ケガレと銅鐸 通信

ケガレ、銅鐸、このふたつの日本史上の謎を解明します。ケガレの起源とは何か、銅鐸とは何か、これらは大いに関係があります。

ケガレの起源と銅鐸 通信6号 昔の一日は日暮れから始まった、のか?

2018-04-23 20:42:06 | 通信
ケガレと銅鐸 通信6号
―ふたつの謎の解明について―
2018年2月10日

昔の一日は日暮れから始まった、のか?

 
ごあいさつ
この通信ではできるだけ身近な話題を取り上げて、私の問題意識からその話題に切り込み、その核が日本文化の深いところにつながっているものであることを述べていきます。反論、補足、助言、情報提供など、ご教示いただけるとうれしく存じます。


新聞からラジオから
古事記を楽しむ(2)
天岩屋戸神話とは何か

2018年1月16日 火曜日 NHKラジオ第1 23時台 ラジオ深夜便「ないとエッセー」
 古事記研究者で千葉大学名誉教授、三浦佑之(すけゆき)氏の話。全4回の第2回目は天(あめの)岩屋(いわや)戸(ど)神話について語っていました。三浦氏は天岩屋戸神話について、この神話は訳のわからないところがあると言っています。それはそのとおりで、物語の展開は辻褄のあわないところが多いのです。
まずスサノヲは亡くなった母のいる根之(ねの)堅(かた)洲(す)国(くに)に行きたいというのですが、そもそもスサノヲは父イザナキが鼻を洗ったら生まれてきたのです。母イザナミがスサノヲを産んだわけではありません。三浦氏は、根之堅洲国とは母なる世界、原郷の世界と解釈しておくことにしますといっています。
高天原では、アマテラスはスサノヲがやってきたのは高天原を奪うためではないかと疑います。それに対してスサノヲは姉にそむくつもりはなく、心は清らかで私心はないと答え、それなら誓約(ウケヒ)をしてみましょうというのです。ウケヒというのは占いで、その占いによって勝ち負けを決めようというのですが、何によって勝ち負けを判定するのか、その取り決めが物語では明らかではありません。それでもスサノヲは勝った勝ったと騒ぎ立てて、意味のわからないスサノヲの大暴れが展開するのです。
スサノヲがなぜ大暴れすることになるのか、それも筋立てははっきりしません。三浦氏はこんないきさつをドタバタ喜劇のようだとも言っています。天岩屋戸神話は明らかに物語としては破綻しているのです。
 三浦氏はこれらのわからないところは置いておいて、その上で、この神話は冬至の太陽の復活を表しているといいます。いろいろな説がありますが、いちばんわかり易いのは冬至の太陽の復活説であろうというのです。従来もっとも普及している解釈がこの冬至の太陽の復活説です。
 この神話の展開はわからないことだらけです。それなのに、この神話の意味は冬至の太陽の復活だといえるのでしょうか。それはたんに日の神アマテラスが隠れて、ふたたび現われるから、そして世界には似たような冬至をめぐる祭りがあるからというにすぎません。
 天岩屋戸神話の物語のわかりにくさ、その破綻や辻褄のあわない展開をもう一度ふりかえってみましょう。三浦氏のいうとおり、
1.亡き母の国へ行きたいというが、スサノヲはイザナミから生まれたのではない。
2.ウケヒ、占いの判定基準がない。そもそも設定されていない。
3.スサノヲが暴れる理由が物語の展開の中にない。
このように大きな破綻、疑問がありながら、三浦氏は、この神話は太陽を活性化させるお祭りを芝居仕立てで演じてみせたものだといいます。だから、あまり真面目に読み解くのではなく、神話を楽しめばいいのであるというのです。
 ところが、射日・招日神話で解釈すれば、こうした辻褄のあわない強引なストーリーの展開も説明がつくのです。それはスサノヲを登場させて、ケガレを一掃させるために設定されたのだということがわかるのです。さらに言えば、
4.榊(さかき)をなぜ、根こそぎにして山から下ろし、祭式の次第に使ったのか。
5.なぜアメノウズメが桶をふせて、その上で踊るのか。
6.なぜスサノヲは追放されたのに、下界では英雄になるのか。
 4.5.6.これらの説明も可能になるのです。6.は、斎藤英喜『荒ぶるスサノヲ、七変化 中世神話の世界』p30によれば、これは難問だとされているそうです。スサノヲはケガレを生み出す、撒き散らす者から、下界に下りるとヲロチ退治というケガレを祓う者、ケガレを処理する者となります。ここに民俗の神が発生する根拠があると、私は考えています。でも今は、これらについて言い出すと長くなるので、またいずれの機会ということにします。


『散歩の手帖』から 25号第5章をうけて
昔の一日は日暮れから始まった、のか?

