邪馬台国・奇跡の解法

古代中国の知見と価値観で読む『倭人伝』解読の新境地

2・里程・行程読みの鉄則

2011-07-28 | ●『倭人伝』を読むための必須条件
 冒頭で、以下の通り『倭人伝』を素直に読むための条件を提示した。
①最もかんじんな女王の都に至る「日程・方角・行程手段・距離」の4つの要素のうち、どれかがどこかで不明になるような行程説明はあり得ない。(すべてが出そろう読み方は一つしかない)。
②海路航行距離は正しい距離測定ができない。測定不可能なものを正しく表記しようがない。そこで中国の数多の歴史書は、実際の距離とは無関係に1航海を1日単位表記、または1日航海を1000里単位で表記している。(仮に、風待ち・潮待ちで正午に出港して夕刻に到着しても1日もしくは1000里と表記となる)。
③東夷伝の中でも韓伝と『倭人伝』の陸路里程は、魏代の公式尺度の約6倍の尺度数値で書かれている。(巷間にいう「短里」とは根拠を根本的に異にする)。
④『倭人伝』は、帯方郡から女王の都に至るまでを、「順次読み」や「放射読み」するようには書いていないし、「水行ならば10日・陸行ならば1月」という書き方もしてはいない。
⑤異常な記録を的確に読み分けること。
 ここからいよいよ、この5項目について詳しく説明していく。

 まず、古代の中国王朝が地理をどうとらえ、どう位置づけていたのかを知るために、中国文化研究院のサイトを参考に、古代中国の地図学と地理学について簡単にみておく。
▼中国の古代地図学
 晋の武帝のとき司空に就任し裴秀(陳寿と同時代の人)は、「製図六礼」という地理学と地図学の法則を確立した。すなわち、縮尺比率・方位・距離・高低差がある場合の水平距離・交差道の角度・曲線区間での直線距離と直線の方位、以上の6つの求め方を確立している。中でも注目すべきなのは、曲線区間においては、直線距離と直線の方位を求めることである。
▼中国の古代地理学
 「軍事と地理は密接な関係にあり、中国古代の軍事的地理知識の累積は豊富である」としている。さらには、「軍事的地理把握の要件には、政治、経済、文化、歴史、地形、気象気候、城市、人口、河川等がある」としている。『倭人伝』の内容も、ほぼこの要件に沿っている。

 最近の邪馬台国論は、『倭人伝』を編纂した担当者が間違えたか机上で操作したとする声が多くなった。具体的には、「100里を500里と書いた」、「東を東南や南と書いた」、「方角を数十度傾けて説明している」、「意図的に誇張した」などである。「意図的に誇張した」ついては先に否定論拠を提示したので、ここでは東夷伝序文の行間が告げるところから、『倭人伝』編纂担当者が間違える要素がないことを確認する。

①『倭人伝』の原本記録は、中国王朝の公式調査記録であり、魏の官吏による実地踏査記録である。
②倭人の発見は、中国側にとって地理学的・民俗学的な発見である。
③魏政府にとっての倭国調査は、漢朝の西域調査に対する魏朝の東方調査という、学術調査事業としての意義が高かった。
④当然ながら、各分野の専門家を集めた調査団を随行員として派遣している。
⑤その証拠に東夷伝の中では唯一、王都に至る方角・距離・行程・日程が詳しく記録されている。


 倭国を訪問した使節団の使命の重さと「王朝の公文書」としての記録資料の重要性を考えれば、個人レベルの書き換え操作などあり得ないし、記録そのものが間違えることもない。むろん、これに基づく編纂者現場もプロとしての使命と判断力において、書かれている方角や距離を間違うことはない。事実、「その道里を計るとまさに会稽東冶の東にある」と、倭地が距離的には銭塘江の東方にあたると、編纂者自身が述べている。自らが書いた邪馬台国までの距離1万2000余里を、その程度とみていた証拠である。



