ガ島通信で、平和をはじめとする市民団体への苦言が載っていた。
すべてを理解したり賛成したりするわけではない。しかし、面白いし、当たっていると思うことが大半だった。
実は、わたしは以前ある平和市民団体にいた。しかし、その中でのプチ・ファショともいうべき共同体主義に苦しめられたので、そこを辞めた。
その団体のなかでも、おかしなことはあった。
小汚い格好というのは、実際にホームレスや失業者・半失業者、低所得者の人たちもデモにやってくる以上、仕方がないところもある。軽い慢性的なウツ状態の人に、思いやりもなく「もっとおしゃれにしろ」というのはムリなリクエストだ。そういう言説が大きくなると、年収300万以下の人はデモにこれない、といった事態になりかねない。その点には注意をしながら、せめてゆとりのある参加者はもう少しきれいめの格好を心がける程度でいいと思う。
そういった団体のキーパーソンが、華やかでカラフルなものを生理的に嫌う。そのため、時に人をだましてでも明るくオシャレなデモやプラカードを作らせまいとすることも問題だ。わたしの関わったグループでは、デモで風船をリリースしようという案が出された。そのとき、世話人グループのうち数名は、「風船が海に届き、ウミガメがそれを飲み込んで死亡する」ことを根拠に反対し、勢いのよさで提案をボツにしてしまった。
1匹や2匹が死亡しても、生態系全体には大した影響ではない。また、京都市内でリリースした風船が、大量に日本海や瀬戸内海に到着するとは限らない。不審に思ったので後日ネットで調べたところ、風船は天然ゴムでできているので自然分解し、環境に悪影響はないという内容のHPもあった。要するに、カラフルなもの、華やかなものがキライなので、リーダーのひとりがダダをこね、周囲のを抱きこみ、支配欲を満足させていただけだったのだ。
また、その団体の中で、自分たちがいわゆる「共産党」とか「サヨク・プロ市民・過激派」とみなされる危険性についてあまりに認識がなっていないことにも驚かされた。その人たちは、都市ではなく田舎や郡部で、大学(町)ではなく地域やオフィスや工場で、「サヨク」がどのようなイメージで見られているのか、まったく知らない。
わがまま、非常識、幼稚、失礼、勉強不足、自意識過剰、自信過剰、プライドが高すぎる、コミュニケーション能力ゼロ、友達や恋人がいない、暴力的、ヤクザみたい、キチガイめいている、世間知らず、極端に観念的、勘違いしまくり、知性も感性もない、人をバカにしている、お金持ちのお坊ちゃんの道楽、偽善的、欺瞞的、ルサンチマン、カッコ悪い、恥ずかしい、イケてない……。
実際に半年間、デモやらミーティングやら飲み会にもつきあって、そうだと感じる。別に全員gではない。けれど、一部にでもそういう人がいれば、目立つものだ。たとえ統計的には誤差の範囲内であっても。世の中いろんな人がいるのだし、何百・何千と人が集まれば、わけのわからない人が一定の割合で存在するので仕方がないのだけれど……(^^;)。そんな人にも何か事情があるのかもしれず、基本的に寛容でありたいと思う。
けれど、次のような場合は別だ。
Ⅰ.人命に関わること。世話人のうち一人は、十数名をひきつれて、デモ中に意図的・組織的にバスの運行を妨害していた。通常の市民生活のジャマになったり、運動のイメージ・ダウンになるだけではない。もしその反戦アピールとは関連のない相手を選ばぬ敵対行為が人身事故につながったら、どうするつもりだったのだろう。自分たちがバスの下敷きになるかもしれないし、通行人や周囲の車を巻き込むリスクもあるのだ。
Ⅱ.それに絡んで、機能集団の共同体化。ちなみにその世話人は、昔の学生運動にあこがれている20前後の学生。いつも絶叫調で怒鳴ったり叫んだりすごんだりしてばかりいる。そのため、周囲は怖がって誰も彼女に強いことを言えない。京都のある大学に在籍中なのだが、その大学はもと全共闘の教員が多数在籍している。元中核派や元赤軍派で責任者だった人間さえいるのだ。当然、そこの学閥は、反戦グループの中で主流の勢力となっている。そのバックの怖さ手伝って誰も彼女に注意できない。中間団体レベルでのファシズムの誕生である。