現在、一日の始まりは午前0時、夜中の12時になっています。しかし昔はそうではなく、日暮れから始まっていたらしいこと、それはなぜか、はたしてそうかという話をします。
 柳田国男は『日本の祭』のなかで、日本人の昔の一日は夕日が沈んだときに始まるのだということを多くの学者が説いている、と述べています。「多くの学者が」というのはどうもそうでもないようですが。それはともかく、だからたとえば、大晦日の夕飯を年越しとか年取りというのだ、というわけです。私の経験でいえば、年越しそばを大晦日の夕飯に食べているのですが、なぜだろうと思っていました。大晦日の夕飯を年越し、年取りということは知りませんでした。ですから年越しそばというなら、除夜の鐘を聴きながら年をまたいで食べるのが、年越しそばではないか、と思っていたのです。でも柳田が、あるいは「多くの学者が」いうように、大晦日の夕方が新年の始まりだというならば、大晦日の夕飯に年越しそばでいいわけです。
 青森県出身のMさんの話では、大晦日の夕飯はご馳走で、正月のおせち料理が並んだものだということです。ただそれをおせちといったかどうか、覚えていないとのことです。柳田国男の『先祖の話』のなかに「年越の宵のおせちと、翌朝のいはゆる雑煮」という記述があります。
 『日本民俗事典』(大塚民俗学会編)では、

大晦日の夜は、年の夜とか年取りとかいって家内中が揃って祝膳につき、歳神棚の神供と同じものを共食する。これが古来の習わしで、この夜は一年中でいちばん御馳走のある夜であった。この料理をオセチといった。関西で大晦日の夜の食事をオセチと呼んでいるのはいちばん昔の心持に近いと思われる。

 このように、大晦日の夕飯はすでに新年の始まりだったと解釈できます。つまり日暮れから一日が始まるわけです。また柳田はこうも言っています。
 我々の祭りの日は、今でいえば前日の夕(ゆう)御饌(みけ)から始まって、つぎの朝(あさ)御饌(みけ)をもって完成している。この夕から朝までの間の一夜が祭りの大切な部分であった、と。だから夜半の0時をまたいだり、朝日が昇るときや、東の空が白むときを一日の始まりと思うようになって、2日続きの式のように解する人が多くなった、と述べています。元は夕方から祭りが始まり翌朝に完了するまでひとつながりだったというわけです。
 哲学者の田中元(げん)が『古代日本人の時間意識 その構造と展開』という本を書いています。そのなかで田中は、一日の始めを夕べとしている現象は世界的に広く見られると述べています。しかしなぜ一日の始まりが夕べ、つまり日没からなのか、その根拠はわからないと記しています。
 田中は上記の柳田の説も検討しています。また、一日がいつ始まってどのように経過していくのかといったことは、なかなか資料として残りませんが、田中はかろうじて古典文学のなかにいくらか見られる例を紹介しています。そして、古典に現われる我々の生活における「一日」や時間の経過に関する描写などを分析しています。その結果、必ずしも昔は日暮れに一日が始まったとは決められるものではないとしています。
 確かにそうだと思います。私は『散歩の手帖』25号で「5章 一日の始まりは日没から」という文章を書きました。これは一日の始まりは日暮れからであるという結論を射日・招日神話にもとづく祭りの考え方から導き出したものでした。この考え方もその結果もまちがいではないと今も思っています。射日・招日神話にもとづくと、太陽を鎮める作業は日没後ただちに始まり、夜を徹して行なうのです。これが祭りの目的です。ですから日本の祭りには夜の祭りが多いのです。
ただ、その一方でそんなにはっきり断定できることなのか、との思いがありました。つまりそれは日常の生活における時間と祭りの時間とは別なのではないかという考え方です。
 通信3号の「寝正月の起源と初夢」で私は、大晦日から元旦は夜通し起きていたものであるという例を紹介しましたが、これは祭りだからこそです。ですから「昔の一日は日暮れから始まった」というのは「祭りに関しては」という限定がつくのではないかと思うのです。祭りの意味が非常に重かった古代においては、祭事(まつりごと)、政事(まつりごと)は夜から朝が中心でした。やはり田中の同書によりますと、律令時代には朝臣は日の出前に出勤していたといいます。でもこのような早朝に出仕して午前中に退出したのは限られた貴族層であったようです。そして一般の官人、役民たちは日没まで働いていたようです。そして、

