恩師「長尾弘」先生御著書・御講演

愛しき我が子よ幸せに生きよ健やかに生きよ。
自らを浄め自らを高め自らの神我に目覚めよ。

恩師「長尾弘」先生御垂訓

2014-08-26 00:56:11 | 日記

      恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


        第二章 必要なのは正しい生命観の確立


      ◆マクドナルド・ベインに入ったイエスの霊◆


先の続き・・・

浄心庵ではそこに集われた人々とともに現在も週に二度、
一日の反省をしますが、昭和六十二年頃でしたが、
その頃には毎日禅定を行っていると、ある時期毎日のように
不思議な現象が起こりました。
今日はどんなことが起こるのでしょうね、
と楽しそうに言われる方もおられるくらいでした。
たとえば、
禅定に入ると天上界からのものとしか思えぬ美しい音楽が流れ、
禅定を解くまでずっとそこに集う大勢の人々が
それを聞いていたことがありました。
はじめはかすかな音ですが、それがだんだんと大きくなり、
また寄せては返す波のように大きく鮮明になってきます。

時にはその妙なる調べとともにどこの国の言葉かはわかりませんが、
厳かに説法をされているような声が聞こえてまいりました。
ワァ-ッとすごい音がなり響いた時もありました。
UFOの飛行する音はまだ聞いたことがありませんが、
おそらくそんな音に近かったのではなかったかと思います。
禅定の最後にどうぞこの場に集う方々に光をお与えくださいと祈ると、
小さなうすい金の鈴を何百個も一度に振ればこのような
音色になるのかと思われるような、
とても涼やかで繊細優美な音が奏でられました。
マクドナルド・ベインさんの著書に、
イエス様が入ってこられると天から音楽が鳴り響いてくると書かれているのも、
自分の体験からよくわかるのです。


          ~ 感謝・合掌 ~




恩師「長尾弘」先生御垂訓

2014-08-25 00:44:19 | 日記

      恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


       第二章 必要なのは正しい生命観の確立


      ◆マクドナルド・ベインに入ったイエスの霊◆


先の続き・・・

「心身の神癒」を読むと、
そこには私たちの命そのものは永遠に死なないということが、うかがえます。
肉体は時間の中で成長し、衰え、ある時間が来ますと、この世界から消えていきます。
物質だからです。
ところが、生命そのものは死にません。
魂は天上界に帰って、何回も生まれ変わるうちにいろいろなことを学んで、
それぞれの心の癖や欠点を修正していきます。
やがて、完全に成長すればこの世に生まれることはありません。
「如来は再生されないだろう」という仏典の言葉もあります。
イエス様はあの世に帰られたけれど、ベインさんの体を通して説法をしている。
この死んでも死なないというのは、命そのものです。
生命のことなのです。

本当は生かす力と言うほうがよく、一なる神の御命だけが存在し、
私たち一個の命はそれにより生かされているだけです。
どんな聖者でもその肉体は滅びます。
ですから、「私を信じる者は私の中に生きる」という言葉の意味は、
イエスの教えの中に生きるということです。
花々を通し、動物たちを通し、人間と天使たちを通し、愛が全宇宙の中心、
神の御心より泉のように流れていると言っておられます。
神の愛とは命そのものであり、常に私たちの内なる意識へとそそがれています。
「神、我とともにあり、我、神とともにあり」という言葉の
意義深さもここからわかってまいります。
あらゆるものを生かそうとするその愛と生命の力こそは、
形なき神様から発せられるものです。
そして、人に嘘をつけても自分に嘘をつくことのできない心、
これが神のささやきです。

これにいつも耳を傾けることです。
世の宗教家の中には、過去の聖者が自分の中に入ってきたと言って、
その言葉を述べる方がいらっしゃいますが、
証拠がなければそれが本当にイエスやお釈迦様などの語られているものなのか
どうかもわかりません。
外なる言葉と内なる言葉を識別すべきです。
ところが、このマクドナルド・ベインにイエスが入った時には、
この世では聞いたこともないなんとも言えぬ美しい音楽が説法の期間中
その会場に鳴り響いたり、ご本人よりも一回り大きな姿に身体が伸長したり、
誰が見てもイエス様がのりうつっておられるとわかるほどにお顔が変貌されたりしたそうです。
霊的なものはこのように証拠がない限りは信じてはなりません。
これも身体に現わされた心の現象の不思議の一例です。