主流のグループ以外の人間は、事実上意見を言う権利を奪われている。そこで、共同体のメンバーではないのに強く意見を言ったり、命令されていないのに気を利かせて会議のたたき台を作ったりした人間は、中傷・でっちあげ・無視・その他陰湿ないやがらせによって、スポイルされるか追い出される。なお、そのいやがらせのやり口は、企業のリストラと酷似している。「この共同体のなかでなら、何をやっても許される」といった今・ここでの専横がはびこる。一部のリーダー層以外は、それこそリーダーたちの気まぐれで殺されても仕方がない雰囲気だ。一部の人間の特権はあっても、誰にでもある人権は抑圧される。実際、あるサブリーダーは、燃え尽きた状態になり、3ヶ月ほどボランティアのできない状態になった。リーダーによる専制政治の犠牲者なのだ。
それから、団体関係者は、リベラルなまたはサヨク系の家・学校・職場・地域の出身者が多い。大学関係者を中心に、かなり浮世離れしている。保守的なコミュニティにおいては、職場や地域でなるべく目立たないこと、特定の宗教や信条を持たないことなどは大変大きな価値である。
怒鳴る、叫ぶ、殴りかかる身振りをする、といったことは、性格異常か文化不適応とみなされる。朝日新聞は捏造新聞であり、赤旗はまともな新聞だと思われていない。田舎の保守地域になれば、自民党以外は政党じゃない、自民党の政治家以外は政治家ではない、といった扱いはありふれている。ビラをまいたとか、デモに参加したといったことは、それが正しいかどうかは別として、村八分やリストラの理由づけには最適である。そういったことも分からないのは、世間知らずであり、幼稚である。頭が悪く、勉強不足、要領が悪いということになる。
ところが、リベラルまたはサヨク系のコミュニティのなかでは、価値は逆転する。社会的な不正に憤りを覚え、デモのときには我先にマイクを握り、怒鳴ったり叫んだりすごんだりすることがリスペクトされる。赤旗や朝日新聞は、世界でもっとも良心的なクオリティ・ペーパーであり、世界を代表するかのように思われている。ニューヨーク・タイムスよりもガーディアンよりも、朝日新聞の方が高級なのだ!
なぜだか「怒る」ことが至上の価値となっている。しょうっちゅう何かに怒ること、あるいは相手を怒らせることが推奨される。「そんなに怒ると心臓に悪い」「怒るばかりでなく、具体的な政策は?」などというのは、野暮の骨頂である。正義の心が足りないのはダメだと顔に描いてある状態で、白い目を作って冷静な人をにらんでいる。
保守に対して語りかける姿勢は平和団体には乏しい。サヨクやリベラルの仲間内で盛り上がっていればいいじゃない、という判断が強い。ただし、これではいつも同じメンバーで盛り上がることになる。当然、マンネリが生じる。マンネリを解決するために、何をするか。
わたしの関わった団体では、ムリなスケジュールを押し付けて忙しくさせることと、学級崩壊状態のミーティング、それに社会的弱者へのいじめだった。一月に何度も講演や会議や集会を開く。本来自分でそのつど判断して行く・行かないを決めるはずになっているのに、リーダーは「行けるか?」とみなの前で何人かに聞く。
おかしい。デモに行くことはいつから義務になったのか? 行けるかどうか人の能力を疑って、しかもみなの前でさらし者にしていいのか? 相手を信頼せず、個人の自律性を軽視した、強制動員にも似た行為だ。リーダーの冷酷さと征服欲の激しさは、せっかくの人のやる気をなえさせる。あたかも矯正収容収容所のような虚脱感と窮屈さが支配しているのだ。まるでナチス、まるでソ連。
そもそも、リーダーのロリコン趣味とマザコン人格にあわせて、反戦映画の上映会は「天空の城ラピュタ」「風の谷のナウシカ」といったラインナップじゃあ、来る人も来ないって!