一般的にいって、高級官人、律令制以前は豪族ないし貴族層は早朝、それも日出薄明の頃にその一日が始まり、午前中に勤務を終えたこと、下級官人や役民たちは日出あるいはそれ以前から日没まで働いたということができようか。
 一般民衆については確たることはいえないが、しかし太陽の光以外に明りをもたなかった民衆にとって、一日はやはり日出と日没によって区切られたであろう。

と述べています。
 田中はさらに『隋書』倭国伝からも引用し、開皇20年(600年)に日本の使者が隋朝に参上して述べたこととして、薄明の頃に仕事が始められ、太陽が中天に上る以前に仕事を終えるものである、という話を紹介しています。
 そうすると、歴史をさかのぼればさかのぼるほど、早朝へ、未明へ、深夜へと国の重要な祭事、政事は夜型で行なわれていたかもしれません。射日・招日神話で祭祀を行なえば当然夜型になるからです。なぜなら、余った危険な太陽、つまりケガレの太陽を地中に鎮めることができるのは、太陽が沈んでいる夜のうちだからです。夜をとおして太陽を鎮め、翌朝、我々の望む穏やかなひとつの太陽が昇るのを祈るのです。それが日本の祭りの原型だと私は考えています。それをやるのは王権の中枢、支配層であり、だからこそ夜の祭り、早朝、薄明が大事だったのです。
しかし、一般民衆にとっては祭りの日はともかく、ふだんの日はどうでしょう。これから暗くなる、休もう、寝ようというのに、一日が始まるというのはやはり納得しにくいでしょう。それに対して祭りの日は、夕方から祭りを執行して夜通し眠らないのです。だから祭りの日の始まりは夕方なのだということではないでしょうか。

ケガレと銅鐸 通信5号

2018-04-23 20:32:01 | 通信
ケガレと銅鐸 通信5号
―ふたつの謎の解明について―
2018年1月23日


なぜ五目飯、混ぜご飯なのか

ごあいさつ

「ケガレ」と「銅鐸」、このまったく無関係にみえるふたつの事柄ですが、実はおおいに関係があります。この通信の目的は、歴史上のあるいは民俗のさまざまな事例をつかって、ケガレの起源とは何か、銅鐸とは何かについて考えることです。そしてこのふたつがなぜ深い関係にあるのか、日本文化にいかに大きく関わっているかについて明らかにしていきます。
この通信ではできるだけ身近な話題を取り上げて、私の問題意識からその話題に切り込み、その核が日本文化の深いところにつながっているものであることを述べていきます。反論、補足、助言、情報提供など、ご教示いただけるとうれしく存じます。
 
