邪馬台国・奇跡の解法

古代中国の知見と価値観で読む『倭人伝』解読の新境地

●陸行を続ける

2011-07-28 | ●邪馬台国訪問始末
 ここで面白い試みをしよう。実に意外なことが見えてくる。

●隈のつく地名
①福岡県糸島半島/赤隈、松隈、丸隈山
・福岡県福岡市/道隈、七隈、干隈、田隈、月隈、金隈、雑餉隈、西隈、丸隈
・福岡県甘木市と夜須町周辺/隈、篠隈、乙隈、横隈、小隈、山隈、今隈
②大分県日田市/月ノ隈、星隈、三隈
・大分県玖珠町/大隈
③佐賀県大和町と神埼町周辺/中津隈、西隈、鈴隈、帯隈、早稲隈、日の隈、松隈、鳥の隈



 ごらん通り、福岡県、大分県、佐賀県に隈のつく地名が目につく。21世紀の現代までこれほどに残っているのだから、古くはもっと多かったものと思われる。ところが、クマ(隈)の本場の熊本市周辺には、菊池の隈府(わいふ)と城南町の隈庄(くまのしょう)ぐらいしかない。福岡県、大分県、佐賀県の場合は、すべて「◯◯隈」で、隈があとにつく地名ばかりである。熊本県にあるのは、どちらも「隈◯◯」で隈が頭につく。隈府と隈庄は両者ともに中世以降の地名なのだが、隈府のほうは古くは隈部(くまべ)があったことに由来する。
 久々知(のちに鞠智と書いた)にはもともと隈部と呼ばれた土地があって、11世紀初頭に土着した藤原氏の後裔が菊池氏を称して菊池となった。菊池の隈部はその後、室町時代に守護在住の地として隈府(くまふ)と呼ばれ、これが隈府(わいふ)と呼ばれるようになる。そこから、南北朝時代には隈本と呼ばれたが、1607年に加藤清正がこれを熊本に改めた
 隈部の由来となったクマは、「奥まったところ」という意味である。これに共通するのが久々知である。これには「山麓から平地へ出る口」という意味がある。奥まったところに「何か」があって、そこから出入りする口というわけである。(山門も同じような意味である)。

 まさに久々知は、クマ(八方ヶ岳山麓のうてな台地)の出入りの口にあたる。つまり、クマの本場の熊本平野にクマのつく地名が隈部だけだったのは、この一帯がクマの中心だったからである。福岡県、大分県、佐賀県の九州北部に◯◯隈のつく地名が多いのは、久々知のクマ(奥地)に政治の中心があって、その領域が北部九州の中心域に及んでいたことを示唆する。私は、倭国政権中枢が大和に遷都したあと太宰府が置かれるまでの期間、九州を管理する行政府が隈部だったのではないかとみている。

●大宰府が置かれた経緯
 府とはそもそも、中央(朝廷)から見た場合の地方の役所である。朝廷から軍政を任された幕府も、将軍府もしかり。大宰府はあくまでも中央(朝廷)からみれば地方官庁にすぎない。
 ※大宰府が置かれた時代については、私は磐井の乱後だと見ている。すなわち、磐井の乱で懲りた中央は(そちこちに直轄領の県を置くと同時に)、内外の出入りが活発な九州を地盤・金盤なしの役人を配して管理することになる。役人なら必要以上に力をつけることもないし、不穏な動きや不正をすれば首をすげ替えればよい。それでも慎重を期して、のちには天皇家の人材(親王)を長官に据えるようになる。
 ※「宰」を古代日本では「みこともち」と読んだ。みこともちとは、天皇の詔によって政務を行なうことで、詔(勅令)を受けて地方に赴き政務を司どった役人(主に国司)を指す。この「みこともち」を宰あるいは司と書いた。このことからみると、太宰府とは「大いなるみこともち)が仕事をする府」か、「みこともちが仕事をする大きな役所」というほどの意味だろう。「みこともち」とか大宰府という呼称からは、中央から派遣された官吏が地方の役所に赴く様子が伝わってくる。
 ※『日本書紀』によると、527年に発生した磐井の乱を鎮圧したあと、536年に大和朝廷が那津官家(なのつのみやけ)を置いた。当初は、「筑紫は遠近の国々が朝貢してくる玄関口であり、往来の関となる場所である。凶年に備え賓客をもてなし国を安んずるために、非常事態に備えて穀物を一箇所にまとめて貯蔵する」というのが目的だった。那津官家は筑紫官家(ちくしのみやけ)、筑紫太宰などとも呼ばれたが、これが太宰府の前身にあたる。『日本書紀』に太宰が登場するのは推古紀の609年で、筑紫太宰という常駐官を置いて隋や朝鮮との外交折衝に当たらせたと記されている。