          ~ 感謝・合掌 ~



恩師「長尾弘」先生御垂訓

2014-08-24 02:14:40 | 日記

     恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


      第二章 必要なのは正しい生命観の確立


     ◆マクドナルド・ベインに入ったイエスの霊◆


マクドナルド・ベインという方の書物は、
現在のキリスト教では認められていませんが、
イエス・キリストの語られた真理の言葉が書かれています。
この方はヒマラヤでいろいろな勉強をされました。
『心身の神癒」や『解脱の真理』などの著書があります。

第二次大戦後、
南アフリカのヨハネスブルグに暮らしていたマクドナルド・ベインに
イエス様の霊が入ってきて、彼の口を通して語られました。
現代の教会の誤りを指摘しつつ、真理はキリスト教徒だけのものにあらず、
万人のものであるということを明らかにしています。
人間を神の分霊であるとしています。
現代の教会ではなぜイエス様の現わされたような奇蹟が起きないのか言いますと、
神学に頼るばかりでイエス様の説かれた心を本当には実践していないからです。
イエス様は、「私のごとく生きた者は、私以上の力を現わすであろう」とおっしゃっています。
私はお釈迦様の説かれた法やイエス様の説かれた真理を行うことによって、もっとも近き
弟子になろうと努力しています。

あくまでも法というのは、日々の実践によってその命が宿るものです。
お釈迦様は、「行いなく、ただ聖句だけを唱える者は他人の牛の数を数えるが如し」という
言葉を残されています。
当時、牛は財産を意味していました。
他人の財産をいくら数えても、自分のためにも他人のためにも利益がないということです。
また、イエス様は、「あなた方は祈りによって信仰の証しを立てようとしますが、
私は行いによって信仰の証しを立てましょう」と言われたそうです。
言うより行えということです。

「遠くにありても近き弟子。近くにあっても遠き弟子」とは。
お釈迦様の言葉です。
高橋信次先生のお口から聞き、大変感激した言葉です。
たとえ身近に仕えて師の教えを実践しない人は、遠く離れた弟子であり、
いまだ巡り逢うこともなくとも、その教えを理解し、実践する者は最も近き弟子であるという意味です。
「心身の神癒」は、第一話から始まって第十四話までありますが、
その第一話に「我はよみがえりなり。命なり。
すなわち神の愛なり。
私を信じる者は私の中に生き、けっして死なないのである」と記されてあります。
イエス様は肉体の生死を超越して永遠の生命があることに気付かれ、
それを得られたのですが、
私たちもまったく変わりのない本質というものを持っているのだということを自覚したいと思います。
私が言っていることを信じてほしい、
そしてみなさんにもこの素晴らしい真理に到達してほしいという願いは、
イエス様の人類への愛でもあります。
ただし、疑問があれば追求し、もはや疑う余地がなくなってはじめて、
本当の信頼ができてくるので、無理に信念を持つのとはちがいます。


          ~ 感謝・合掌 ~





恩師「長尾弘」先生御垂訓

2014-08-23 03:48:53 | 日記

      恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


        第二章 必要なのは正しい生命観の確立


      ◆仏壇とお墓――誤やまった生命観からの迷い◆


先の続き・・・

先祖供養を主としてやっている宗教は多くあります。
この先祖供養の究極の目的はなんでしょう。
ある宗教では、六親眷属の中から亡くなった人を一人でも多く寄せ集めてきて拝んだら、
功徳があると言って、それに戒名をつけてもらい、
何百体という親戚縁者の亡くなった人を集めて、一生懸命に拝んでいます。
もし悟っておられる方であれば、戒名をつけようが、名前を呼ぼうが、
あの狭いお仏壇の中などには来られません。
悟ったお方は自由なのですから、高い次元の世界に通常はいらっしゃいます。
この地上界のお仏壇にとどまる必要はないはずです。
そういうものに救いを求めて来られる諸霊があるとすれば、これは成仏できていない
不成仏霊ばかりです。
そういう方々を自分の家にたくさん招かれますと、良い結果は出ません。