新聞からラジオから     鏡餅の鏡って何

2017年12月31日 日曜日 NHKラジオ第1 「クイズ王が教える究極の雑学とは」10:17ごろ
 鏡餅の鏡とは何か。それは神社の鏡ですという話でした。鏡自体が神様にささげる神聖なものなのだから、ということです。そのとおりです。では、その鏡とは何でしょうか。なぜ鏡を神聖な神器(じんぎ)としたのでしょうか。
 鏡とは何か、それはアマテラスです。アマテラス自身がそう言っているからです。『古事記』『日本書紀』の天孫降臨の段で、日の神であるアマテラスが天下りするアマツヒコホノニニギノミコトに「この鏡を私と思え」といって鏡を授けるのです。『古事記』(小学館日本古典文学全集)p129現代語訳によると、「この鏡はひたすら私の御魂(みたま)として、私に謹み仕えるように身心を清めて祭り仕えなさい」とあります。
 ですから鏡とは日の神アマテラスであり、つまりは太陽の象徴です。神社の鏡だというのでは答になっていないのです。鏡は太陽ですし、鏡餅も太陽ですし、そもそも餅が太陽です。これらは民俗のいろいろな場面に現われています。しかしそれには射日・招日神話をよりどころとしてみれば、という前提がつきます。この前提なくして餅の意味、ケガレの意味、銅鐸の意味はわかりません。
 ちなみに柳田国男は、鏡餅は心臓の形から来ているのではないか、と心臓説を唱えました。『日本民俗大辞典』にも柳田の心臓説を載せています。しかし、柳田自身も述べているように、この説にはとくに根拠はありません。

なぜ五目飯、混ぜご飯なのか
通信4号 2ページの「五穀餅」をうけて

 通信4号「ミンマと神話」で取り上げた事例の3つ目で、このとき投げる餅は五穀餅であると紹介しました。そして五穀餅は神話上の要素では「ケガレの象徴」であると、私は述べたのです。だからこそ、餅を焦がしたり、すすけさせたりするのです。それは、元来はケガレの象徴であることを示すためなのだ、という説明をしました。
 その原理は餅ばかりではなく、五目飯、混ぜご飯も同じことです。従来は五目飯、混ぜご飯は日常の食事の補い、米の節約のため、米の足りない分の補いという解釈ですが(『日本民俗大辞典』)、それはちがいます。現実問題としてそうした一面は確かにあったでしょうが、発生の意味、その由来はまったく別の理由によります。その理由とは、色をつけるとか、他の食材を混ぜるのはケガレを象徴させるためであり、その由来は射日・招日神話に起源があると考えられるのです。私は『散歩の手帖』28号で五目飯、混ぜご飯はケガレの象徴であることを述べています。そのなかで使った民俗事例をふたたび引用します。

事例18 岡山県邑久郡牛窓町2-149
〔千手〕では、餅搗(つ)きの日はきまっていないが、暮れがおしつまってからつくことが多い。(略)餅搗きのあと、五目飯を食うのが親睦でもあった。しかし、これも67~8年前のことである。

 餅搗きのあとは五目飯を食べると決っていたわけです。この報告書は昭和37年度に記録の作成をしていますから、35年ころの実態として、その67~8年前というと、明治25年ころです。『日本民俗大辞典』では「混ぜご飯はもともと、日常の食事の補いにすぎなかった」としていますが、これはまちがいということになります。明治時代すでに餅搗きの日、いわばこれも年中行事の一環ですから、餅搗きのあと決って五目飯を食うということは、混ぜご飯は行事食であったといえます。
 さらに『日本民俗大辞典』では「戦後になって白米飯が常食可能となり、具や調味料が充実すると、五目飯のように支度に手間がかかる混ぜご飯はカワリモノ(御馳走)と呼ばれ、行事や祭の日の食事に加えられた」と述べているのですが、これでは戦後になって混ぜご飯は行事食になったことになり、これもまちがいということになります。事例18にみるとおり、すでに明治時代から行事食だったのですから。後で述べますが、実際には明治どころかはるか古代からすでに行事食だったことが『日本民俗大辞典』の「ざっこく 雑穀」の項や日本書紀からうかがえるのです。つぎに日待ちの例を紹介します。

事例19 岡山県和気郡和気町吉田2-163
(正月の)5日夜から6日朝にかけてお日待ちをしていた。終戦までは村中の男が子どもまで全員寄り合っていた。今は1軒から1人出る。5日の夜は夜通し起きて話をし日の出を拝む。混ぜ飯(めし)をして食べていた。費用はお日待ち用のたんぼがあり、それから出していた。

