ケガレと銅鐸 通信6号
―ふたつの謎の解明について―
2018年2月10日
昔の一日は日暮れから始まった、のか?
ごあいさつ
この通信ではできるだけ身近な話題を取り上げて、私の問題意識からその話題に切り込み、その核が日本文化の深いところにつながっているものであることを述べていきます。反論、補足、助言、情報提供など、ご教示いただけるとうれしく存じます。
新聞からラジオから
古事記を楽しむ(2)
天岩屋戸神話とは何か
2018年1月16日 火曜日 NHKラジオ第1 23時台 ラジオ深夜便「ないとエッセー」
古事記研究者で千葉大学名誉教授、三浦佑之(すけゆき)氏の話。全4回の第2回目は天(あめの)岩屋(いわや)戸(ど)神話について語っていました。三浦氏は天岩屋戸神話について、この神話は訳のわからないところがあると言っています。それはそのとおりで、物語の展開は辻褄のあわないところが多いのです。
まずスサノヲは亡くなった母のいる根之(ねの)堅(かた)洲(す)国(くに)に行きたいというのですが、そもそもスサノヲは父イザナキが鼻を洗ったら生まれてきたのです。母イザナミがスサノヲを産んだわけではありません。三浦氏は、根之堅洲国とは母なる世界、原郷の世界と解釈しておくことにしますといっています。
高天原では、アマテラスはスサノヲがやってきたのは高天原を奪うためではないかと疑います。それに対してスサノヲは姉にそむくつもりはなく、心は清らかで私心はないと答え、それなら誓約(ウケヒ)をしてみましょうというのです。ウケヒというのは占いで、その占いによって勝ち負けを決めようというのですが、何によって勝ち負けを判定するのか、その取り決めが物語では明らかではありません。それでもスサノヲは勝った勝ったと騒ぎ立てて、意味のわからないスサノヲの大暴れが展開するのです。
スサノヲがなぜ大暴れすることになるのか、それも筋立てははっきりしません。三浦氏はこんないきさつをドタバタ喜劇のようだとも言っています。天岩屋戸神話は明らかに物語としては破綻しているのです。
三浦氏はこれらのわからないところは置いておいて、その上で、この神話は冬至の太陽の復活を表しているといいます。いろいろな説がありますが、いちばんわかり易いのは冬至の太陽の復活説であろうというのです。従来もっとも普及している解釈がこの冬至の太陽の復活説です。
この神話の展開はわからないことだらけです。それなのに、この神話の意味は冬至の太陽の復活だといえるのでしょうか。それはたんに日の神アマテラスが隠れて、ふたたび現われるから、そして世界には似たような冬至をめぐる祭りがあるからというにすぎません。
天岩屋戸神話の物語のわかりにくさ、その破綻や辻褄のあわない展開をもう一度ふりかえってみましょう。三浦氏のいうとおり、
1.亡き母の国へ行きたいというが、スサノヲはイザナミから生まれたのではない。
2.ウケヒ、占いの判定基準がない。そもそも設定されていない。
3.スサノヲが暴れる理由が物語の展開の中にない。
このように大きな破綻、疑問がありながら、三浦氏は、この神話は太陽を活性化させるお祭りを芝居仕立てで演じてみせたものだといいます。だから、あまり真面目に読み解くのではなく、神話を楽しめばいいのであるというのです。
ところが、射日・招日神話で解釈すれば、こうした辻褄のあわない強引なストーリーの展開も説明がつくのです。それはスサノヲを登場させて、ケガレを一掃させるために設定されたのだということがわかるのです。さらに言えば、
4.榊(さかき)をなぜ、根こそぎにして山から下ろし、祭式の次第に使ったのか。
5.なぜアメノウズメが桶をふせて、その上で踊るのか。
6.なぜスサノヲは追放されたのに、下界では英雄になるのか。
4.5.6.これらの説明も可能になるのです。6.は、斎藤英喜『荒ぶるスサノヲ、七変化 中世神話の世界』p30によれば、これは難問だとされているそうです。スサノヲはケガレを生み出す、撒き散らす者から、下界に下りるとヲロチ退治というケガレを祓う者、ケガレを処理する者となります。ここに民俗の神が発生する根拠があると、私は考えています。でも今は、これらについて言い出すと長くなるので、またいずれの機会ということにします。
『散歩の手帖』から 25号第5章をうけて
昔の一日は日暮れから始まった、のか?
