恩師「長尾弘」先生御著書・御講演

愛しき我が子よ幸せに生きよ健やかに生きよ。
自らを浄め自らを高め自らの神我に目覚めよ。

恩師「長尾弘」先生御垂訓

2014-08-31 01:47:26 | 日記

    恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


      第二章 必要なのは正しい生命観の確立


        ◆命のふるさとと光の量の区域◆


なぜ、この現象界が修業に適しているかというと、
ただ厳しい荒波の世界であるからというだけではなく、
別に重大な理由があります。
生まれる以前の素晴らしい世界には、
それぞれの魂の浄(きよ)まり具合に応じた光の量の区域があります。
百ワットの人は同じ百ワットの人だけが集まり住む区域に、
また五十ワットなら五十ワットの人々同士が集まり住む区域に住んでいます。
つまり、同じ心のレベルの者同士が一つの区域に集まっています。
そうすると、魂の修行にとって不都合なことが生じてきます。
魂の次元の同等なもの同士が出会っても、
他を見て己れの至らなさに気づかされたり、
お手本を見させてもらったり、
逆にあのようになってはならないと見せられたりすることがありません。
つまり、他人と自分との違いから学ぶということができません。

光の量の区域という実在界の法則から、
異なる魂のレベルが同居する現象界に心が移行することで、
いかに魂の次元の高い方も次元の低い方も、同じ肉体に宿りますから、
今度は様々な光の段階の人と出会い、
そこで起きる出来事を通して効果的に学んでいくことができます。
魂の速い進歩のためには、
この苦労の多い「苦海」とお釈迦様が言われる現象界に
生かしていただけることはとても幸せなことです。
魂の次元の高い方を見て、次元の低い方は、
「あのように生きなくては」と学ばせていただき、
また低い方の言動を見て、
「あのように生きてはいけない」と学んでいきます。

実在界と現象界との大きな違いは現象界がいかに
教育的な環境であるかということです。
姿形だけみれば、個人差はそれほどないようですが、
心は「あの世」のものです。
それが「この世」の五官を備えた肉体の中に宿ることにより、
自己保存や自我我欲などの「業」の思いを生み出し、
もともとの愛や平安の心を忘れてしまいます。
ところが、自らつくり出してしまった悩みや苦しみ、
「この世」の災難、苦労や困難などを経験することによって、
心の誤りを反省させられ、軌道修正することで成長を遂げつつ、
再び魂のふるさとにいた時の平和な安らぎの心を思い出し、
より次元の高い心へと導かれ成長させられます。


        ~ 感謝・合掌 ~



恩師「長尾弘」先生御垂訓

2014-08-30 00:52:53 | 日記

   恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


     第二章 必要なのは正しい生命観の確立


     ◆魂の修行という生命の目的を知ること◆


先の続き・・・

私たちは人間として生まれる以前は
調和と安らぎに満たされた世界におりました。
今私たちが住んでいる次元とは異なる世界です。
こちらが本当にある世界、実在界です。
私たちにはあるよう思える空間や距離や時間さえも、
実在界(あの世)には存在しません。
そこから、私たちはこの仮の世界、
地球上の一時だけの物質化された現象界に厳しい魂の
修行のために出て来ています。
実在界から現象界を見ると、
それはそれは粗悪な危険極まりない修行の場所です。
一歩踏み外せば断崖絶壁から転げ落ちる、
あるいは深い深い泥沼にはまるかもしれない。
又、あの蟻地獄そのものです。

それほどこの現象界とは危ない所です。
誰しもが幸福な人生というものを望みます。
自らの欠点を直さなくてもいいのだと言われる方でも、
自分が不幸でもいいとおっしゃる方はおられません。
それは、調和した光あふれる「魂のふるさと」において味わった幸福感、
至福の芳香というものが、記憶の底に残っているからにほかなりません。
望郷の思いであり、郷愁、ノスタルジアの思いです。
再びかつての幸福感を体験するには、
この現象界の様々な困難や危険や誘惑に負けることなく、
それらをのりこえて、自らの心の奥深くへと探求していかねばなりません。
そのための悪癖の修正とも言えます。

