三多摩の鐘

The Bells of San Tama -関東のキリスト教会巡り-

受難の主日(枝の主日)のミサ

2012年04月03日 | ミサ聖祭
受難の主日を迎えたカトリック八王子教会
(住所:東京都八王子市本町16-3)

4月1日(日)、八王子教会で受難の主日のミサに与った。この日はイエスのエルサレム入城を記念して、「枝の行列」が行なわれた。これは、当時の民衆が木の枝を道に敷いて、イエスを歓迎した故事にちなむ。だが、この人たちは数日後に「十字架につけろ」と叫ぶのだ。権力者が世論を扇動し、罪なき人を「集団リンチ」に追い込む。数年前、一部の日本人が小泉政権とマスコミに付和雷同して、傷ついた同胞に「自己責任」の非難を浴びせた記憶が甦る。

午前7時、ミサ開祭。会衆は聖堂内の後方へ移動。主任司祭の稲川圭三神父は、会衆が掲げる枝に聖水を振りかけ祝別。その後、司祭と十字架を捧持した侍者が聖堂内を行列(巡回)し、会衆は聖歌を歌いながら自席に戻った。受難朗読は、イエスの逮捕から十字架上で息絶えた場面(マルコ15・1-39)。この長い朗読は三人で分担し、稲川神父がイエス役、他の二人は語り手、ピラト役などである。会衆は群衆役。私も「十字架につけろ」と2回唱和した。

稲川神父は、「祭司長やユダヤ人たちは、十字架のイエス様に『神の子なら、そこから降りてみろ』と罵りました。彼らは神様の子である意味を勘違いしています」と話された。「全ての人は神様の子、神様に愛された子です。イエス様はその真実に出会わせるために来てくださった。それを忘れて、自分が神様に愛されている証拠を求めるのは、イエス様を罵った者と同じです」。 私もその中の一人に違いない。水野源三氏の詩「私がいる」(注)を思い出す。


カトリック八王子教会聖堂にて
“ 棕梠の葉を手に持って、救いの主を迎えよ・・・ ”

(注):「ナザレのイエスを/十字架にかけよと/要求した人/許可した人/執行した人/それらの人の中に/私がいる」。 水野源三(1937-1984年)は重度の脳性麻痺を負ったプロテスタント詩人。

◆この日のミサ中の主な歌:
ミサ曲4(典礼聖歌216・217)、入祭:典礼聖歌315「ダビドの子」、行列の歌:カトリック聖歌196「しゅろの葉を」、奉納:典礼聖歌175「わたしは神に寄り頼む」、拝領:典礼聖歌129「主を仰ぎ見て」、閉祭:カトリック聖歌372「見よやゲッセマニの」。

◆主な参考文献など:
「こんな美しい朝に 瞬きの詩人・水野源三の世界」 百万人の福音編集部編(いのちのことば社・1990年)
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