え、「戦場のピアニスト」はキライ? そうでしょーねー。母子家庭手当ても奨学金も環境税も、福祉はみな国による財産権の侵害であり、廃止しろ。貧乏人や傷病者はそういう「連中」だけ集まってムラでも作って相互扶助して暮らせ。もし自分の家族や友人が交通事故にあってもそういうった生産性の低い人間を捨てる村に送り込む、という冷酷非道のリーダー弟、それに異を唱えられないヘタレのフォロアーであれば、そんなものでしょーねー。自分たちのファシストぶりがバレるとさすがに恥ずかしいのでしょー。そんな論理で喫茶店中に鳴り響く大声で責められたものだから、昔奨学金を使っていたある人は、いたたまれなくなってデモに来られなくなったのだけれど、そんなことは平和団体側にとってはどうでもいいいのでしょーねー。だから、次のような推測をされるですよ。
小さな目で見る大きな世界をご覧あれ。
立川でビラをまいただけで逮捕というのは、まったく不当で異常な事態であり、勝訴は当然だ。
しかし一方で、市民団体は、自らの偏狭さ、不適切さ、残酷さを反省すべきだとも思う。
草の根レベルの理解と協力と応援が、市民団体の味方だ。だったら、一般庶民の嫌がることを意図的にくりかえすのは、やめるべきなのだ。他の組織では通じない特殊なルールやマナーは見直したほうがよい。グループ内ファシズム状態も解除すべきだ。軍隊よりも軍隊チックな暴力愛好カルチャーもやめるべきだ。
特に人の首を切り落とす過激派と混同されたくないならば、そのことは大切なポイントだ。「とにかく、「自分たちはいいことをやっているんだから、他にどんなバカをやっても許される」的な勘違いだけはやめてもらいたい。
すべてを理解したり賛成したりするわけではない。しかし、面白いし、当たっていると思うことが大半だった。
実は、わたしは以前ある平和市民団体にいた。しかし、その中でのプチ・ファショともいうべき共同体主義に苦しめられたので、そこを辞めた。
その団体のなかでも、おかしなことはあった。
小汚い格好というのは、実際にホームレスや失業者・半失業者、低所得者の人たちもデモにやってくる以上、仕方がないところもある。軽い慢性的なウツ状態の人に、思いやりもなく「もっとおしゃれにしろ」というのはムリなリクエストだ。そういう言説が大きくなると、年収300万以下の人はデモにこれない、といった事態になりかねない。その点には注意をしながら、せめてゆとりのある参加者はもう少しきれいめの格好を心がける程度でいいと思う。
そういった団体のキーパーソンが、華やかでカラフルなものを生理的に嫌う。そのため、時に人をだましてでも明るくオシャレなデモやプラカードを作らせまいとすることも問題だ。わたしの関わったグループでは、デモで風船をリリースしようという案が出された。そのとき、世話人グループのうち数名は、「風船が海に届き、ウミガメがそれを飲み込んで死亡する」ことを根拠に反対し、勢いのよさで提案をボツにしてしまった。
1匹や2匹が死亡しても、生態系全体には大した影響ではない。また、京都市内でリリースした風船が、大量に日本海や瀬戸内海に到着するとは限らない。不審に思ったので後日ネットで調べたところ、風船は天然ゴムでできているので自然分解し、環境に悪影響はないという内容のHPもあった。要するに、カラフルなもの、華やかなものがキライなので、リーダーのひとりがダダをこね、周囲のを抱きこみ、支配欲を満足させていただけだったのだ。
また、その団体の中で、自分たちがいわゆる「共産党」とか「サヨク・プロ市民・過激派」とみなされる危険性についてあまりに認識がなっていないことにも驚かされた。その人たちは、都市ではなく田舎や郡部で、大学(町)ではなく地域やオフィスや工場で、「サヨク」がどのようなイメージで見られているのか、まったく知らない。
