
結論から述べよう。新書という制約(紙数、対象とする読者等)の中で書かれた一冊ものの西洋音楽史(通史)の概説書としては好著である。何より理路整然と書かれており、著者の目論見通りストーリーに推進力もある。
本書の特徴のひとつは記述の対象とする時代に応じて、それに見合った(と著者が考える)語り口・記述様式を採用していることで、具体的には
「クラシックの時代」を語る場合にはその歴史化を、逆に「古楽/現代音楽の時代」を語る場合にはそのアクチャル化を図りたい (p. v)
ということである。また中心となるのはあくまで「クラシックの時代」であり、「古楽の時代」や「現代音楽の時代」は自己充足的にではなく主として「クラシックの時代」との関連で語られる。個人的には現代音楽にもう少し紙幅を費やして欲しいところだが、それは無い物ねだりというべきか。
さて中心となる「クラシックの時代」であるがその「歴史化」とはいかなることか。著者自身の言葉を借りればそれは
主要な新潮流とその展開を、それを代表する作曲家と作品に沿いつつ、美学や作曲技法や時代精神から説明する (p. 219)
ということになる。一読して気が付く通り、なんら目新しい記述法ではない。この著者の優れた知見や手腕はここから先に見出される。そのような点を二つ挙げよう。一つはこの広く浸透し、標準化されたいわば「無標」の語り口=歴史化の有効性を疑ってみることであり、実際に「現代音楽の時代」を記述する手段としての歴史化はこれを不適格として排除する(ついでながら、私は現代音楽とそれ以前の音楽を隔てる分水嶺の決定には脳内における音楽認知の仕組みが深く関与していると思っているが、それについては機を改めねばならない)。
もう一つは「クラシックの時代」を語る場合のこの歴史化の巧さといったらよいだろうか。改めて言うまでもなく歴史化の巧拙は各時代を「代表する作曲家とその作品」をいかに確定するかによって決まるのではなく(無論、そうした側面も皆無ではないが、先ずキャノンの問題があるのであって、これを無視した結果語られる音楽史はKitschであることを免れないだろう)、それらを貫く歴史の流れをいかに掘り起こすかによって決まる。本書で著者が水先案内を務めるのは比較的淀みや蛇行の少ない流れである。そこをストレートに一気呵成に下って行く爽快感。それは或いは読む者に西洋音楽史を手中に収めたとさえ錯覚させるかも知れない。見事な手腕である。
だが、この推進力の強さ、リーダビィリティの良さは同時にその負の側面をも浮き彫りにしている。つまり、ここで語られる西洋音楽史はー否、それをいうなら歴史とはなべてー多かれ少なかれ語り手の偏見や憶断に基づく切捨ての美学の結晶とでも呼ぶべきものであって、この強力な推進力は一方で歴史化の過程で抽象化に与らなかった人物や事物、さらには文化や思想などといったものがいかに多いかを示しているのである。無論、そうしたことは百科事典のような項目のリスト化とは根本的に異なる歴史化に伴う必然であって避けることの出来ないものであろう。ならば歴史の流れに身を置きつつも、切り捨てられたもの達の怨嗟の声に耳を傾けること、それらの屍から目を逸らさないことこそ肝要なのではないか。畢竟、本書で語られる西洋音楽史も無数にあり得る西洋音楽史の一つに過ぎないのである。
<最近聴いた演奏会から>
4月5日 内田光子 ピアノリサイタル(BH, London)
オール・モーツァルト・プログラム ★★★★★+
親指と人差し指で「ほんのちょっと」と示した後のアンコール。モーツァルトだろうとばかり思っていたらあにはからんや聞こえてきたのはシェーンベルク(Op.19-4)。相変わらず面白いことをする。最後はK.545の第二楽章。魂は遥かSeventh heavenへ。
4月14日 ゲルギエフ指揮LSO (BH, London)
ショスタコーヴィチ 交響曲第1番&14番 ★★★★
4月19日 ハイティンク指揮LSO (BH, London)
オール・ベートーヴェン・プログラム