現在、一日の始まりは午前0時、夜中の12時になっています。しかし昔はそうではなく、日暮れから始まっていたらしいこと、それはなぜか、はたしてそうかという話をします。
柳田国男は『日本の祭』のなかで、日本人の昔の一日は夕日が沈んだときに始まるのだということを多くの学者が説いている、と述べています。「多くの学者が」というのはどうもそうでもないようですが。それはともかく、だからたとえば、大晦日の夕飯を年越しとか年取りというのだ、というわけです。私の経験でいえば、年越しそばを大晦日の夕飯に食べているのですが、なぜだろうと思っていました。大晦日の夕飯を年越し、年取りということは知りませんでした。ですから年越しそばというなら、除夜の鐘を聴きながら年をまたいで食べるのが、年越しそばではないか、と思っていたのです。でも柳田が、あるいは「多くの学者が」いうように、大晦日の夕方が新年の始まりだというならば、大晦日の夕飯に年越しそばでいいわけです。
青森県出身のMさんの話では、大晦日の夕飯はご馳走で、正月のおせち料理が並んだものだということです。ただそれをおせちといったかどうか、覚えていないとのことです。柳田国男の『先祖の話』のなかに「年越の宵のおせちと、翌朝のいはゆる雑煮」という記述があります。
『日本民俗事典』(大塚民俗学会編)では、
大晦日の夜は、年の夜とか年取りとかいって家内中が揃って祝膳につき、歳神棚の神供と同じものを共食する。これが古来の習わしで、この夜は一年中でいちばん御馳走のある夜であった。この料理をオセチといった。関西で大晦日の夜の食事をオセチと呼んでいるのはいちばん昔の心持に近いと思われる。
このように、大晦日の夕飯はすでに新年の始まりだったと解釈できます。つまり日暮れから一日が始まるわけです。また柳田はこうも言っています。
我々の祭りの日は、今でいえば前日の夕(ゆう)御饌(みけ)から始まって、つぎの朝(あさ)御饌(みけ)をもって完成している。この夕から朝までの間の一夜が祭りの大切な部分であった、と。だから夜半の0時をまたいだり、朝日が昇るときや、東の空が白むときを一日の始まりと思うようになって、2日続きの式のように解する人が多くなった、と述べています。元は夕方から祭りが始まり翌朝に完了するまでひとつながりだったというわけです。
哲学者の田中元(げん)が『古代日本人の時間意識 その構造と展開』という本を書いています。そのなかで田中は、一日の始めを夕べとしている現象は世界的に広く見られると述べています。しかしなぜ一日の始まりが夕べ、つまり日没からなのか、その根拠はわからないと記しています。
田中は上記の柳田の説も検討しています。また、一日がいつ始まってどのように経過していくのかといったことは、なかなか資料として残りませんが、田中はかろうじて古典文学のなかにいくらか見られる例を紹介しています。そして、古典に現われる我々の生活における「一日」や時間の経過に関する描写などを分析しています。その結果、必ずしも昔は日暮れに一日が始まったとは決められるものではないとしています。
確かにそうだと思います。私は『散歩の手帖』25号で「5章 一日の始まりは日没から」という文章を書きました。これは一日の始まりは日暮れからであるという結論を射日・招日神話にもとづく祭りの考え方から導き出したものでした。この考え方もその結果もまちがいではないと今も思っています。射日・招日神話にもとづくと、太陽を鎮める作業は日没後ただちに始まり、夜を徹して行なうのです。これが祭りの目的です。ですから日本の祭りには夜の祭りが多いのです。
ただ、その一方でそんなにはっきり断定できることなのか、との思いがありました。つまりそれは日常の生活における時間と祭りの時間とは別なのではないかという考え方です。
通信3号の「寝正月の起源と初夢」で私は、大晦日から元旦は夜通し起きていたものであるという例を紹介しましたが、これは祭りだからこそです。ですから「昔の一日は日暮れから始まった」というのは「祭りに関しては」という限定がつくのではないかと思うのです。祭りの意味が非常に重かった古代においては、祭事(まつりごと)、政事(まつりごと)は夜から朝が中心でした。やはり田中の同書によりますと、律令時代には朝臣は日の出前に出勤していたといいます。でもこのような早朝に出仕して午前中に退出したのは限られた貴族層であったようです。そして一般の官人、役民たちは日没まで働いていたようです。そして、
