらないケンカだ。
やはり問題にすべきは彼らの生活に直接影響を与え、社会不安の原因になりかねない社会保障、教育や職業機会の不平等の改善であろう。
私はこの本を読んで、働くということについて思いをはせてみた。
製鉄所で働く青年は言う。仕事がおもしろいなんていうヘンな話は聞いたことがない。おもしろくなんかない。
単調ですぐに飽きがくる仕事。平均寿命65歳という肉体的にきつい仕事。大学出との待遇の違い。むくわれない愛社精神。徹底した管理体制。
彼らは人生の楽しみを、仕事にではなく家庭や酒、車、パチンコなどの余暇に見い出している。
働くこととは生きていくこと。職場は生きるための場所。
人生を楽しむのは別の場所でやる、ということなのであろう。
肉体労働者は働き続けないと生きていけない。
長距離トラックの運転手は眠気を抑えて一往復でも多く、車を走らせようとする。
国有林の伐採作業員は、減り続ける仕事に悩み、チェーンソーの振動からくる職業病、手の震え、全身のしびれ、性的不能などに耐えながら森で暮らす。
線路の修繕作業をする日雇いの人々は、ひどい寒さと高速で目の前を走り抜ける列車の圧迫感にさらされ、管理職との待遇の差に不満を持ち、「あんなふうになったらいかんよ」と言う無神経で教養のない人間にさげすまれながら、それでも自分の仕事に誇りをもって生きている。
港の荷物の積み出し作業には流れ者や荒くれ者たちが集まる。
流れ者はその日暮らしの生活をする。老後や将来を考える余裕はない。
過酷な労働条件のなかでは、体力だけが頼れる資本だ。
しかし中には体力のない者がいるが、荒くれたちはそんな彼らをかばい、彼らはあえて危険な仕事に自分から名乗りをあげている。
知的な職業だって楽ではない。
システムエンジニア(SE)は日々進歩する技術についていかないといけない。
しかし仕事に忙殺される中で新しい技術を身につけるのは困難だ。
システムエンジニア35歳定年説というのがある。つまり「SEはいつまでも続けることのできない仕事だ」という意味である。
SEを定年したあと管理職に移れる人はいいが、会社を辞めるしかない人は大変だ。
私の知り合いにもSEになった人は多いが、彼らの過酷な労働環境を見ていると「使い捨て」という単語が脳裏に浮かぶ。
残業、ノイローゼ、入院、退職。暗い話はいくらでも聞こえてくる。
核融合炉のシュミレーションをしていた知人は警察官になり、別のSEになった知人は司法書士になろうとしている。
仕事が楽しい、と言う人も中にはいる。
はえ縄漁船の漁師は「マグロ釣りは博打だ」と言う。一匹釣れば大儲け。そのスリルと充実感は忘れられないそうである。
仕事で自己実現。なんとも嘘臭い言葉だが、楽しい仕事というのは確実に存在する。
事実、私は印刷屋の仕事が楽しくて好きだった。
需要が少ないゆえに続けるわけにはいかない仕事もある。
DJがそれだ。(当時の話。今はどうだか知らない)
この世界でトップクラスの実力者になっても、この仕事では生きていけない。
しょせんは若い間だけできるバイトのような仕事である。
「需要が少ないゆえに優秀な人でも仕事にありつけない」という意味では理論物理学の世界も同じである。
東大や京大で10年に1人の逸材、と言われるような人でさえ研究職につくのが困難な世界なのだから。
生まれが仕事に制限を与える場合もある。
朝鮮人、在日韓国人は大学を出ても企業が雇ってくれない。納税などの義務を果たしても、社会保障などの権利は十分に認められていない。
彼らが政治に関心はなくとも、彼らの存在自体が「政治的なもの」になってしまう。
なんとも面倒くさい立場である。
まず彼らは医者を目指す。資格さえあれば生きていける仕事だ。
しかし誰もが医者になれるわけではない。次に彼らは資格も国籍もいらない仕事を目指す。
廃品回収業者や工場の作業員になるのだ。
千差万別、多種多様。
この本を読んで私は働くということが、ますます分からなくなった。
しかしそれは分かる必要もないことでもある。とにかく口を動かす前に身体を動かせ、考える暇があるなら仕事に行け、である。
***********************
(個人的見解:在日朝鮮人が受け取るべきサービスについての考察)
在日朝鮮人は、彼らの果たしている義務に対して十分な権利が与えられていないとされている。
彼らの要求する権利の中身としては、社会保障、一般教育、公務員採用、職業機会均等、日本地方参政権、日本国政参政権、登録証不携帯、登録証廃止、帰化簡易化がある。
もし彼らを差別をするなら明確に彼らの権利を制限し、差別すればいいのである。その代わり免税など彼らの義務の方も軽減すればいい。もし彼らが優遇されるのが我慢できなというケチなことを言いたいのならば「外人税」でも導入すればいい。
今のように同じ名目で金を払わせておきながら、同じ商品を渡さないのは問題だ。と、私は思っている。
「同じ商品」の中身についてだが社会保障、教育、中間管理職クラスの公務員への採用は与えるべきだと思っている。少なくとも国益には反しないサービスである。
ちなみに、ここで言う国益とは治安の維持、生産性の向上、行政機能の維持のことである。旗とか歌のことではない。
登録証などについてはどうでもいい。それは彼らにとって少し不便なだけである。私は実害のない差別は容認し、無視する主義である。
参政権については民主主義とは何かという思想の問題になるのでめんどうだ。私のように選挙制度を過大評価していない人間は選挙権を金(納税)で買うことに反対はない。
税は公共サービスに対して支払われる代価であり、参政権は「国民の義務」に対して与えられるものだと言う人もいる。もっともな話である。
しかし日本にも「徴兵制」のような分かりやすい基準があればいいのだが、軍隊を持たない国では「国民の義務」は「納税」とほぼ同意義語である。一過性の不法滞在者や外国人労働者や旅行者ならともかく、長期滞在している彼らは「納税」についてならば私たち同様の義務を果たしている。
さて、どうします?
だが、やはり参政権や国籍なんて何の意味もない話である。彼らの生活環境の改善にも国益にも何の影響もない(と私は考えている)。あんなのは、愛国者と朝鮮人のたんなる意地のはりあいでしかない。つまらないケンカだ。
やはり問題にすべきは彼らの生活に直接影響を与え、社会不安の原因になりかねない社会保障、教育や職業機会の不平等の改善であろう。
ここに予定書いてあります。
http://blog.goo.ne.jp/polestar_0/cmt/2a54f26b70be28ed5d78742284a195e4
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