先祖供養の本来の目的というのは、亡くなった方々にこの現象界から思いを離して、
魂のふるさと、天上界に帰っていただくことにほかなりません。
供物やお経や線香や燈明を献じても、それで成仏できるわけはありません。
それどころか、「ここにおれば安心だ。ここにおれば、お経も線香供えてくれる。
ああ、長いこと放ったらかしにされていたけれど、ここにいたら安心だ」と、
かえって霊をその場所にとどめてしまって、その結果成仏できなくしてしまいます。
執着を与える結果となります。
先祖供養は先ず己が成仏することからと心得て下さい。
私たち自身の生活態度が大切です。
何時間も念仏を唱えて拝んでいても、一家が喧嘩ばかりで不調和な生活をしていれば、
ご先祖様はちっとも救われません。

ご先祖様に成仏していただこうとすれば、まず己れが成仏し、救われて、
その幸せな姿を見てもらうことです。
それが物質のお供えなどより、何よりの供養となります。
「ご先祖様のお陰で本当に幸せに暮らさせていただいております。
お金はたくさんありませんけれど、貧乏はしておりません。
身体もお陰様で健康でございます。
いつも感謝に満たされております」というようにご先祖様の前で報告させていただきますと、
ああよかったと喜んでくださいます。
お墓というものに意義があるとすれば、自分がこの世に生きた、
ささやかな記念碑であればよいと思っています。
自己という一個の肉体をいただいた人間が、自らの使命に目覚め、
どれだけ多くの人々に喜んでいただいたか、どれだけ多くの人々のために尽くせたか、
どれだけ多くの人々に神の愛を捧げたか。
昭和六年七月二十五日にこの世に生をいただき、この世を去ってあの光の世界に帰るまでの間に、
どれだけの行いができたか、この地球の上にどれだけの善き行いを積めたか、
それらに関しての自己への讃美の碑としたいと思っています。
お仏壇も、ご先祖様に心を向けて、そのご恩に感謝し、今の幸福を「ご先祖様のお陰です」
と報告させていただく天上界への窓口と思わさせていただいております。


           ~ 感謝・合掌 ~




恩師「長尾弘」先生御垂訓

2014-08-22 01:01:53 | 日記

     恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


        第二章 必要なのは正しい生命観の確立


      ◆仏壇とお墓――誤まった生命観からの迷い◆


もし、私は死んだらお仏壇の中に祀ってもらうのだとか、
お墓の中に入れてもらうのだと思っておりますと、必ずそこへ行きます。
死ねば肉体がなくなり、思いの世界、心の世界だけとなりますから、
この目に見える現象世界よりももっと精妙な波動の想念が写し出す世界に住むことになります。
思ったことはこの現象世界よりも速く、そのままに現わされてまいります。
だから、死んだ後にはあの世などなく、無に帰すまでだと信じている方は、行く先知らずとなります。
ところが、亡くなってもなお意識があるとわかり、はじめて、戸惑いますが、
生き場がないのでさまようしかありません。

そうかといって、お仏壇やお墓に入るものと思っていればそこへ行き、やはり成仏はできません。
つまり、光あふれる素晴らしいふるさとに帰り着くことはできないのです。
死んでお仏壇やお墓の中に入ってはなりません。
これまで私たちの考えていたこととは違うかもしれませんが、お仏壇やお墓はこの世の
現象世界の物質です。
その物質に心をとらわれていては、そこから心が離れられず、成仏できません。
以前、四国に行きました時に、死んでお墓に入ってはいけませんと話していますと、
あるおばあさんが「私は毎日お墓へお参りして、どうか早くお迎えください。
ここへ入れてもらったら極楽です、と言って頼んでいます」と言われます。
「それはいけません。もし、不審に思われるのだったら、
今夜一晩おひとりでお墓に行って寝てみてください」と言いますと、
「いやいや怖い怖い、あんな所ではよう寝ません」とおっしやいます。
生きていて怖い場所は死んで行ってもやはり怖いのに決まっています。
同じ意識を持った自分が行くのですから。


          ~ 感謝・合掌 ~