for today 科学に目を向けよう

短文


我是三四六岁 
(旅の相棒募っています 乙女)

君の名は?

2016年10月23日 16時15分56秒 | 鑑賞

また会ったね

同じ時刻だっただろうか

他とは違って、優雅な飛行に目を奪われた

その小さくなっていく姿を探したり、旋回して再び姿を現し・・・

けれど翼を小刻みに動かしもせず、空に浮いている

土壁色で黒茶のバーコード柄も見えた

グライダーだったら、君と同じような飛び方をするだろうか

気持ちいいだろうなあ、その背中からの視界は

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そして昨日の映画の後で、「二度目だけど、よくわかんない」 とカップルの内の女の子の発話。

見ていて頭の中でニュース記事やらが動き出していた。

まだひょっとしたら故人が、今暮らしている人の何気ない日常にふと思い出される一瞬もあるだろう。

ときどき日々の折々に言葉にして表さなくても、あるいはもう思い出しもしなくて、気持ちを馳せてつないでいる故人への個々の過去の記憶との交流。

あるいは、何かの表現物がぽんと人の心を打って入り込んでしまう告げるはずもないようなささやかな共有感情やら感覚。

電話も連絡もしないのに、親子は不思議とその苦境を(親子だからこそ)感じ取って、言語化する前に夢で解消して創作して現れる時もある。

現実には遠く離れたアフリカ旅行中の熱にうなされているちょうどその時に、日本にいる家族が異国の子供の夢を見ていたとか・・・

それを摩訶不思議のように繋げる心理学上のトランス(?)だとか、心理現象に名前をつけて呼んだり、

創作が人の心をとらえる文芸芸能にして取り上げたりとか・・・また危うい問題にも・・・・

けれど、昨今のように不意の自然現象で命を落としたり、寿命とはいったい何なのだろうかと、投げかけたくなる人もいるだろう。

そんな解決のつかない、気持ちの問題を創作は見る者に共鳴させ、どこか代弁してくれたようで、ほろりと感情がほぐれ塊が融けて軟らかく薄まる作用もある。

いろいろなことを感じさせるのが広がりのある作品だろう。

「とりかえばや、男と女」

大きな震災に見舞われたことを異世代はどう受け止めているだろう。今後も更にありうるかもしれない。繰り返される悲劇モードを別の形で表現するのも

それを直接示唆しなくても、クリエイターが別の形で啓示し、けん引するのも将来への進展だ。

と、とりとめもなく考えていた。

 

そして、驚かされたこと ITによる記録の危うさを数秒で表していた。私たちが日々こうしてIT社会で便利に留め置く蓄積は、電源や電波施設の破壊で

なくなってしまうだろうし、それに頼っている私たちは、その時に愕然とする人もいるだろう。バックアップなど普段は気に留めもしなくて

些細な事が記憶確認できず、騒ぎ出す。どうしてあの人に繋げよう、あの記事はどこへ行っただろうかなどと。病床の人なら猶更だろう。