私たちは食べるために働き、生活のために汲々としたり、
時には間違ったことも認めなくてはならなかったり、
人の嫌な面や自分の汚らわしい部分にも直面させられたりと、
肉体を持つかぎり不自由きわまりない人生を強いられています。
しかし、人間はただ食べて寝て働いて、適当に遊んで、
肉体の終わりとともに一生を終えるだけの存在ではありません。
なんのために命をいただき、この地上に出て来ているのか。
それは少しでも魂を進化させ、向上させるためだったはずです。

もちろん、その結果としてこの世の生活が充実し、
幸せも健康も自分のものにできるものでなくてはいけません。
その上で魂のふるさとにいつの日か帰り着き、神様と、
そして魂の兄弟たちとの約束を果たしてまいりましたという
安らかな喜びをお伝えすることです。
そのためにも毎日を心豊かに過ごせるよう、
反省と善き行いの努力をすべきです
一休和尚に次のような道歌があります。
「世の中は喰うてくそして寝て起きてさてその後は死ぬるばかりか」
物質だけを追い求めて生きると、どれほど地位、名誉、財産を得ても、
このような一生になります。


        ~ 感謝・合掌 ~





恩師「長尾弘」先生御垂訓

2014-08-29 00:17:47 | 日記

       恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


        第二章 必要なのは正しい生命観の確立


        ◆魂の修行という生命の目的を知ること◆


私たちはなんのために生まれてきたのでしょうか。
誰しもがこんな疑問をいだいたことがあるかと思います。
子供の頃になぜ自分はここにいるのかとふと思ったり、
青年期に自分の生きる道を模索して、
どんな生き方をしたらいいのかと思ったり、
また社会に出て障壁にぶつかり、このままでいいのか、
私の本当のなすべきことはなんなのかなどと悩んだりしたことは、
どなたにでも経験のあることと思います。

人生とは、人との出会いの中で展開してゆきます。
そして、あらゆる出来事を通して、悩み苦しむのです。
人と出会えば出来事が起きて来ます。
この出来事により、私たちは魂の修行をさせていただきます。
魂の修行とは、人間は人それぞれに素晴らしい面もあれば、
また素晴らしくない面もあります。
その素晴らしくない面を素晴らしくするためにこの世に生まれて来ています。
自分の持っている悪い癖、欠点の修正です。
なくて七癖、あって四十八癖というほど、人はそれぞれの心の癖を持っています。
その癖は遭遇する出来事によって引き出され、強く出て来ます。
わるく出る癖もよく出る癖もありますが、
特にわるい癖のほうは「業」と呼ばれています。

しかし、自分の欠点を直らないものと決め込んでいる方もおられます。
人間は不完全なのが当たり前だと信じていらっしゃいます。
赤ちゃんを見ると人間は生まれながらの天使であるとわかります。
それが成長するにつれて、心が曇ってゆき、天使失格となってしまいます。
縁ある赤ちゃんで一番早く合掌してくれた方は、
生後一か月で抱きかかえられながら
モミジのような手を合わせて綺麗に合掌してくれました。
また、生後九カ月で、
ハイハイがやっとできる赤ちゃんが綺麗に正座して合掌してくれました。
浄心庵にその写真があります。
正に小さな汚れなき仏像のようです。


           ~ 感謝・合掌 ~






恩師「長尾弘」先生御垂訓

2014-08-28 05:04:33 | 日記

         恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


          第二章 必要なのは正しい生命観の確立


              ◆心の重量と行き着く先◆


先の続き・・・

これは私たちの誰もがそういう心になれば、体験できることです。
誰にでも該当するということは、
重力の法則が物理的な真実としてこの現象界を支配しているのと同じく、
「心の重さの法則」も心の世界とこの世における境遇を結ぶ法則でもあるからです。
ところがこの法則は人が死んだ瞬間に、
「この世」だけのものではないということが証明されます。
反対に砂を詰めた砂袋のような重い心でいれば、現象界の下のほうへと沈んでゆき、
最下層にぶら下がりながら生きていることになります。
「苦しみ」を心の中に一杯詰め込んでしまった場合です。
砂袋の材料は何かというと、怒り、妬み、謗り、愚痴、貪欲などです。
相手をわるく思ったり、わるく言ったり、恨んだり、憎んだり、
いらぬ取越し苦労をしたり、不安や恐怖にとらわれたり、嘘をついたりすることもそうです。
もちろん、人のものを盗むとか、足ることを忘れた欲望の虜になるとか、
そういうことも心を苦しめ、心を重くします。
心が軽い場合、重い場合、そのどちらもこの世に生かされている限りは、
物質、肉体の世界に心がつなぎとめられていることに変わりありません。