序曲「レオノーレ」第3番 ★★★★★
交響曲第4番 ★★★★
ピアノ協奏曲第5番(ルイス) ★★
本書の特徴のひとつは記述の対象とする時代に応じて、それに見合った(と著者が考える)語り口・記述様式を採用していることで、具体的には
「クラシックの時代」を語る場合にはその歴史化を、逆に「古楽/現代音楽の時代」を語る場合にはそのアクチャル化を図りたい (p. v)
ということである。また中心となるのはあくまで「クラシックの時代」であり、「古楽の時代」や「現代音楽の時代」は自己充足的にではなく主として「クラシックの時代」との関連で語られる。個人的には現代音楽にもう少し紙幅を費やして欲しいところだが、それは無い物ねだりというべきか。
さて中心となる「クラシックの時代」であるがその「歴史化」とはいかなることか。著者自身の言葉を借りればそれは
主要な新潮流とその展開を、それを代表する作曲家と作品に沿いつつ、美学や作曲技法や時代精神から説明する (p. 219)
ということになる。一読して気が付く通り、なんら目新しい記述法ではない。この著者の優れた知見や手腕はここから先に見出される。そのような点を二つ挙げよう。一つはこの広く浸透し、標準化されたいわば「無標」の語り口=歴史化の有効性を疑ってみることであり、実際に「現代音楽の時代」を記述する手段としての歴史化はこれを不適格として排除する(ついでながら、私は現代音楽とそれ以前の音楽を隔てる分水嶺の決定には脳内における音楽認知の仕組みが深く関与していると思っているが、それについては機を改めねばならない)。
もう一つは「クラシックの時代」を語る場合のこの歴史化の巧さといったらよいだろうか。改めて言うまでもなく歴史化の巧拙は各時代を「代表する作曲家とその作品」をいかに確定するかによって決まるのではなく(無論、そうした側面も皆無ではないが、先ずキャノンの問題があるのであって、これを無視した結果語られる音楽史はKitschであることを免れないだろう)、それらを貫く歴史の流れをいかに掘り起こすかによって決まる。本書で著者が水先案内を務めるのは比較的淀みや蛇行の少ない流れである。そこをストレートに一気呵成に下って行く爽快感。それは或いは読む者に西洋音楽史を手中に収めたとさえ錯覚させるかも知れない。見事な手腕である。
だが、この推進力の強さ、リーダビィリティの良さは同時にその負の側面をも浮き彫りにしている。つまり、ここで語られる西洋音楽史はー否、それをいうなら歴史とはなべてー多かれ少なかれ語り手の偏見や憶断に基づく切捨ての美学の結晶とでも呼ぶべきものであって、この強力な推進力は一方で歴史化の過程で抽象化に与らなかった人物や事物、さらには文化や思想などといったものがいかに多いかを示しているのである。無論、そうしたことは百科事典のような項目のリスト化とは根本的に異なる歴史化に伴う必然であって避けることの出来ないものであろう。ならば歴史の流れに身を置きつつも、切り捨てられたもの達の怨嗟の声に耳を傾けること、それらの屍から目を逸らさないことこそ肝要なのではないか。畢竟、本書で語られる西洋音楽史も無数にあり得る西洋音楽史の一つに過ぎないのである。
<最近聴いた演奏会から>
4月5日 内田光子 ピアノリサイタル(BH, London)
オール・モーツァルト・プログラム ★★★★★+
親指と人差し指で「ほんのちょっと」と示した後のアンコール。モーツァルトだろうとばかり思っていたらあにはからんや聞こえてきたのはシェーンベルク(Op.19-4)。相変わらず面白いことをする。最後はK.545の第二楽章。魂は遥かSeventh heavenへ。
4月14日 ゲルギエフ指揮LSO (BH, London)
ショスタコーヴィチ 交響曲第1番&14番 ★★★★
4月19日 ハイティンク指揮LSO (BH, London)
オール・ベートーヴェン・プログラム
序曲「レオノーレ」第3番 ★★★★★
交響曲第4番 ★★★★
ピアノ協奏曲第5番(ルイス) ★★