 日の出を拝んだら、その後は混ぜご飯を食べているのです。お日待ち用のたんぼがあってそこから収穫した米でお日待ちの費用をまかなっていたのです。これも混ぜご飯を食べることが決っていた例です。事例18、19ではいずれも年中行事のなかに五目飯、混ぜご飯は組み込まれているのです。この2例ばかりではなく、年中行事のなかで各種の混ぜご飯を用意する例は数多くあります。
 小豆粥や赤飯も混ぜご飯の一種です。小豆には疑問があるとして、柳田は小豆の使われ方を問題にしています。柳田にとってその疑問は未解決のままでした。現在も未解決です。この問題もやはり28号であつかいました。私の結論は、小豆も餅と同じくケガレの象徴として使われているというものです。赤飯も赤飯投げや全国的にある凶事の赤飯など、やはりケガレの象徴としての使われ方も痕跡として残っています。
 このように、『散歩の手帖』28号で事例を示しているのですが、小豆、赤飯、雑煮、雑炊、七草粥、草餅、草団子、混ぜご飯、五目飯などはどれもケガレの象徴として年中行事のなかで使われてきたのです。たとえば、( )内は私の解釈ですが、
○ あん入り餅は正月にやってくる(ケガレを運び去る役としての)乞食に与えるために搗いておく。
○ 神社の屋根に赤飯を供えて(ケガレを運び去る役の)カラスに与える。
○ 正月の食べ残しで(ケガレを象徴する)雑炊を作り、トシトコ様に供える。
○ 七草雑炊を(ケガレの行き場所としての)境界へ行って作って食べる。
○ 宵宮に(ケガレを象徴する)ヨモギ入りの団子を作る。
○ お日待ちをして(ケガレを象徴する)混ぜご飯を食べる。
このように米由来の食品を食べたり、供物にしたり、乞食、カラス、トシトコ様に与えたり、境界へ行って食べたり、宵宮、お日待ちをした末に朝を迎えたりします。それはケガレを運び去らせたり、祓ったりしているのです。そのケガレの行き先は銅鐸を埋めることに由来する境界です。あるいは宵宮、お日待ちをして、ケガレの太陽を鎮めている夜なのです。
これらは民俗のなかに伝統的な供え方や食べ方として残っていますが、それらがケガレの象徴であることが民俗伝承自体によって語られることはありません。それは射日・招日神話自体が忘れ去られて、歴史の中に埋もれてしまったからです。もちろん文献のなかにも、みられません。これも28号18ページ「文献ではわからない小豆のケガレ」として述べました。
 文献からは、小豆がケガレの象徴であることは認められません。それは廣野卓の『食の万葉集 古代の食生活を科学する』によって確認できます。廣野は『古事記』『日本書紀』『万葉集』『年中行事抄』『荊楚歳時記』『延喜式』などによって、小豆が文献に現われたころの様子を究明しています。『土佐日記』『枕草子』これらには小豆粥がでてきますが、やはり小豆がケガレの象徴だったことが認められる表現はありません。
 通信4号の「ミンマ」で取り上げた五穀餅は「神話上の要素」の分類のなかでは1.ケガレの象徴として、1.餅をあぶる、1.たき火でふすべる(すすけさせる)といっしょの分類に入れています。餅を焦がしたり、すすけさせたりして汚すことと、米にほかの雑穀類を混ぜて汚れさせることで共通しているからです。それを墓地で切り分けて配るのも共通しているので、同じ分類になります。
 こうして五目飯、混ぜご飯はケガレの象徴として機能してきた痕跡をとどめているのです。『日本民俗大辞典』の「ざっこく 雑穀」(増田昭子)にケガレの象徴として機能してきたことをうかがわせる内容が読み取れます。
 たとえば「米を主食とする者を優越視し、雑穀を食べる者は蔑視された」とか「男は米の飯を、女はヒエ中心の飯を食べた」というのは、米より一段劣るものとしての雑穀と「蔑視」がつながっていたり、女性はケガレであるとする歴史が背景にあるのです。その一方で、「蔑視された雑穀は神聖な食物としても意識された」といういっけん矛盾したあつかいを受けているのはなぜでしょう。これは、かつては、雑穀はケガレの象徴としてケガレを祓うために用いるものであったから、神事にかかせないのです。それが発展したと考えると矛盾しないのです。「正月の鏡餅や雑煮は、新年にあたっての五穀豊穣・家内安全の象徴である」というのも、ケガレを祓った結果として良きことをもたらすのは餅や雑穀の力であるという理解が普及していくからでしょう。「この鏡餅や雑穀に粟餅や稗餅、黍餅を用いる例は全国的にみられる」というのも、稲作文化のなかで、雑穀を使ったケガレ祓いも、やはり普遍的に行なわれていたことを示すものでしょう。
 ところで、すでに混ぜご飯は行事食だったらしいことを示す例が『日本書紀』にみられ、ケガレの象徴ともとれる箇所があります。持統元年(687年)です。『散歩の手帖』28号19ページで書きました。
 やはり『食の万葉集』で廣野は「八月(はつき)の壬(みずのえ)辰(たつ)の朔(ついたち)丙(ひのえ)申(さる)に、殯(もがり)宮(のみや)に嘗(なおらいたてまつ)る。此を御青(あおきお)飯(もの)と曰(い)ふ」というのを紹介しています。そして「日本古典文学大系」『日本書紀』の頭注に「一説に青(あお)飯(いい)を菜(な)飯(めし)とする」との記述があることを指摘しているのです。
 ただ、廣野は「新嘗(にいなめ)において祖霊に青飯を供える慣例の検討はべつにして」と述べて、テーマからはずれているので、ここのところをさらりと通過しています。古くには、新嘗とは新年を迎えることと同義ですから、そのおり、青飯である混ぜご飯を供えるということは、ケガレの象徴としての御青(おあきお)飯(もの)を祓えやって新年を迎えるということにならないか。とすれば青飯もまたケガレの象徴になります。
 このように小豆、あるいは青飯をケガレの象徴という立場から見ていけば、古代にすでにその痕跡なしとはしないのです。
 以上みてきたように、五目飯、混ぜご飯はもともと『日本民俗大辞典』のいうような通常食ではないし、日常の食の補いなどではなく、ケガレを祓う意味をもった行事食だったのです。