 なお、「くま(隈)」の本拠地が菊池にあったことは明白なのだが、その菊池から遠く離れた人吉盆地を同じく「くま(球磨)」と呼んだ不可思議さについては、のちほど「狗古智卑狗の謎」の項で触れる。


●うてなの台地に帥升の王都
 菊池川流域の豊かさについては古代人のほうが最も良く理解していたとみえて、縄文時代における熱帯ジャポニカのプラントオパールが集中して出土している。(『民族の指紋』にくわしい)。弥生時代になると水田耕作もいち早く行なわれたらしく、玉名市両迫間・龍王田の両迫間日渡遺跡 で弥生時代前期(約2300年前)の 水田跡が確認されている。
 弥生時代の大規模集落遺も「うてな遺跡」だけに限らない。吉野ケ里遺跡に匹敵する大環濠集落の方保田東原遺跡がある。また、熊本平野弥生時代の鉄器生産の中心だったらしく、鍛治工房跡の数は日本一を誇っている。

 また、熊本平野は立地環境的にも古代における防衛構想を満たしている。筑後山地との唯一の南北の陸路となる南関は、八女と玉名の勢力が両面から固め、宇土半島を境とした南北の唯一の陸路は、宇土と八代勢力がの両面から固める。一方の海上交通は、有明海の出入り口となる早崎瀬戸と宇土半島先端を二重に固める。さらに、有明海を入った大河川には、河口部と中流部を幾重にも固める。そうやって幾重にも防衛網を敷いた菊池川上流部のクマには、山鹿市と菊地市が左右を固めた、平地よりも80m高い「うてな」の台地がある。その奥に、さらに100m高くそびえる60ヘクタールを超える台地。
 ここは、東と北の背後を高い山地が遮り、外的の侵入を拒み、左巻き台風の害が少ない奇跡の台地である。しかも菊池から大津へまたがる阿蘇外輪山西麓の広大な台地は、有数の畑作地であり、眼下には外海からの津波の害を受けにくい豊穣の内海が広がる。

 稲作と畑作と豊富な水産物と鉄。熊本平野には、(銅鏡など目ではない)古代国家経営の基盤となる「もの」が備っていたのである。


※熊本平野の防衛構想


●鞠智城趾から弥生の遺物が出土
 地元の考古学関係者によると、鞠智城趾の遺物は縄文時代から飛んで弥生終末から古墳時代前期の土器などが出土しており、そこから飛んで7世紀以降の遺跡と遺物が出土しているという。「弥生終末から古墳時代前期」という限られたこの時期には、倭国大乱の時期が入るし吉野ケ里が長い役割を終えた時期とも重なる。これは重要な証言である。 



※平成8年の貯水池の調査で出土した木製鋤出土状況。池底3mの堆積層に埋もれていた。
●写真出典:『文化財通信くまもと』第15号(平成10年3月)

 今のところ、鞠智城以前に「何か」があったことを告げる証人は、膨大な土塁遺構と古い堀っ立て柱遺構と、人工の貯水池から大型の木製鋤が2本出土していることぐらいである。
 鉄製の農耕具を使っていた7世紀の遺構から木製の鋤が出ることはない。ここで重要なのは、木製の鋤はほとんどが弥生遺跡から出土していることから、すでに弥生末から古墳時代前期において、人工の貯水池が米原の台地に存在していたという事実である。このことは、貯水池を必要とした計画的な大規な模集落か施設が存在したことを示唆する。

