『磐城誌料歳時民俗記』の世界

明治時代の中頃に書かれた『磐城誌料歳時民俗記』。そこには江戸と明治のいわきの人々の暮らしぶりがつぶさに描かれています。

陰暦1月7日  七草粥

2008年09月30日 | 伝説
天保12(1841)年に、いわきの地に生まれ、
大正元(1912)年に没した
大須賀筠軒(おおすが いんけん)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
今回もまた、紐解くこととする。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦1月7日の項には、
次のような記述がある。

七日 朝、七草粥ヲ作リ、餅ヲ細カニ切リ入レ、
神ヘ供ヘ、門松ヘモ供フ。
小童群(ムラガ)リ、門松ヲトリ除ク。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。

陰暦1月7日 朝、七草粥(ななくさかゆ)を作り、
そこに小さく切った餅を入れる。
粥は神様や門松にもお供えする。
また、この日には大勢の子どもたちが集まり、門松を片付ける。


七草粥を、
「お正月の間、ずっと餅を食べ続け、
もたれ気味になったお腹の具合を
整えるために七草粥を食べる」
などと説明、解釈する人がいるが、
それは誤っていると思う。

中国の「人日(じんじつ)の節句」に関わる風習、
さらには
1月15日の小正月を迎えるにあたって、
身を清めるために行う風習である
と私は考えています。
コメント (1)
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