一般的にいって、高級官人、律令制以前は豪族ないし貴族層は早朝、それも日出薄明の頃にその一日が始まり、午前中に勤務を終えたこと、下級官人や役民たちは日出あるいはそれ以前から日没まで働いたということができようか。
一般民衆については確たることはいえないが、しかし太陽の光以外に明りをもたなかった民衆にとって、一日はやはり日出と日没によって区切られたであろう。
と述べています。
田中はさらに『隋書』倭国伝からも引用し、開皇20年(600年)に日本の使者が隋朝に参上して述べたこととして、薄明の頃に仕事が始められ、太陽が中天に上る以前に仕事を終えるものである、という話を紹介しています。
そうすると、歴史をさかのぼればさかのぼるほど、早朝へ、未明へ、深夜へと国の重要な祭事、政事は夜型で行なわれていたかもしれません。射日・招日神話で祭祀を行なえば当然夜型になるからです。なぜなら、余った危険な太陽、つまりケガレの太陽を地中に鎮めることができるのは、太陽が沈んでいる夜のうちだからです。夜をとおして太陽を鎮め、翌朝、我々の望む穏やかなひとつの太陽が昇るのを祈るのです。それが日本の祭りの原型だと私は考えています。それをやるのは王権の中枢、支配層であり、だからこそ夜の祭り、早朝、薄明が大事だったのです。
しかし、一般民衆にとっては祭りの日はともかく、ふだんの日はどうでしょう。これから暗くなる、休もう、寝ようというのに、一日が始まるというのはやはり納得しにくいでしょう。それに対して祭りの日は、夕方から祭りを執行して夜通し眠らないのです。だから祭りの日の始まりは夕方なのだということではないでしょうか。
―ふたつの謎の解明について―
2018年2月10日
昔の一日は日暮れから始まった、のか?
ごあいさつ
この通信ではできるだけ身近な話題を取り上げて、私の問題意識からその話題に切り込み、その核が日本文化の深いところにつながっているものであることを述べていきます。反論、補足、助言、情報提供など、ご教示いただけるとうれしく存じます。
新聞からラジオから
古事記を楽しむ(2)
天岩屋戸神話とは何か
2018年1月16日 火曜日 NHKラジオ第1 23時台 ラジオ深夜便「ないとエッセー」
古事記研究者で千葉大学名誉教授、三浦佑之(すけゆき)氏の話。全4回の第2回目は天(あめの)岩屋(いわや)戸(ど)神話について語っていました。三浦氏は天岩屋戸神話について、この神話は訳のわからないところがあると言っています。それはそのとおりで、物語の展開は辻褄のあわないところが多いのです。
まずスサノヲは亡くなった母のいる根之(ねの)堅(かた)洲(す)国(くに)に行きたいというのですが、そもそもスサノヲは父イザナキが鼻を洗ったら生まれてきたのです。母イザナミがスサノヲを産んだわけではありません。三浦氏は、根之堅洲国とは母なる世界、原郷の世界と解釈しておくことにしますといっています。
高天原では、アマテラスはスサノヲがやってきたのは高天原を奪うためではないかと疑います。それに対してスサノヲは姉にそむくつもりはなく、心は清らかで私心はないと答え、それなら誓約(ウケヒ)をしてみましょうというのです。ウケヒというのは占いで、その占いによって勝ち負けを決めようというのですが、何によって勝ち負けを判定するのか、その取り決めが物語では明らかではありません。それでもスサノヲは勝った勝ったと騒ぎ立てて、意味のわからないスサノヲの大暴れが展開するのです。
スサノヲがなぜ大暴れすることになるのか、それも筋立てははっきりしません。三浦氏はこんないきさつをドタバタ喜劇のようだとも言っています。天岩屋戸神話は明らかに物語としては破綻しているのです。