 私は長く熊本平野を邪馬台国領域と考えており、菊池川上流部の「うてな台地」が倭国王都で、その上の米原台地に倭国王の王城があって、これを卑弥呼が踏襲したと考えてきた。しかし、(王城は倭国大乱で消失したとみなす)、以下に列挙する事実を前にするに至って、卑弥呼の王都は別の場所に築かれたと考えるようになったものである。
●地元の考古学関係者によると、「米原台地にある鞠智城趾の8角楼閣は7世紀の遺物を含んだ整地層の上に立つ」。「遺物としては縄文時代から少し飛んで弥生終末期のものと古墳時代前期の土器などが出土しており、そこから飛んで7世紀以降の遺跡と遺物が出土している」ということだった。
 弥生終末から古墳時代前期という限られたこの時期には、倭国大乱の時期が入るし、吉野ケ里が長い役割を終えた時期とも重なる。また、鞠智城趾の人工貯水池と底から出土した木製の鋤は、卑弥呼時代以前のものである可能性が高いようである。
●『三国志』東夷伝の韓伝と倭人伝が魏の公式尺度の約6倍の数値で書かれており、そこから割り出した「陸行2000里」は、直線距離で144km前後という数値になる。邪馬台国が菊池ではこの数値に足りない。
 (伊都国を小城市の東南あたりとした場合、ここまでが500里だから、邪馬台国までは残り1500里。末魯国から伊都国までの距離の3倍になるが、邪馬台国が菊池ではこの数値の面でも足りない)。
●菊池の米原は不弥国の南ではない。



 米原台地には後ろ髪をひかれる思いなのだが、菊水町に戻って卑弥呼の邪馬台国への道を続けよう。



● 邪馬台が見える
 菊水町から植木町、北部町を経て約25 kmで熊本市中心部に到達する。唐津湾からここまでの合計距離がおよそ100km前後である。邪馬台国は近い。
 ただし、熊本城の前を流れる坪井川は水量の不安定な川で、白川はその名の通り「流れが白く見える」ほどの急流で、両者とも舟を使った交通路としては使えない。しかも、この二本の河川のほかには水路らしきものがない。古代の王都としては決め手に欠ける。
 熊本平野において、「交通路として使える中小の河川や水路を伴う、水を満々とたたえた緩やかな流れの大河川」といえば、なんといっても緑川である。ここはおそらく、今まで本格的に注目されたことはないと思うが、実は意味深長な遺跡と痕跡が多く残っている。

●まず河口域からみるが、ここで一度だけ、考古的裏づけによらない推測を述べさせていただく。
 緑川南側に着かず離れず沿うように、熊本市城南町の雁回山北麓を流れ、下流部で南へ大きく湾曲して宇土市を巡って緑川河口部にそぐ浜戸川がある。その大きく湾曲した下流部の南側が宇土市である。
 鹿児島本線の宇土駅と浜戸川に挟まれた松原町には、天然の環濠ともいえる地形がそのまま残っている。中でも宇土東小学校を中心としたエリアは、人為的に残したと思われる天然の水路が巡っている。この、ひょうたん形円形のエリアを二重・三重に囲むように天然の環濠を巡らせた雰囲気があって、ここには浜戸川への出入りを管轄した砦機能の環濠集落があったのではないかとみている。



 さらに、砦機能の環濠集落らしいものが歴然と残るエリアがもう一つある。緑川を少しさかのぼると、緑川と浜戸川が最も接近した所に富合町杉島がある。ここに、明らかに人工的な水路を兼ねた環濠とおぼしき一角がある。それはまさに、吉野ケ里に残る城郭のような対称形状をしている。ここには、緑川と浜戸川両方からの引き込み水路が南北に走っているが、まさに、両方の河川を往来する船の監視と検閲を行なった砦集落だったことを思わせる。



 あくまでも現在に残る地形による判断ではあるが、私は、かろうじて残った往時の砦集落の痕跡をみる。緑川流域と浜戸川流域には(多くは住居や水田の下に埋もれてしまったのだろうが)、こうした砦機能の環濠集落が幾つも配置されていたのではないかと私は思っている。
 果たして、ただの推測なのか的を射た洞察なのか。緑川流域以南の遺跡をみていこう。熊本県南部の城南町には大小7つの貝塚があるが、中でも浜戸川中流域の城南町にある御領貝塚と阿高貝塚・黒橋貝塚が抜けて大きい存在である。