わがまま、非常識、幼稚、失礼、勉強不足、自意識過剰、自信過剰、プライドが高すぎる、コミュニケーション能力ゼロ、友達や恋人がいない、暴力的、ヤクザみたい、キチガイめいている、世間知らず、極端に観念的、勘違いしまくり、知性も感性もない、人をバカにしている、お金持ちのお坊ちゃんの道楽、偽善的、欺瞞的、ルサンチマン、カッコ悪い、恥ずかしい、イケてない……。
実際に半年間、デモやらミーティングやら飲み会にもつきあって、そうだと感じる。別に全員gではない。けれど、一部にでもそういう人がいれば、目立つものだ。たとえ統計的には誤差の範囲内であっても。世の中いろんな人がいるのだし、何百・何千と人が集まれば、わけのわからない人が一定の割合で存在するので仕方がないのだけれど……(^^;)。そんな人にも何か事情があるのかもしれず、基本的に寛容でありたいと思う。
けれど、次のような場合は別だ。
Ⅰ.人命に関わること。世話人のうち一人は、十数名をひきつれて、デモ中に意図的・組織的にバスの運行を妨害していた。通常の市民生活のジャマになったり、運動のイメージ・ダウンになるだけではない。もしその反戦アピールとは関連のない相手を選ばぬ敵対行為が人身事故につながったら、どうするつもりだったのだろう。自分たちがバスの下敷きになるかもしれないし、通行人や周囲の車を巻き込むリスクもあるのだ。
Ⅱ.それに絡んで、機能集団の共同体化。ちなみにその世話人は、昔の学生運動にあこがれている20前後の学生。いつも絶叫調で怒鳴ったり叫んだりすごんだりしてばかりいる。そのため、周囲は怖がって誰も彼女に強いことを言えない。京都のある大学に在籍中なのだが、その大学はもと全共闘の教員が多数在籍している。元中核派や元赤軍派で責任者だった人間さえいるのだ。当然、そこの学閥は、反戦グループの中で主流の勢力となっている。そのバックの怖さ手伝って誰も彼女に注意できない。中間団体レベルでのファシズムの誕生である。
主流のグループ以外の人間は、事実上意見を言う権利を奪われている。そこで、共同体のメンバーではないのに強く意見を言ったり、命令されていないのに気を利かせて会議のたたき台を作ったりした人間は、中傷・でっちあげ・無視・その他陰湿ないやがらせによって、スポイルされるか追い出される。なお、そのいやがらせのやり口は、企業のリストラと酷似している。「この共同体のなかでなら、何をやっても許される」といった今・ここでの専横がはびこる。一部のリーダー層以外は、それこそリーダーたちの気まぐれで殺されても仕方がない雰囲気だ。一部の人間の特権はあっても、誰にでもある人権は抑圧される。実際、あるサブリーダーは、燃え尽きた状態になり、3ヶ月ほどボランティアのできない状態になった。リーダーによる専制政治の犠牲者なのだ。
それから、団体関係者は、リベラルなまたはサヨク系の家・学校・職場・地域の出身者が多い。大学関係者を中心に、かなり浮世離れしている。保守的なコミュニティにおいては、職場や地域でなるべく目立たないこと、特定の宗教や信条を持たないことなどは大変大きな価値である。
怒鳴る、叫ぶ、殴りかかる身振りをする、といったことは、性格異常か文化不適応とみなされる。朝日新聞は捏造新聞であり、赤旗はまともな新聞だと思われていない。田舎の保守地域になれば、自民党以外は政党じゃない、自民党の政治家以外は政治家ではない、といった扱いはありふれている。ビラをまいたとか、デモに参加したといったことは、それが正しいかどうかは別として、村八分やリストラの理由づけには最適である。そういったことも分からないのは、世間知らずであり、幼稚である。頭が悪く、勉強不足、要領が悪いということになる。
ところが、リベラルまたはサヨク系のコミュニティのなかでは、価値は逆転する。社会的な不正に憤りを覚え、デモのときには我先にマイクを握り、怒鳴ったり叫んだりすごんだりすることがリスペクトされる。赤旗や朝日新聞は、世界でもっとも良心的なクオリティ・ペーパーであり、世界を代表するかのように思われている。ニューヨーク・タイムスよりもガーディアンよりも、朝日新聞の方が高級なのだ!