一定の範囲内で上のほうに風船のごとく漂っているか、
それとも砂袋ように下のほうに重く沈んでいるかの違いです。
しかし、臨終を迎え、この肉体界、現象界に心を結びつけていた肉体の命の糸がプツンと
切れると、軽い心は自ずと上へ上へと上昇して喜びの世界へ行きます。
重い心は鉛のように垂直方向に落ちて、苦しみの世界へ行きます。
これは自然法則と同様に私たちにとっては逆らうことのできぬことです。
いかに厚い信仰をしても、どんな宗教に入っても、どんなに善い事をしても、
その結果、自分の心を苦しめますと心は必ず重くなります。
下に行きたくない、上に昇りたいと言ったところでどうしようもありません。
先に「心の重さの法則」は「この世」だけに適用されるものではないということを述べました。
それは、こうした意味においてです。

肉体にあるうちに魂の目的を知り、自らの心を綺麗にし、
自らの心を高める努力をすることによってのみ、死後は自分の望む方向に行くことができるわけです。
己れ自身を愛することを神様は私たち一人一人に望んでおられます。
死んで自分が行くことになる所が、苦しみの世界ではなく光に満たされた世界であるためにも、
日頃から自分の心を苦しめないように心がけることが大切です。
「火の車つくる大工はなけれども己がつくりて己が乗りゆく」のとおりに、
火の車を造って乗っているのは他ならぬ自分であり、地獄へ行くのも自分が行くべくして
行っているということです。
これは厳然とした法則の中における人間の選択の自由ですが、その自由も魂の度合いに
応じたものです。

 
             ~ 感謝・合掌 ~





恩師「長尾弘」先生御垂訓

2014-08-27 01:42:16 | 日記

       恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


         第二章 必要なのは正しい生命観の確立


           ◆心の重量と行き着く先◆


地球がこの宇宙に誕生して四十六億年と言います。
そのうちで人間がこの世に生きていられる時間は、わずか五十年、百年の間です。
電子顕微鏡で見ても見えないくらいの小さな瞬間のはかない存在が人間というものです。
形あるものは時間の制約の中での現れにすぎず、実体を持ちません。
かげろうのように現れては消えていくこの世のあらゆるものの中にあって、
私たちの肉体も人生も例外ではありません。
そして何一つあの世に持っていけるものはありません。

そこで、唯一確かなことは仮の宿であるこの世いる間、
私たちの心というものがどういうものがどういう状態であるのか、
それだけが次の世界に移る時の天国と地獄の分かれ道となります。
私たちは本来、心とか意識として存在しているものであり、
「この世」と「あの世」とを往復している生き通しの存在です。
肉体は「この世」で使用済になれば、脱ぎ捨てるようなものです。
ほんとうの自分は痛くもかゆくもないものです。
ところで、その方の思いがどんな状態か、言葉がどんな状態か、行いがどんな状態か、
それによって人それぞれに違ういわば心の重さとでも呼ぶべきものが決定されます。
それがまたその人の置かれている境遇に影響してゆきます。

まず、風船のようにごく軽い心なら、この現象界の一定の上下幅の範囲内で、フワフワと
最上層のほうに浮かんでいます。
よく「足どりも軽やかに」とか、「心弾み、心踊る」とか、「手の舞い足の踏む所を知らず」
とか、「欣喜雀躍」などと言った慣用的な表現があります。
すべての喜びのあまり舞い上がりそうな軽快な心の状態、
はじけそうなエネルギーに満ちた明るい心の状態を言い表した表現です。
いつも喜びや感謝に心が満たされて日々の生活を送っていらっしゃる方は、
心が軽いので上のほうに浮かび上がっています。
心が常に安らかで人の幸せを願い、そのために人々に喜びを与え、
人々の幸せのために奉仕する人です。


           ~ 感謝・合掌 ~