●御領貝塚 (城南町大字東阿高字八ツ尾)
 約3000年前の縄文時代後期の貝塚で、雁回山東麓の舌状台地先端部にある。小山と見紛うほどに積まれた貝殻の98%が汽水のヤマトシジミで、ハマグリやカキなども出土している。大正年間に貝塚の貝を消石灰の原料に使ったため、一部が失われてしまった。それらを含めると、総面積は約4ヘクタールにも及ぶ九州最大級の貝塚である。出土遺物としては、九州の代表的な縄文土器である御領式土器(土器の表面を磨いた黒色研磨土器)のほかに、石器・石斧・鹿角斧・土偶・貝輪・硬玉製の管玉・石棒・抜歯をした人骨(約50体分)などがある。

●阿高貝塚・黒橋貝塚 (城南町大字下宮地字萱木)
 約4500年前の縄文時代中期の貝塚で、御領貝塚の北西約500mほどの場所にある。
浜戸川の左岸が阿高貝塚、右岸が黒橋貝塚である。ヤマトシジミ、ハマグリやカキなどのほかに、スズキ、ボラ、クロダイ、イノシシ、シカなどの骨が出土している。ほかには、曲線や直線を組み合わせた筋状模様が特徴の阿高式土器が出土している。また祭祀を伴う埋葬遺構も発見されている。(熊本市内の主な遺跡)
 このあたりが非常に豊かな土地で、縄文時代から人びとがと住み着いていたことが分かる。
 城南町には貝塚のほかに50を超える遺跡や古墳が確認されているが、中でも有名なのが、城南町の丸尾・丸山・北原・塚原にまたがる台地上にある古墳群である。「卑弥呼以降」をみる上で周辺の古墳をみておこう。

●塚原古墳群
 古墳時代前期から後期(4世紀から6世紀)にかけての古墳群で、方形周溝墓区画と、方墳・円墳区画、前方後円墳区画に計画的に区分けされ、約200年間にわたって造営されている。現在まで合計200基以上が確認されており、未確認分を含めると500基近くになるといわれている。
 宮崎県児湯群の西都原古墳群は、そもそもは斎殿原(さいとのはる)と呼ばれていた。その名からして、九州島の東側にあって、倭国の国葬センターともいうべき大斎場だったことを思わせる。塚原古墳群もおそらくは特定勢力単独の墓域ではなく、倭国における九州島西側の国葬センターともいうべき墓域だったものと思われる。この古墳群からは、朝鮮半島製と思われる高坏・皮袋形土器のほかに、直刀、剣、鎧、鉄鏃、管玉、勾玉、耳環などが出土している。
①花見塚古墳
 6世紀末の築造で、全長46・2mの前方後円墳。墳丘の周りには二重の楯形周溝があり、周溝を共有している円墳もある。埋葬施設には家形石棺が納められており、鉄剣・鎧・鏃・耳環・玉類などが出土している。
②琵琶塚古墳
 5世紀末から6世紀初頭の築造で、全長54mの柄鏡形の前方後円墳。墳丘の周りには楯形の周溝があり、円筒埴輪や朝顔型埴輪・須恵器・土師器などが出土している。墳丘に埴輪の配列がなされていたようである。(熊本市内の主な遺跡)



※緑川流域の遺跡分布

●その他の城南町周辺の古墳
①狐塚古墳
 城南町陣内の標高30mほどの丘陵上にある。馬の墓古墳とも呼ばれている、全長約23mの前方後円墳。後円部中央付近に主体部があり、粘土槨に礫床をもつ6区の土壙がある。金環、鉄鏃、広根式鉄鏃、鉄地鍍金帯金具、装身具などが出土している。築造時期は不明。
②井寺古墳
 上益城郡嘉島町の自然丘陵の突端近くにある円墳。5世紀末の築造で、石室は凝灰岩の切石を用いている。空間の周囲には槨壁を設け、直弧文や車輪形・梯子形等の文様が一定の順序をもって線刻されている。さらには槨壁の上縁や羨道の右側壁・羨門の両側柱にも赤・緑・白・藍の四色で文様が施されている。現代の抽象絵画を思わせる独特の文様で、古墳の装飾画の中でも最も特異で優れているとされる。(熊本市内の主な遺跡)
 井寺古墳の東にあたる秋津川流域と沼山津を含む寺迫地区には縄文の集落が集まっている。一方の緑川南部位置する宇土半島の基部一帯は、南との陸路の要衝にあってつねに有力者が配置されてきた。このあたりの遺跡にもひと通り触れておく。

