田舎に疎開しての住まいは、まさに掘立小屋で、かなり室内は広かった様な気がしましたが、かべは、杉の皮で風の侵入を防ぐ程度のもの、部屋のほぼ中央にくど(かまど)があり焚口は3口有、板の間(部屋)から薪を入れるようになっていて、その板間の下には、地下貯蔵庫があり、そこには、たくさんのさつまいもがもみ殻と一緒に貯蔵されていました。そこから出しては、くど(かまど)で焼き芋をして食べて茶がゆの後の空腹を満たしていたものです。その当時電気がなく、石油(灯油)を燃料にランプの生活でした。物心がついた私達子供は、そのランプの保谷(ほや)の煤掃除を仕事としていました。※手が小さいので、保谷の掃除には子供の手が最適ということでしたが、誤って割ろうものならえらいことになるので、子供心に苦労したことを覚えています。そうそう前回のブログで、兄弟9名と書きましたが、実際は、1948年8月に弟が生れて9名になりました。
田舎に疎開しての住まいは、まさに掘立小屋で、かなり室内は広かった様な気がしましたが、かべは、杉の皮で風の侵入を防ぐ程度のもの、部屋のほぼ中央にくど(かまど)があり焚口は3口有、板の間(部屋)から薪を入れるようになっていて、その板間の下には、地下貯蔵庫があり、そこには、たくさんのさつまいもがもみ殻と一緒に貯蔵されていました。そこから出しては、くど(かまど)で焼き芋をして食べて茶がゆの後の空腹を満たしていたものです。その当時電気がなく、石油(灯油)を燃料にランプの生活でした。物心がついた私達子供は、そのランプの保谷(ほや)の煤掃除を仕事としていました。※手が小さいので、保谷の掃除には子供の手が最適ということでしたが、誤って割ろうものならえらいことになるので、子供心に苦労したことを覚えています。そうそう前回のブログで、兄弟9名と書きましたが、実際は、1948年8月に弟が生れて9名になりました。