浄空法師説法研究

浄空法師の説法に学びながら、日本語に翻訳して紹介しています。

『太上感応篇』大意 2/10

2012-06-30 | 『太上感応篇』 大意

  我們怎樣叫智慧開、性現前?首先要講消災。消災怎麼個消法?過去章嘉大師曾經告訴我,必須要修懺悔法門,所以十大願王「懺悔業障」列為第四條,這個前面四條都是屬於修學的基礎。怎麼懺除法?就是要知道善惡,要知道自己的過失,改過自新,這個才叫做真懺悔,這樣才能夠真正的消除業障。因此這一篇全篇宗旨所在就是後面的一句話,改過遷善,能改過遷善自然就能轉禍為福。
 私たちはどのように智慧を開き、性徳を体現するのでしょうか?まず消災(厄払い)から話さなければなりません。消災はどうすればよいのでしょうか?かつて章嘉大師は私に、懺悔の法門を修めなければならないと仰いました。ですから十大願王の「懺悔業障」(業障を懺悔する)を四句目に置きます。これら四ヶ条はすべて修学の基礎に属するものです。どのように悔い改めれば良いでしょうか?善悪を知り、自分の過失を知り、心を入れかえなければなりません。それでこそ真の懺悔ということができます。このようにしてようやく本当に業障を取り除くことができます。そのことからこの一篇全篇の宗旨は、その後の一句「改過遷善」(過失を改め善に立ち返る)にあります。過失を悔い改めて善に立ち返ることができれば、自然に禍を福に転じることができます。

可見我們的障礙、我們的災難,別人不能給我們排除,別人也不能夠代替,必須要靠自己認真努力,才能夠做到轉禍為福、轉迷成悟、轉凡成聖。這樁事實在講並不難,世間之難事是以求人為最難,這樁事情不必求人,這是求諸己的事情,只要自己能努力,肯發憤,一定可以做到功圓滿,這是首先我們要認識的。
私たちの障碍や災難は、他人に取り除けるものではなく、代ってもらうこともできません。必ず自分で真面目に努力してこそ、禍を福に転じ、迷いを悟りに転じ、凡人を聖人に転じることができるのです。この事は言うのは難しくありませんが、世間の難事というものは人に求めることほど難しい事はなく、この事は人に求める必要はありません。これは自己に求めるべきことであり、ただ自分で努力し、発奮することができれば、必ず円満な功徳を修めることができます。これは先に認識しておくべき事でしょう。

  我們要改造自己的命運,轉移自己的命運,關鍵所在就在這一篇能不能徹底圓滿的去實踐。就是以出世法來說,你要想學佛、成佛、成菩薩,基礎也在這一篇,所以印光大師一生當中不遺餘力來提倡,來勉勵我們後學,以這一篇代替戒律,以這一篇做為成佛作祖的根基。所以我們在華藏佛教視聽圖書館裡面,我們計劃經常開這個科目,與諸位同修共同來研究、來探討它的理論與精神,來研究它在日常生活當中可行的方法,以及聽取諸位修學的心得報告,來長我們的信念、長我們的信心。
 私たちは自分の運命を改善し、運命を転じたいのであれば、その鍵はこの一篇を徹底して実践できるかどうかにあります。出世間(仏・菩薩の世界)の法で言うなら、あなたが仏に学び、仏になり、菩薩になりたいのであれば、その基礎はこの一篇にあると言えます。ですから印光大師は一生かけて提唱に力を尽くし、私たち後学の徒を励まし、この一篇を戒律に代えて「成佛作祖」(仏と成り祖師となる)の基礎としました。ですから私たちは華蔵仏教視聴図書館において、この科目を頻繁に開講する予定です。同門の皆さんと共に理論と精神を探求しながら、それを日常生活において実行する方法を研究します。また皆さんの修学における収穫を聴取して、信念と自信を深めていきたいと思います。

我們這一方,人人都以《感應篇》來修學,斷惡修善,善人多了,我們這個地方就是福地、是善地;善人多了,我們這個城市就叫做福城。我們讀《華嚴經》善財童子五十三參,他生長在福城,居住在福城,種種的事業都在福城,福城究竟在哪裡?福城在我們心地裡面。我們有福,我居住的地方就是福城。
ここで人々が皆『感応篇』を修学し、悪を断って善を修め、善人が多くなれば、私たちのこの場所が「福地」(福のある幸せな土地)になります。善い土地になります。善人が多くなれば、自分の町が「福城」(福のある幸せな町)になります。『華厳経』の善財童子五十三参を読むと、善財童子は生まれも育ちも、住まいも、様々な事業もすべて「福城」にありました。「福城」はいったいどこにあるのでしょうか?「福城」は私たちの心にあります。私たちに福があれば、自分の住んでいる場所が「福城」になります。


