今日の料理(こだわりがないのがこだわり)

フードリテラシーに沿いつつも、なるべく夢のある料理や飲食をジャンル・国境・時代・時間をボーダレスに越えて書いています。

茹で野菜。

2015年11月16日 | グルメ
自分は味の付いた野菜より茹で野菜が好きだ。(勿論、生のままの野菜も好きだ。)
というか、子供の頃、野菜を先に食べないと白いご飯が出てこなかった。
何年も。
実は、これがスゴク嫌いな食べ物直しに丁度良い、ただ、子供ほど、食べ物の本質を見抜けるから(黄色人種と若い頃の方が舌の味蕾の数が多い)、大人が子供だから解らないだろうと味を付けて野菜の苦味を消そうとするが、どんな味を付けても子供は本質を見抜いてしまえるのだな。
逆に、自分が誤魔化されている事にもの凄く、不快感や不信感を持ってそれが更に野菜嫌いを加速させてしまう。
「意地でも食うか!!」って。(ガキが駄々をこねるとテコでも動かないし、無駄にエネルギーを浪費する。)

ただ、野菜だって、本来は美味しい、田舎へ行って空気と水が美味しい所で、野菜や山菜の天麩羅なんか食べたら、今まで食べていたのはなんだったのだろう?と不思議に感じる。
それは、素材自体の味が強いから、素材の味が活きているということだ。
だから美味しいんだ。
(不思議と、子供でも田舎のお祖母ちゃんや伯母さんの家に行くと野菜を食べるのはそういう事だと思う。というより身をもって体験してきた。)
つまり、素材本来の味を学んで本質を掴んでしまえば、なんでも美味しく感じるのだ、好き嫌いが無くなんでも美味しいという事は人生もその分、楽しい訳で。
突き詰めていくと、味は付けてくれるなという事になる。
足りなければ、イギリス人ではないが、自分で付ければ良い。凄く、個人を尊重した自由な先進的考え方だと思う(温故知新だ)。
作り手としてはツマラナイかもしれないが、人によって、人によって『味覚のポイント』は指紋の如く違う訳だし(味だけに神経を研ぎ澄まして国境を越えてみれば解る、現代はテロや拉致があるから危険だが。)、自分と違う人間に自分の味を押し付ける行為のおこがましい事か。
すごく、封建的で肩苦しく、息苦しいことか。
(味覚の自由を奪われるという事とは)

なので、味が無くても十分、食べ物自体の味といのはある訳で、それを掴むという事が、本質を掴み取る事で、塩梅や加減も身に付けられ、物事にブレーキが効く人間になるのではないだろうか。

さらに嫌なものは先に終わらすという習慣も、「臭いモノにはフタをしろ」(後回しにすれば後の人がやってくれる)の習慣が未だに残っている、日本には現実と立ち向かう(=現実や事実→未来を見抜く)習慣を身に付ける上で良いかもしれない。

しかも、自分の場合、いくら経っても野菜を食べなければ白米が出てこないから、腹は減る、
『腹が減ればどんなモノでも美味い』という原始的な人間の本来の欲求に訴求し併走する訳で、食材の本質を掴む教育になった訳だ。
数字の1.2.3や数式だけが、民度を高める教育ではない。
目に映るモノや、鼻先だけでなく、100年先を見据える瞳を養う事が教育なのでは。

どんな人、どんな事からでも、学ぶ事は出来る。

一生勉強だ。

セミリタイヤなんかしたくねえ



自分の好きなイギリス料理の本を見ると、やはり茹で野菜が出ていた。
その国には、その国、日本には日本の良さがあるから別にイギリス人になりたい訳ではないが(シャーロックホームズみたいにはなれない)、イギリス料理を見て理に適うと納得して料理を始めて原点回帰だったのかなって。

ただ、茹で野菜のポイントは、
・イギリスではトラディショナルな茹で方はクタクタになるまで煮るが、野菜の栄養分と味が抜けてしまう事が近年問題になっているし、日本人はより素材の味を活かすから、やや芯が残るアルデンテが美味しいと思う。
茹で立てだと、実は湯気で野菜臭い(=青臭い)、これが、子供達が嫌がる理由の1つなので少し冷めてからが良いだろう。そうすると必然的に大量に茹でてタッパに入れておき、食事の前に冷蔵庫から出して、先に食べれば野菜を摂取出来る、飽きたり、悪くなりそうなら、シチューやグラタンにするという手もあるし。(日本ならケンチン汁やトン汁?)

よくまあ、茹で野菜で、こんなに書いたな。










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