(株)藤工業~「最高の外壁・防水リフォーム」ゼニス工法

外壁補修専門業者として、 ビル・マンションの大規模修繕・改修(クラック補修・防水・シーリング)工事等を行っています

子供時代-2

2014-02-26 15:00:09 | 防水工事・ゼニス伸縮目地防水工

田舎に疎開しての住まいは、まさに掘立小屋で、かなり室内は広かった様な気がしましたが、かべは、杉の皮で風の侵入を防ぐ程度のもの、部屋のほぼ中央にくど(かまど)があり焚口は3口有、板の間(部屋)から薪を入れるようになっていて、その板間の下には、地下貯蔵庫があり、そこには、たくさんのさつまいもがもみ殻と一緒に貯蔵されていました。そこから出しては、くど(かまど)で焼き芋をして食べて茶がゆの後の空腹を満たしていたものです。その当時電気がなく、石油(灯油)を燃料にランプの生活でした。物心がついた私達子供は、そのランプの保谷(ほや)の煤掃除を仕事としていました。※手が小さいので、保谷の掃除には子供の手が最適ということでしたが、誤って割ろうものならえらいことになるので、子供心に苦労したことを覚えています。そうそう前回のブログで、兄弟9名と書きましたが、実際は、1948年8月に弟が生れて9名になりました。

専務の子供時代-1

2014-02-07 16:40:02 | 防水工事・ゼニス伸縮目地防水工
消費税値上げ前の駆け込み需要対応に追われなかなかブログに手がまわらないものですから、しばらく私(専務)が担当していきたいと思います。
 下手なゴルフは寒い間は封印ですので、田舎の子供のころを少し書いてみたいと思います。私が育った田舎は、和歌山県西牟婁郡川添村竹垣内と言う地名で山また山の秘境に近い集落です。10戸ほどの人家が、将軍川と言う川沿いの少し開けたところに、1軒また一軒と点在していました。私の家族は、両親に兄姉9名の11名家族で当時「生めや増やせ」の国策?子沢山でした。もともと父親が、勝浦で炭問屋をやっていましたが、戦況が激しくなり、親戚を頼って、私が生れた年(1944年)に疎開したようです。そこでの生活は厳しく、長兄は徴兵され中国戦線へ、次兄は満蒙開拓団で、現在の中国(満州)に渡り、働き手がない状況で父母と3番目の兄が杉山を田んぼや畑に開墾し、米やさつまいもを作り主食に充てていました。もちろん白米のご飯は1食のみあとは、茶がゆ(和歌山独特の粥)をすすって空腹を紛らわしていました。