❶里程・行程読みの鉄則
 『倭人伝』は、魏政府が派遣した使節団による公式訪問記録(公式調査記録)に基づいている。国家交流使節団というものは、色んな使命を複合的に帯びている。まして初訪問となれば、交流・交渉・交易などのほかにも、軍事目的の国情偵察・国力視察・内情調査・地理調査などのために、その分野の専門家を多数伴っていたと考えなければならない。ましてや、魏が倭国に使節団を派遣した背景には、漢朝の西方調査を意識した東方調査としての側面や、倭国からの軍事支援要請に応える軍事行動もからんでいる(後述)。決して単純なものではなく、相応の国家レベルの思惑が介在していたのである。
 そうした思惑含みでやってきた魏の使節一行にとって、『倭人伝』の原典をなした報告書は重要な公文書である。一方、これに基づいて『倭人伝』を編纂する担当者にとっては、調査団が作成した報告書は王朝の文化事業の一環としての、地理学的・民俗学的重要さを伴う記録である。しかも、絶対専制の時代に君主名代で史上初の訪問と総合調査がらみで外国を正式訪問した役人が、かんじんの王都に到る行程手段・日程・方角・距離について虚偽の報告をしたり手抜き報告をしては、首と胴体が無事につながっているという保証はない。
 (現代のサラリーマンが、初の海外出張で外国を訪問したとして、相手企業の本社の位置や日程などをい加減に報告することなどあり得ない。もしも、い加減に報告したらどうなるか。あえて説明するまでもないことである)。

 ……もうお分かりだろう。
①最もかんじんな女王の都する倭国首都までの「行程手段・方角・距離・日程」のうち、どこかで一つでも欠落するような報告書や調査記録は許されない。
②倭国王都までの行程説明の中で、「行程手段・方角・距離・日程」の要素うち、どこかで一つでも欠落する読み方はすべて間違いである。

 この鉄則にのっとった読み方は、これから説明するただ一つしかない。


●『倭人伝』行程説明の構成構造
 里程・行程読みの鉄則を『倭人伝』の文章構造で確認する。
  『倭人伝』の行程記録をみると、理屈では説明が不可能なほどに複雑なパターン変化をみせる。明らかに書き分けがされているからには、読み分けが必要であることを示唆している。
 中国語は「語順」が重要な意味をもつ言語である。語順が違えば読みも意味も違ってくる。語順の違いは文法の違いともいえる。左の表で分割したブロックはそれぞれに文法が異なる。やや乱暴だが、この違いを数学にたとえれば数式の違いである。数式が違えば出てくる回答も自ずと違ってくるものである。

●『倭人伝』行程説明の構成構造


❶対海国から伊都国までは「方角・行程・距離・国名」と文法が同じで、通しで順次読みする。従って、これが順次読みの文法という理屈になる。

❷伊都国から奴国と不弥国へは、「距離・国名」の順序が逆転して「国名・距離」に変わっている。奴国から不弥国への行程が書かれていないのは、伊都国までの行程と同じという意味にもとれる。だが私は、この区間が水陸兼用の行程だったことから、行程手段を特定しなかったものとみている。
 この見解の正否判断には、7世紀の倭国のことを記録した『隋書』が参考になる。当時の倭国の版図を「東西5月行、南北3月行」と書いている。日本列島の東西と南北を踏破するには、幾つもの河川を渡るし、中には渡海の水行もある。こうした水陸行を含む行程を「○○行」と表現しているものと思われる。

❸投馬国と邪馬台国のブロックになると明らかに文法が一変している。
 先に説明した通り、対海国から伊都国までは順次読みをしてきたし、伊都国から奴国と不弥国へも行程説明がないまま順次読みをしてきた。それらとは変って「方角・国名・行程・日程」になっている。起承転結でいえば、ここで文章が明らかに転じているのである。
 ここではじめて、ずっと不明のままだった日程が明らかにされているのだが、「倭国初訪問・初調査の報告記録としては、かんじんの女王国までの方角・行程・距離・日程のうち、どれか一つでも欠落するものではない」という鉄則に基づけば、ここで文章を転じて明らかにされた行程・日程は、帯方郡からの全行程・全日程であると読まなければならない。

 ここまで分析して見せなくても、道順や行程説明には不動の原則がある。それは、「目的地までの行程・距離・日程は出発地点からのものである」ということである。

 訪問調査記録としての鉄則、説明文言としての原則、そして文章構成と文法の変化、これらの条件に合致する里程・行程・日程の読みはただ一つしかない。それが次の読みである。

 南、至る投馬国。(帯方郡から)水行20日。
 南、至る邪馬台国。(帯方郡から)水行10日陸行1月。

 投馬国までの「水行二十日」は、帯方郡からの全行程と通算日数である。
 邪馬台国までの「水行十日陸行一月」も、帯方郡からの全行程と通算日数で、
 海路日数の十日と陸行の三十日で邪馬台国に至る。



※図中で「海路7000余里を7日間航海」、「1000余里を1日航海」としたことについては、このカテゴリーの「海路距離表記の実態」で詳しく説明している。また、末廬国(あるいは博多湾から)投馬国までの水行10日については、後半の「邪馬台国始末」の中の「狗奴国と投馬国」で詳しく説明している。

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