ケガレと銅鐸 通信4号

2018-04-22 19:13:40 | 通信
ケガレと銅鐸 通信4号
―ふたつの謎の解明について―
2017年12月31日


 「ケガレ」と「銅鐸」、このまったく無関係にみえるふたつの事柄ですが、実はおおいに関係があります。この通信の目的は、歴史上のあるいは民俗のさまざまな事例をつかって、ケガレの起源とは何か、銅鐸とは何かについて考えることです。そしてこのふたつがなぜ深い関係にあるのか、日本文化にいかに大きく関わっているかについて明らかにしていきます。
この通信ではできるだけ身近な話題を取り上げて、私の問題意識からその話題に切り込み、その核が日本文化の深いところにつながっているものであることを述べていきます。反論、補足、助言、情報提供など、ご教示いただけるとうれしく存じます。
 
新聞からラジオから
ミンマ

2017年12月13日 水曜日 NHKラジオ第1 マイあさラジオ 5:20ごろ
 「ミンマ」という愛媛県の行事を紹介していました。今年亡くなった人、新仏の正月だそうです。ミンマ餅をお墓でちぎって、皆にわけて食べるという話です。その餅のあつかいが興味深いのです。ちぎった餅を包丁に刺して、だまって、振り向かずに後ろの人にわたす、つまり肩越しにわたすわけです。その放送を聴いて、ああ、ここにも残っていると思いました。何が残っているのかといえば、神話にさかのぼるケガレ祓(はら)いの痕跡が残っているのです。今号はこの「ミンマ」について考えます。



ミンマ(巳午)と神話

 12月の巳(み)の日と午(うま)の日にかけて行ないます。それでミンマです。その年に亡くなった人のための正月を祝う行事だそうです。仏さんの正月、巳正月ともいわれています。なぜ巳と午の日なのかわかりません。陰陽道(おんみょうどう)が関係しているとの説があります。
 おもに2つのブログを参考にして書きます。『医座寺住職の独り言 はじめまして医座寺住職の熊澤です。私の独り言をお聞き下さい。』と『愛媛の伝承文化 民俗学・日本文化論。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。大本敬久のブログ。』という、2件とも愛媛県内から発信されているブログです。大本氏は愛媛県歴史文化博物館の学芸員です。
 ラジオでたまたま聞いたローカルな話題について、なぜわざわざ書く気になったのか。そこまで私に興味をおこさせたのは、やっぱり、餅のあつかい方に思い当たることがあったからでした。ミンマの餅には日本の民俗史が秘められているのです。2つのブログから餅に関する部分だけ引用します。下線と( )内は私の書き込みです。