●宇土市(宇土半島基部の北側)
①向野田古墳
 宇土市松山町向野田の標高37mの丘陵尾根先端にある。古墳時代前期の築造で、全長86mの前方後円墳。墳丘には葺き石が施されており、朝顔形埴輪などが採取されたことから、墳丘には埴輪の配列がなされていた思われる。
 阿蘇溶結凝灰岩をくり抜いて造られた石棺内には、身長150cmくらいの30歳代後半の女性が埋葬されていた。石棺内からは、中国製方格規矩鏡、中国製内行花文鏡、倭製四獣形鏡、車輪石、硬玉製勾玉、碧玉製管玉、ガラス製小玉、鉄刀、鉄剣、鉄斧、刀子などが出土している。
②楢崎古墳
 宇土市花園町楢崎の丘陵先端にある。5世紀中ばの築造で、全長46mの前方後円墳。後円部に3基の石棺と1基の石蓋土擴、前方部に1基の組合せ式箱型石棺が確認されているが、いずれも阿蘇溶結凝灰岩で造られている。1号棺は、組合せ式家型石棺で直葬されており、人骨2体分と直刀2振、鉄鏃などが出土。2号棺は舟形石棺の直葬。3号棺は組合せ式家型石棺の直葬。前方部にある5号棺は、組合式箱型石棺で直葬されており、刀剣類や直刀などが出土している。
③天神山古墳
 宇土市野鶴町桜畑の小丘陵の先端にある。古墳時代前期の築造で、全長107mの三段構築の前方後円墳。墳丘には葺き石が施されていたとみられており、古墳の周囲からは、土師器とみられる土器の破片が採取されている。

●宇城市(宇土半島基部の南側)
①松橋大塚古墳
 松橋字前田の台地上にある。5世紀頃の築造で、全長70mの前方後円墳。墳丘の周りには周溝がある。近くの畑から円筒埴輪や朝顔形埴輪などが出土しており、墳丘に埴輪の配列がなされていたようである。
②女夫塚古墳
 松橋町古保山字女夫塚にある。5世紀頃の築造で、全長45mの前方後円墳。後円部からは、墓槨の蓋石と思われる巨石が2~3個出土している。
③弁天山古墳
 不知火町大字長崎字弁天平の尾根頂部にある。4世紀前半の築造で、全長53mの前方後円墳。墳丘には葺き石が施され、埴輪の配列がなされていたとみられる。石室は、砂岩の割石を小口積みした竪穴式石室で、くり抜き式木棺が安置されていた。墳丘からは底部穿孔壷型土師器や坩型土師器などが採取されている。
④国越古墳
 不知火町大字長崎字国越の丘陵先端部にある。6世紀前半半ば頃の築造で、全長63mの前方後方墳。墳丘には葺き石が施され、埴輪の配列がなされており、円筒埴輪・朝顔形埴輪・人物埴輪・馬形埴輪などが採取されている。石室は阿蘇溶結凝灰岩と砂岩で造られている。玄室奥の側壁に、線刻と赤や白、青の彩色で直弧文・梯子形文・方形文・連続三角文などが描かれており、装飾古墳としても知られている。出土遺物としては、中国製の対置式四獣鏡・環状乳神獣鏡・獣帯鏡のほかに、硬玉製勾玉、管玉、ガラス玉、空玉、耳環、刀、矛、須恵器、馬具などがある。
⑤仁王塚古墳
 不知火町大字小曽部字袖原、標高49mほどの丘の頂上部にある。6世紀後半の築造で、全長47mの前方後円墳。墳丘の周りには楯形の周溝、その外側には周庭がある。(古墳探訪参照)

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