三浦氏はこれらのわからないところは置いておいて、その上で、この神話は冬至の太陽の復活を表しているといいます。いろいろな説がありますが、いちばんわかり易いのは冬至の太陽の復活説であろうというのです。従来もっとも普及している解釈がこの冬至の太陽の復活説です。
この神話の展開はわからないことだらけです。それなのに、この神話の意味は冬至の太陽の復活だといえるのでしょうか。それはたんに日の神アマテラスが隠れて、ふたたび現われるから、そして世界には似たような冬至をめぐる祭りがあるからというにすぎません。
天岩屋戸神話の物語のわかりにくさ、その破綻や辻褄のあわない展開をもう一度ふりかえってみましょう。三浦氏のいうとおり、
1.亡き母の国へ行きたいというが、スサノヲはイザナミから生まれたのではない。
2.ウケヒ、占いの判定基準がない。そもそも設定されていない。
3.スサノヲが暴れる理由が物語の展開の中にない。
このように大きな破綻、疑問がありながら、三浦氏は、この神話は太陽を活性化させるお祭りを芝居仕立てで演じてみせたものだといいます。だから、あまり真面目に読み解くのではなく、神話を楽しめばいいのであるというのです。
ところが、射日・招日神話で解釈すれば、こうした辻褄のあわない強引なストーリーの展開も説明がつくのです。それはスサノヲを登場させて、ケガレを一掃させるために設定されたのだということがわかるのです。さらに言えば、
4.榊(さかき)をなぜ、根こそぎにして山から下ろし、祭式の次第に使ったのか。
5.なぜアメノウズメが桶をふせて、その上で踊るのか。
6.なぜスサノヲは追放されたのに、下界では英雄になるのか。
4.5.6.これらの説明も可能になるのです。6.は、斎藤英喜『荒ぶるスサノヲ、七変化 中世神話の世界』p30によれば、これは難問だとされているそうです。スサノヲはケガレを生み出す、撒き散らす者から、下界に下りるとヲロチ退治というケガレを祓う者、ケガレを処理する者となります。ここに民俗の神が発生する根拠があると、私は考えています。でも今は、これらについて言い出すと長くなるので、またいずれの機会ということにします。
『散歩の手帖』から 25号第5章をうけて
昔の一日は日暮れから始まった、のか?
現在、一日の始まりは午前0時、夜中の12時になっています。しかし昔はそうではなく、日暮れから始まっていたらしいこと、それはなぜか、はたしてそうかという話をします。
柳田国男は『日本の祭』のなかで、日本人の昔の一日は夕日が沈んだときに始まるのだということを多くの学者が説いている、と述べています。「多くの学者が」というのはどうもそうでもないようですが。それはともかく、だからたとえば、大晦日の夕飯を年越しとか年取りというのだ、というわけです。私の経験でいえば、年越しそばを大晦日の夕飯に食べているのですが、なぜだろうと思っていました。大晦日の夕飯を年越し、年取りということは知りませんでした。ですから年越しそばというなら、除夜の鐘を聴きながら年をまたいで食べるのが、年越しそばではないか、と思っていたのです。でも柳田が、あるいは「多くの学者が」いうように、大晦日の夕方が新年の始まりだというならば、大晦日の夕飯に年越しそばでいいわけです。
青森県出身のMさんの話では、大晦日の夕飯はご馳走で、正月のおせち料理が並んだものだということです。ただそれをおせちといったかどうか、覚えていないとのことです。柳田国男の『先祖の話』のなかに「年越の宵のおせちと、翌朝のいはゆる雑煮」という記述があります。
『日本民俗事典』(大塚民俗学会編)では、
大晦日の夜は、年の夜とか年取りとかいって家内中が揃って祝膳につき、歳神棚の神供と同じものを共食する。これが古来の習わしで、この夜は一年中でいちばん御馳走のある夜であった。この料理をオセチといった。関西で大晦日の夜の食事をオセチと呼んでいるのはいちばん昔の心持に近いと思われる。
このように、大晦日の夕飯はすでに新年の始まりだったと解釈できます。つまり日暮れから一日が始まるわけです。また柳田はこうも言っています。