『医座寺住職の独り言 ~』
 (ミンマは)最近では日中に行われますが、昔は夜墓参りして、逆さになった(綯(な)った)しめ飾りを飾り、当日ついたお餅をワラを燃やしてあぶり、千切り分け食べるが、一切無言で行うのが習わし、決して手渡しはしない。必ず刀に刺したり、竹の先に刺して渡す。

『愛媛の伝承文化 ~』
 墓前にて、死者の身の近い者が餅を後ろ手に持ち、鎌で切って、墓参者に配って食べる。(略)餅は塩あんの餅であること、餅は順手ではなく、肩越しに渡さなければいけない(振り向いてはならない)など奇妙な作法があること。

 行事の名称はちがいますが『正月行事3』(文化財保護委員会)61ページにも「辰巳正月」として載っていました。愛媛県に隣接する徳島県の祖谷地方の民俗です。これも餅に関するところだけ引用します。
(12月の辰巳の日に墓前で)念仏を唱え、霊(たま)祭りが終わると、お供えした豆腐と餅をすみのほうから切り、包丁の先でつきさし、たき火でふすべて、参列者に捧げると、参列者は、手に受け、食べるまねをして、うしろに投げる。このときの餅は五穀餅で、米・あわ・ひえ・あずき・たかきびの五穀で作る。

 ミンマはほぼ愛媛県内の民俗ですが、隣接する香川県、徳島県、高知県のそれぞれ一部にも及んでいます。各地で少しずつちがいがありますが、似たような行為、仕草を昔から継承しているのです。
 ミンマをどう解釈するのかについて、大本敬久氏は「ミンマを祝うことで死者のケガレと決別し、忌明けとするのである。この行事は家族、親族がその年の不幸を断ち切り、新たなる年を迎えるための知恵から生まれたものと言えるだろう」と述べています。わかりやすい、納得しやすい解釈です。結果としてそういうことになっているように見えます。しかし発生の起源は新年を迎えるための知恵や死者との別れとして始まったのではないと私は考えています。では何でしょうか。
 民俗のなかで、どういう行為、仕草が行なわれているか、という点に注目し、それらの発生の起源にさかのぼる必要があります。そこで注目したいのは、これらの民俗には、餅が元はケガレの象徴だったことの痕跡を留めているという点です。では何をもってケガレの痕跡だったといえるのでしょうか。
 ケガレを象徴する行為であるというのは、餅をあぶる、切る、突き刺す、このときに無言である、振り向かないなどのことです。これらの仕草は全国的にさまざまな民俗のなかに何気なく含まれているものです。これらにどんな意味があるでしょうか。
 医座寺住職の熊澤氏のブログでは、たとえば無言であるというのは、敵に気づかれないようにとか、刀に刺すというのは、戦を忘れないため、などが理由としています。ミンマの起源は戦国時代にあるらしいということから推察しているのです。これもわかりやすい解釈です。でもこれもちがいます。
 これらのひとつひとつの些細な行為が意味しているのは天(あめの)岩屋(いわや)戸(ど)神話とその母体である射(しゃ)日(じつ)・招(しょう)日(じつ)神話なのです。このわずか3つの事例のそれも餅のところだけ取り上げて、そんなことを言われたら、間違いなく眉に唾するでしょう。これまでに私の通信や『散歩の手帖』を読んできた人には、ああぁまた出た~~、となるでしょう。
 ところが、これらの些細な行為、仕草は全国の民俗に、ある共通した場面で、共通した意味をもって行われているのです。たとえば、
 ①烏(からす)勧請(かんじょう)の事例のなかに多く出てくることですが、カラスに与える以外にも、餅を切ったりちぎったりしているのです。カラスが食べやすいからという理由が思い浮かぶでしょうが、それだけではないのです。
 ②烏勧請で、餅や団子を茅や木の枝に突き刺すということをします。
 ③鍬(くわ)初(ぞ)め、鍬(くわ)入(い)りで餅を削ったり欠いたりして、供えたり地面に落したりします。
 ④鍬初め、鍬入りで、農地などへの行き帰りで人に出会っても無言で、あいさつもしないことになっています。
 山入りなどの行事でもこうした行為は見られます。
 では、餅をあぶる、切る、突き刺す、このときに無言である、後ろを振り向かないなど、これらは何を意味しているのでしょうか。そして全国的に共通しているこのようなささやかな行為、些細な仕草が、どうして各地の民俗のなかに残っているのでしょう、どうして延々と引き継がれてきたのでしょうか。それは射日・招日神話と天岩屋戸神話がかかわっているからです。では二つの神話について説明します。
射日・招日神話は、古代中国の江南に起源のある稲作文化に発生した神話です。ある日、いっぺんに10個の太陽が昇り旱魃(かんばつ)で人間は苦しめられたのですが、弓使いの英雄が現われて余分な9つの太陽を射落とすというのが射日神話です。そのあと残ったひとつの太陽がこわがって山の向こうに隠れてしまったのを再び呼び戻すのが招日神話です。稲作文化の要素として列島に伝播し、天岩屋戸神話もそれを引き継ぎます。天岩屋戸神話では、余った危険な太陽はスサノヲのばらまくありとあらゆる災禍、つまりケガレとなります。ケガレを嫌ってアマテラスは岩屋戸に籠ります。アメノウズメの踊りがケガレの太陽を鎮めて、アマテラスが復帰します。スサノヲはケガレとともに追放され、高天原はケガレのない世界になるのです。
神話の要素はつぎのようになります。
           1        2        3      4        
射日・招日神話 余った危険な太陽  射落とす       暗闇    秩序の回復
天岩屋戸神話  ありとあらゆる災禍 アマテラスの岩戸籠り 暗闇 ウズメの踊り、スサノヲ追放
要素       1.ケガレの象徴  2.太陽を射落とす  3.暗闇 4.スサノヲにかかわらない


