人と自然

人は自然の一部である
水と緑によって癒される

すっかり秋になった

2017-09-04 | 

 9月になって今日はもう4日。自分がこどもの頃のように、野分(のわき)の風が決まった日に吹き、雨もふり小さな小川でもあふれるように水量が増えて、山の栗や梨、その他の喰える植物の実を振り落とすようなことはあまりなくなった。(学校では上級生の書いたポスター「鬼畜米英」がいたるところに貼ってあった)
 大東亜戦争当時の思い出だから、現代に生きる若者に話しても、通じないであろう。
 家で飼っていた馬にやる草刈りを学校から帰宅後に背負い道具と刈った草を縛って束ねる「つなぎ」と称する、稲わらを「すぐって」(藁の芯だけにして先端を結ぶ)それを6本、(そして草を刈って、ひと抱えの束に縛るために)、更に草を刈る鎌を研ぐ。一抱えの束を6把が必要だ。自分の家の持山(草刈り場)まで徒歩で30分ぐらいか?。
 家から少し離れた場所で豚小屋を作り、豚も飼った。農薬の散布 、馬小屋の敷き藁や喰い残しは馬が適当に踏み固める。そのうえで新しい草や、フスマ(精米すると必ずでる)野菜くず等、塩も少し、いれて別の飼い葉おけに水とともに与える。馬も喜んだ。数日に一度、15分程離れたところのある小さな流れが平たんになった場所に馬を連れ出して、空き缶のようなもので水を汲み、藁を丸めて馬の背や、首筋、足、などをごしごしこすって洗ってやる。
 馬も喜ぶ。この馬は農耕馬だ。春の馬耕、秋の収穫期の稲架(はさ)に掛ける稲の束などの荷を背中に載せて自宅まで運ぶ。
 秋は収穫期。稲架の高さは12段あった。最初の2段までは大人が立って稲束をかけることができたが、3段目以上はひとりが稲架に載って下から一束づつ投げ上げてくる束を受けて稲架にかける。稲架で充分乾燥した米は良質になる。
 脱穀も初めの頃は、足ふみ脱穀機だったが、戦後も数年も経つと、電力の事情も少しづつよくなり、また、重油による発動機(かなり重いもの)が威力を発揮してくるようになる。 農薬を使わなかったから、イナゴ、ドジョウ、タニシ、等は極めて有効な蛋白源であった。
 都会から、親戚、縁者を頼って疎開してくる人が一挙に増えて、こどもの数が一挙に増えた。我が家にも分家の分家、一家が疎開してきた。座敷を開放して、そちらの玄関から出入りする。炊事も別に。
 学校の児童が一クラス60人以上に。このクラスを今でいうところの高校卒業したばかりの若い女性だけ。我が家にも学校の先生(女)が下宿する。教科書はなく、ガリ版刷りの資料が2~3枚。 当時から何年経ったのだろう。
 私は、小学生の頃から雪靴(膝までの)を作った。母が喜んで上手だとほめてくれたのが、嬉しかった。
 母は、もっと困っている独り暮らしのおばあさんの家にモンペの膝下あたりが擦り切れないように古い布切れで縫い合わせて私に届けさせるのだった。
 
自分にとって、今は昔の話になる。