  現在讓我們將這一篇的大意,概略的給諸位做一個簡單的報告。全篇經文的結構可以分做七個大段,第一個大段是總綱,有四句。第二個大段是示警,就是很明顯的指示我們、警告我們。第三大段是講修福、福報,第四大段是講惡報,善有善報,惡有惡報,而是以這二段,福報與惡報,為本文的重心之所在,就像經典裡面所謂的正宗分,主要的一部分。
 これからこの一篇の大意、概略を皆さんに簡単にご説明します。全篇の経文の構成は七つの段落に分けることができます。最初の段落は綱領で、四句あります。第二段落は警鐘です。これは私たちへの明確な指示であり、警告です。第三段落は福を修めること、福報についてです。第四段落は悪報についてです。善には善報があり、悪には悪報があることが説かれています。そしてこの二段の、福報と悪報に、本文の要点が置かれています。経典の中のいわゆる本筋であり、主要な部分です。

第五個大段,「推本念初」,也就是尋求根本,要找出最初這一著。第六也是全經的旨歸,也就是用心之所在,改過遷善。末後幾句是全文的結勉,總結勸勉我們。這是一共分做七個大段。在第一大段裡面,當然每一段、每一句,我們在此地都沒有時間來細說,可是我們還是需要從本文把這個一段一段的意思介紹出來。在總綱裡面雖然只有四句,四句就是兩個小段,前面兩句:
第五段落の「推本念初」(本を推し初を念ずる)、これは根本を追求することです。執着の起こりを探し出さなければなりません。第六段落も経典全体の要旨であり、つまり努力すべきは「改過遷善」(過失を改め善に立ち返る)にあるということです。最後の数句は全文の結論であり、総括して私たちを励ましています。これら合わせて七つの大きな段落に分けられます。第一段落については、当然各段落の一字一句をここで詳細に解説する時間はありませんが、やはり本文から各段の意味を紹介する必要はあるでしょう。綱領は四句だけですが、この四句は二つの小節に分けられます。前の二句は、

  【禍福無門。惟人自召。】
  
禍福はもともと定まっておらず、ただ人が自分自身で招くものである。

  這兩句是總明感應的道理,是講感應之理。後面這兩句:
  この二句は感応の道理を明らかにし、感応の理を説いています。次の二句は、

  【善惡之報。如影隨形。】
  善悪の果報は、影が形に随うようなものである。

  『報』是報應。這兩句是總明報應之事,講這些事相。在第二段裡面,示警,文字比較上要長一點,我們可以把它分做兩個中段,第一個是示警,第二個是鑑察。在第一個中段裡面分三個小段,第一總明,第二別示六句,第三是總結、結示。經文裡面:
  「報」とは因果応報のことです。この二句はすべて因果応報の事であり、それらについて説かれています。
 第二段は、警鐘です。文字を比較すると少し長くなりますが、それは二つの段に分ける事ができます。一つ目は警鐘であり、二つ目は監察(監督・査察)です。一つ目はさらに三つに分けられ、第一は概要、第二は別説の六句を示し、第三は総括、結論です。経文はこうです。

  【是以天地有司過之神。依人所犯輕重。以奪人算。】
  天地には司過神(しかしん/注1)がいて、人が犯す罪業の軽重により、人の算(寿命)を奪う。

  儘管今日有許許多多人不相信有天、有神、有鬼,可是真正相信的人依然是不在少數,不但我們中國信的人很多,在日本、在韓國、在東南亞,甚至於在歐美,相信有鬼神的還是很多。事實上有沒有?給諸位說,有,絕對有。關於這些事情,我們留在講《文昌帝君陰騭文》的時候再加以詳細的說明。在此地我們只注重哪些是善行,哪些是惡事,我們必須要辨別,然後我們才能夠斷惡修善,成就我們的行,培育我們福報的基礎,這是重要的。
 今日では多くの人は天があり、神や鬼がいる事を信じませんが、本当に信じている人も依然として少なくありません。信じる人が多いのは中国だけではなく、日本、韓国、東南アジア、更には欧米に至るまで、鬼神を信じる人はたくさんいます。実際にいるのでしょうか?皆さんに言っておきますが、います。絶対にいます。この事に関しては、『文昌帝君陰騭文』の講義をする際に、詳細に説明をします。ここではただ、何が善行であり、何が悪事なのか、それを見分けることを重視します。それができてはじめて「断悪修善」(悪を断ち善を修める)ことができ、徳行を成就して、福報の基礎を養うことができるのです。これは重要なことです。

『天地有司過之神』,「司」是司理、管轄的意思。『是以天地有司過之神,依人所犯輕重,以奪人算』,這個幾句是總明,下面有六句是別說。奪人之算,「算」在中國一般的講法是一百天。你造了大的惡事,奪算,奪一算就是一百天,一紀是十二年。所以有大善可以延壽,有大惡可以減壽。
天地有司過之神」、「」とは取りまとめること、管轄の意味です。「是以天地有司過之神,依人所犯輕重,以奪人算」、これらの句は概要であり、次の六句は別説です。人の算を奪う、この「」は中国の一般的な言い方では百日ということです。あなたが大きな悪事を犯せば、算を奪われます。「」を一つ奪うとは、百日奪われるということです。「」(という単位)は十二年です。大善を行えば寿命が延びて、大悪を働けば寿命は減らされます。

<脚注>
1.司過神(しかしん)・・・・人間の行動を監視して、取り締まる神のこと。

>>>『太上感応篇』大意 3/10 につづく
http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/66bbfce56b64d79e68cf9db5069dc6fd


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