ミンマには射日・招日神話、天岩屋戸神話の要素の断片が紛れ込んでいます。ミンマに限らず、日本の民俗行事や民俗芸能の多くにはこの2つの神話の要素が溶け込んでいるのです。ではまずそれらの断片を拾い出してみます。先に引用した3事例の線引きの箇所です。

    断片   → → →       神話上の要素           
3.夜                  3.暗闇
1.餅をあぶる              1.ケガレの象徴
2.餅をちぎる              2.太陽を射落とす
4.一切無言で行なう           4.スサノヲにかかわらない
2.刀に刺す、竹の先に刺す        2.太陽を射落とす
2.鎌で切る               2.太陽を射落とす
4.肩越しに渡す(振り向いてはならない)  4.スサノヲにかかわらない
2.餅を切る               2.太陽を射落とす
2.包丁の先で突き刺す          2.太陽を射落とす
1.たき火でふすべる(すすけさせる)   1.ケガレの象徴
4.後ろに投げる(振り向いてはならない)  4.スサノヲにかかわらない
1.五穀餅                1.ケガレの象徴

 以上のように、断片を拾い出し(左側)、神話の要素1.2.3.4.に従って4つに分類してみました(右側)。そうすると元の神話のストーリーが不完全ながら組み上がります。「1.ケガレの象徴」余った危険な太陽とスサノヲがばらまいたありとあらゆる災禍はケガレを意味し、餅がそのケガレを象徴します。その餅は焦がす、すすをつける、五穀を混ぜることでケガレであることを強調します。「2.太陽を射落とす」、アマテラスの岩戸籠りは太陽を射落とす意味です。餅を刺したり切ったりするのは太陽を射る象徴です。「3.暗闇」その結果、暗闇になります。「4.スサノヲにかかわらない」ひとつの太陽になり、秩序が回復され、ウズメの踊りによってアマテラスは復帰し、追放されるスサノヲにはかかわってはならないのです。この手法はさまざまな民俗事象の解釈に応用が利きます。
 以上でミンマは古代神話を継承していることがおわかりになると思います。こうした一見意味不明な行為、仕草が全国的にさまざまな民俗に残っている、その事実は重いというわけです。こうした民俗は古代神話とつながり、さらに銅鐸にも結びつくのですが、それについてはいずれまた。