なぜだか「怒る」ことが至上の価値となっている。しょうっちゅう何かに怒ること、あるいは相手を怒らせることが推奨される。「そんなに怒ると心臓に悪い」「怒るばかりでなく、具体的な政策は?」などというのは、野暮の骨頂である。正義の心が足りないのはダメだと顔に描いてある状態で、白い目を作って冷静な人をにらんでいる。
保守に対して語りかける姿勢は平和団体には乏しい。サヨクやリベラルの仲間内で盛り上がっていればいいじゃない、という判断が強い。ただし、これではいつも同じメンバーで盛り上がることになる。当然、マンネリが生じる。マンネリを解決するために、何をするか。
わたしの関わった団体では、ムリなスケジュールを押し付けて忙しくさせることと、学級崩壊状態のミーティング、それに社会的弱者へのいじめだった。一月に何度も講演や会議や集会を開く。本来自分でそのつど判断して行く・行かないを決めるはずになっているのに、リーダーは「行けるか?」とみなの前で何人かに聞く。
おかしい。デモに行くことはいつから義務になったのか? 行けるかどうか人の能力を疑って、しかもみなの前でさらし者にしていいのか? 相手を信頼せず、個人の自律性を軽視した、強制動員にも似た行為だ。リーダーの冷酷さと征服欲の激しさは、せっかくの人のやる気をなえさせる。あたかも矯正収容収容所のような虚脱感と窮屈さが支配しているのだ。まるでナチス、まるでソ連。
そもそも、リーダーのロリコン趣味とマザコン人格にあわせて、反戦映画の上映会は「天空の城ラピュタ」「風の谷のナウシカ」といったラインナップじゃあ、来る人も来ないって!
え、「戦場のピアニスト」はキライ? そうでしょーねー。母子家庭手当ても奨学金も環境税も、福祉はみな国による財産権の侵害であり、廃止しろ。貧乏人や傷病者はそういう「連中」だけ集まってムラでも作って相互扶助して暮らせ。もし自分の家族や友人が交通事故にあってもそういうった生産性の低い人間を捨てる村に送り込む、という冷酷非道のリーダー弟、それに異を唱えられないヘタレのフォロアーであれば、そんなものでしょーねー。自分たちのファシストぶりがバレるとさすがに恥ずかしいのでしょー。そんな論理で喫茶店中に鳴り響く大声で責められたものだから、昔奨学金を使っていたある人は、いたたまれなくなってデモに来られなくなったのだけれど、そんなことは平和団体側にとってはどうでもいいいのでしょーねー。だから、次のような推測をされるですよ。
小さな目で見る大きな世界をご覧あれ。
立川でビラをまいただけで逮捕というのは、まったく不当で異常な事態であり、勝訴は当然だ。
しかし一方で、市民団体は、自らの偏狭さ、不適切さ、残酷さを反省すべきだとも思う。
草の根レベルの理解と協力と応援が、市民団体の味方だ。だったら、一般庶民の嫌がることを意図的にくりかえすのは、やめるべきなのだ。他の組織では通じない特殊なルールやマナーは見直したほうがよい。グループ内ファシズム状態も解除すべきだ。軍隊よりも軍隊チックな暴力愛好カルチャーもやめるべきだ。
特に人の首を切り落とす過激派と混同されたくないならば、そのことは大切なポイントだ。「とにかく、「自分たちはいいことをやっているんだから、他にどんなバカをやっても許される」的な勘違いだけはやめてもらいたい。
市民運動は、正義に酔うと駄目なようですね。
ただ事は決してリベラル及び左翼の問題だけではありません。
お嫌いかもしれませんが、「新しい教科書をつくる会」の運動や北朝鮮拉致被害者奪還運動も、そう言うところがちらちら見受けられます。
同じ目的で集まる同士というのは、多かれ少なかれこういう問題を孕むのだと思います。
人間の業なのかもしれません。
あの、リベラル・サヨク以外にも同じようなところがあるというのはちょっと怖いですね。まあ、右も左も全体主義の双子の兄弟といってしまえばそれまでですけど(苦笑)。
ところで、「作る会」や拉致被害者奪還運動グループの中で、困ったところとがあるとのことですが。具体的にはどういった点でしょうか?
できれば詳しく報告していただけると、今後ものを考えたり、市民グループを運営する時の参考になると思うのですが。