玄文講

日記

理解されたがる人々

2005-01-02 15:08:33 | 
「他人に自分を分かって欲しい」という願望ほど人間を堕落させるものはない。
何故ならそんなことは不可能だからだ。しかも彼らの一部は理解されない事を逆恨みして、他人を憎んだり、世の中に対してすねてみせたりする。

また、誰かを好きになるとき、その人の物の考え方や嗜好までをも自分の理想形に重ね合わせようとする人がいる。
これは好かれる方にとってはかなり迷惑なことである。
こういう思考が暴走するとストーカーになったり、その人物の自分の考えとは異なった言動に対して“裏切られた”と思いこんでネットで糾弾しはじめたりするようになる。
裏モノ日記 12月13日より引用、一部改)

ではこのような事態に陥らないようにするためにはどうするべきだろうか?
「思い込みや勘違いの一方的な関係ではなく、誠実に相手に接し、相互の理解をより深めていけばいい」と思われる方もいるだろう。

しかしそんなことは不可能である。
どれだけ努力したとしても人が他人を理解することはできない。
できるのは相手を完全に理解したと思い込むことだけである。
もちろんわずかばかりの理解ならば可能かもしれない。だが「相手を理解できる」という信念はおうおうにして「理解できない人間を憎む」という結果に陥ってしまうのではないだろうか?

池波正太郎氏の「剣客商売」の中で凄腕の老剣士、秋山小兵衛は言った。

人間という生きものは、だれでも、勘ちがいするのだよ。

……ごらんな。太閤・豊臣秀吉や、織田信長ほどの英雄でさえ、勘ちがいしているではないか。なればこそ、あんな死にざまをすることになった。わしだってお前、若い女房をこしらえたのはよいが、それも勘ちがいかもしれぬよ。

人の世の中は、みんな、勘ちがいで成り立っているものなのじゃよ



大平天国の乱を描いた小説「曾国藩」の中で著者の叢(ソウ)氏はこう言った。

そもそも、世の中は誤解でバランスが保たれている。誤解がなければ、人類はとっくに滅びているだろう。

反政府軍である大平天国の王たちは互いに理解しあうことを求め、互いに理想を押しつけあい、結局は内部分裂して崩壊した。
それに比べ、始めから相互の理解を求めず、ただ大平天国の鎮圧だけに専念した曾国藩たちは驚くべき団結力でもって勝利した。

このようなことになった原因は簡単だ。
理想に生きる者は理想を同じくしない者に絶望し、これを激しく憎むようになるからだ。
このことは共産主義という理想に生きた者たちが凄惨な粛正や内ゲバをおこした事件からも分かるだろう。
理想と正義に生きる人たちが互いを「裏切り者」とののしりあい、殺しあうのは歴史の必然である。
一方で目的の為に生きる者はどれだけ異質で嫌な人間でも役にたつ限りは尊重し続ける。

彼らは「他人を理解する」という無駄な努力をしない人たちであった。しかし彼らは「他人」は理解しなくても、「人間」というものならば理解していた。
「人間」を理解している者ならば、「他人」の全てを理解できるなどとは絶対に考えないからだ。

もう一つ、例をあげよう。

アメリカのコミュニケーション学者A・マレービアンが行った実験によれば、メッセージが伝える感情のうち、言葉による感情表現が占める比率は七パーセントに過ぎず、声による感情表現が三八パーセント、顔による感情表現が五五パーセントをも占める。

(江下雅之「ネットワーク社会の深層構造」より引用)

七パーセント。

たった七パーセントである。言葉は伝わらないものである。

ネットでのコミュニケーションにおいても主に使われるのは文字や言葉である。そこでネット上においては発信者の意思は七%しか伝わらないとしよう。

すると情報の受け手は足りない九三%の情報を自分で補うしかない。
すると相手の感情を自分で勝手に予想して埋めていくので、誇大解釈が起こりやすくなる。つまり感情が増幅されやすくなるのだ。

そのためネット上での会話はすぐにヒートアップして大喧嘩になったり、大恋愛に発展しやすくなるのである。
しかしその実、彼等が憎んだり愛したりしている対象の九三%は自分が心の中で作った情報かもしれないのだ。

私たちは他人を理解しているつもりになって、その実 自分の頭の中で作ったイメージだけを理解していたりするのである。

誰も他人を理解することはできない。それでは人は本質的に孤独な生き物なのだろうか?私はそんな「したり顔」で語られる孤独主義を否定する。
理解などなくても、愛することならばできるからである。
もし相手の全てを理解しないとその人物を愛せないと言うのならば、それは不幸なことだ。
西原理恵子さんのマンガ「ぼくんち」の中で、自分になつかない養女をもらったコウイチ君は言った。

家族ってなんだろね。ぼくは分かりあえなくてもいいと思ってる。

コウイチ君はそう言ってから、漁師をしてかせいだ3千円を港に迎えに来た奥さんと養女に渡すと、夕暮れの町を一緒に帰っていった。コウイチ君は家族のことを理解していなくても、愛しているのだ。

理解されることを望む人間は不幸だ。何故なら完全に理解されることなんて絶対にありえないからである。
それに比べて愛されることを望むのは、これもむずかしいことだが、理解されるよりはまだ望みがある。

もっとも「理解されたがる人間」も「愛されたがる人間」も迷惑な存在ではある。
その種の欲望をさらけ出している節操のない人たちには、あまりお近づきになりたくないものである。

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