我々の祭りの日は、今でいえば前日の夕(ゆう)御饌(みけ)から始まって、つぎの朝(あさ)御饌(みけ)をもって完成している。この夕から朝までの間の一夜が祭りの大切な部分であった、と。だから夜半の0時をまたいだり、朝日が昇るときや、東の空が白むときを一日の始まりと思うようになって、2日続きの式のように解する人が多くなった、と述べています。元は夕方から祭りが始まり翌朝に完了するまでひとつながりだったというわけです。
哲学者の田中元(げん)が『古代日本人の時間意識 その構造と展開』という本を書いています。そのなかで田中は、一日の始めを夕べとしている現象は世界的に広く見られると述べています。しかしなぜ一日の始まりが夕べ、つまり日没からなのか、その根拠はわからないと記しています。
田中は上記の柳田の説も検討しています。また、一日がいつ始まってどのように経過していくのかといったことは、なかなか資料として残りませんが、田中はかろうじて古典文学のなかにいくらか見られる例を紹介しています。そして、古典に現われる我々の生活における「一日」や時間の経過に関する描写などを分析しています。その結果、必ずしも昔は日暮れに一日が始まったとは決められるものではないとしています。
確かにそうだと思います。私は『散歩の手帖』25号で「5章 一日の始まりは日没から」という文章を書きました。これは一日の始まりは日暮れからであるという結論を射日・招日神話にもとづく祭りの考え方から導き出したものでした。この考え方もその結果もまちがいではないと今も思っています。射日・招日神話にもとづくと、太陽を鎮める作業は日没後ただちに始まり、夜を徹して行なうのです。これが祭りの目的です。ですから日本の祭りには夜の祭りが多いのです。
ただ、その一方でそんなにはっきり断定できることなのか、との思いがありました。つまりそれは日常の生活における時間と祭りの時間とは別なのではないかという考え方です。
通信3号の「寝正月の起源と初夢」で私は、大晦日から元旦は夜通し起きていたものであるという例を紹介しましたが、これは祭りだからこそです。ですから「昔の一日は日暮れから始まった」というのは「祭りに関しては」という限定がつくのではないかと思うのです。祭りの意味が非常に重かった古代においては、祭事(まつりごと)、政事(まつりごと)は夜から朝が中心でした。やはり田中の同書によりますと、律令時代には朝臣は日の出前に出勤していたといいます。でもこのような早朝に出仕して午前中に退出したのは限られた貴族層であったようです。そして一般の官人、役民たちは日没まで働いていたようです。そして、
一般的にいって、高級官人、律令制以前は豪族ないし貴族層は早朝、それも日出薄明の頃にその一日が始まり、午前中に勤務を終えたこと、下級官人や役民たちは日出あるいはそれ以前から日没まで働いたということができようか。
一般民衆については確たることはいえないが、しかし太陽の光以外に明りをもたなかった民衆にとって、一日はやはり日出と日没によって区切られたであろう。
と述べています。
田中はさらに『隋書』倭国伝からも引用し、開皇20年(600年)に日本の使者が隋朝に参上して述べたこととして、薄明の頃に仕事が始められ、太陽が中天に上る以前に仕事を終えるものである、という話を紹介しています。
そうすると、歴史をさかのぼればさかのぼるほど、早朝へ、未明へ、深夜へと国の重要な祭事、政事は夜型で行なわれていたかもしれません。射日・招日神話で祭祀を行なえば当然夜型になるからです。なぜなら、余った危険な太陽、つまりケガレの太陽を地中に鎮めることができるのは、太陽が沈んでいる夜のうちだからです。夜をとおして太陽を鎮め、翌朝、我々の望む穏やかなひとつの太陽が昇るのを祈るのです。それが日本の祭りの原型だと私は考えています。それをやるのは王権の中枢、支配層であり、だからこそ夜の祭り、早朝、薄明が大事だったのです。
しかし、一般民衆にとっては祭りの日はともかく、ふだんの日はどうでしょう。これから暗くなる、休もう、寝ようというのに、一日が始まるというのはやはり納得しにくいでしょう。それに対して祭りの日は、夕方から祭りを執行して夜通し眠らないのです。だから祭りの日の始まりは夕方なのだということではないでしょうか。