80ばあちゃんの戯言(2)

聞いてほしくて(つづき)

私の人生(18)

2016-10-22 10:18:11 | 最近の出来事
話は戻りますが、私が生まれたのは1930年、昭和

5年ですが、世の中にはいろいろと不穏な空気が流れ

はじめていたようで、翌、昭和6年には満州事変が勃発

更に,翌々、昭和7年5月15日には海軍の青年将校が

当時の総理大臣犬養毅を総理大臣官邸で襲い、銃で大怪

我をさせ、その後怪我が悪化し亡くなったという事件が

起こりました。

その後のことですが、中学生や高等学校生だった親戚の

お兄さん達三人が、一辺約10センチ、厚さ1センチく

らいの白い箱に入った物を持って遊びに来たのですが、

三人が、頭をくっつけるようにして、ああでもない、こ

うでもないと言いながら、その箱の中の小さな木片を

縦横にスライドさせて、わあわあ騒いでいたのです。

一番大きな木片にはコミンテルンと書いてあり、正方形

で、他の木片はその4分の一の正方形のものと、それを

二つつなげた矩形のものでした。それらにも何か印刷

されていたかと思うのですが、記憶にはないのです。

一番年上のお兄さんが、これはね、コミンテルンと書い

てある一番大きな物が今は手前にあるけれども、悪い奴

だから、一番奥の真ん中に持っていって、閉じ込めると

と言うゲームで、矩形のものと正方形の駒を何とか上手

に動かして、出来た空間に少しづつ駒を入れ動かしてい

くんだと教えてくれましたが、コミンテルンの意味も

よく解らず、なんとなく不安な気持ちになりました。



昭和11年2月26日、朝目が覚めた時、障子の色が

何時もより妙に白く見え、そっと開けてみると廊下の

ガラス戸の向こうに私が生まれて初めてみた雪景色が広

がっていたのです。 数えの7歳の時でした。

私の長い人生の中で、大雪は7、8回しかないのですが、

あれほどの大雪が積もったことはなかった気がします。



祖母が、新しい四つ身の着物とお対の布で作った綿入れ

のお被布を着せてくれ、今日は特別寒いからと、背中に

真綿を背負わせてくれました。

真っ赤な可愛いおべべに私は嬉しくてはしゃいでいたの

ですが、そこに、近所の魚屋さんのお兄ちゃんが経木片手

に、一足、一足、長靴が埋まりそうなほどの深い雪を蹴散

らしながら、御用聞きにやってきました。

台所で、祖母と母に、何やらひそひそと話し始めたのです。

私はチョコチョコと台所に入っていきました。

”偉いことになりましたね。 陸軍の青年将校率いる軍隊

 が総理大臣や大蔵大臣とか大臣方の官邸を襲って、殺し

 たり重傷を負わせたりしたそうですよ。 

 東京の辻々に完全装備の軍隊が居て、通る人々に訊問し

 たりとか・・。 大変な騒ぎだそうで・・・。”

 ”あなた達は何も心配しないでいいのよ。”と、母に言わ

 れたが、解らないながらも、何か大変なことが起こってい

 るらしいと言うことがひしひしと感じられた。

 その後、我が家のラジオは鳴りっぱなしになった。

 これは、いわゆる226事件の日の話である。


 その後、

 勅命下ル  軍旗に 手向カフナ と書いたアド

 バルーンが大空に揚げられた。

(昔の言葉使いで、手向かうなの意味)



 事件の首謀者となった青年将校たちの親兄弟が

 呼び出され、彼らの説得に当たったとか。

 心ならずも反乱軍とみなされてしまった青年将校

 たちの軍隊は三方から囲まれて身動きが取れなく

 なった。



 何も知らないでこの 事件に巻き込まれてしまった

 下士官や兵士たちに向かって



 下士官 兵ニ告グ

一、今カラデモ 遅クナイカラ 原隊ヘ帰レ

二、抵抗スル者ハ 全部 逆賊デアルカラ射殺スル

三、 オ前達ノ 父母兄弟ハ 国賊トナルノデ 

   皆 泣イテオルゾ

二月二十九日  戒厳司令部

という 呼びかけが行われた。 




兵に告ぐは、再三ラジオで放送された。

会社から帰った父にも、私達はいろいろと聞かされたが、

本当に父の話は名調子であった。ラジオもテレビも

なかった子供時代を過ごした人々は、どんな風に訓練

されていたかと思うくらいに話し上手の人が多かった

気がしているのだが、、、。?