木片。 - カトカト日記 ~霊園・墓石の株式会社加登 公式ブログ~

木片。


先日、京都で催されている「円空・木喰展」を訪れました。

前々から円空仏には惹かれるものがあり、
一度はこの目で直に触れてみたいと思っていたので、開催を知ったときはなかなかの嬉しさでありました。

まずは京都駅ビル内の「粒麺小路」に店を構える、博多豚骨ラーメンの有名店「一幸舎」にて腹ごしらえ。
味玉ねぎチャーシュー麺、超美味でした。豚骨に感動を覚えたのは久し振りですわ。
げふ。

さて、本題に入りますが、円空(えんくう)、木喰(もくじき)のふたりはともに江戸時代の遊行僧で、全国を行脚しながら多数の仏像を残しました。
特に円空は64歳で入定するまでに12万体もの像を彫ったと言い伝えられており、
現在確認されている作品だけでも5,000点を超えるとのこと。

写真などの平面でしか見たことのなかった円空仏ですが、
この3次元において悠々と鎮座するお姿を目の当たりにして、
「やっぱりナマはいいね」
などと夏場のビールのCMみたいなフレーズが口をついて出てしまう僕。

ライティングの妙もあるんでしょうが、
見る角度によって表情を変えるのがまるで本当に魂が通っているようで、
やわらかに笑む口元を見ていると、今にもやさしく話しかけてくれそうな気さえしてくるのです。

「芸術作品(と呼んで差し支えないでしょう)とは見る側の心を映す鏡だ」てなことがよく言われますが、
円空の作品もまたそれ自体で完結しているというよりは、
見る主体と見られる客体とがあってはじめて成立するというような、
つまりは見る人の数だけ作品があるというような傾向が特に強いのではないかと思いました。

仏教はその寛容さゆえに、普及の過程において各地に伝わる民間信仰を吸収し、
地域の文化に(征服ではなく)親和していきました。
生きとし生けるもののすべてに、仏性は宿っている。
カタチはさほど問題ではなく、個々の心のありようのみが問われるのだと。

全国を旅してまわった円空もまた、ほとけの道はそのようなものだと感じていたのでしょう。
ただの木片に最小限の彫りで表情をあらわす程度のいわゆる「木っ端仏」の果てしない深さ。

どんな木片にだって、みほとけが宿っている。
この世に無駄なものなんてないんだ。
だからそう、つまらない人間もくだらない人生もなくて、
ただ生きてるってことが本当に何かの縁で、
大好きなひともちょっと苦手なひとも、きっと意味があっての出会いなんだ。
すべてを赦し、自らを赦し、そうして生きていくことだけがほとけの道なんだ。

そんな円空の人類愛的なメッセージを感じながら会場を後にし、2杯目のラーメンを食すべく再度「粒麺小路」へと向かう僕でした。
レッツ・メ・タ・ボ・リック・・・・・パーン!!





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