
今朝、ハッと目を覚ますと、何と予定の起床時間を大幅に超過した午前○○時

安居経験のある方なら非常に耳慣れた所謂「寝散らし」というヤツを久々にやってしまいました

移動の多い今月は、相変わらず定住地がない様な生活を送っております。
そんな折、昨日は久々に檀務の関係で師寮寺に泊まりました。
師寮寺で迎える朝は、いつも暁天朝課を自らの日課としています。
普段は直接拝む事ができないご本尊さまやご開山さまに、少しでも法乳の慈恩に報いんために自らに課しているお勤めです。
今朝も如常に......と思っていた矢先の寝散らし

今朝は疲れがピークに達していたのでしょうか、目覚ましはきちんとセットしたはずなのにそれに気付かずに寝過ごしていたようです

わが寺では小食(朝食)の時間は決まっています。
今日はその朝食の時間間近だったため、何と朝課のお勤めよりも先に家族ともども小食を取りました。
「ま、疲れも溜まっていた事だし、今日くらいはいいかっ

自らを正当化する理由(言い訳

家族との小食を終え、早速今日予定していた仕事に取り掛かろうと事務所の机に向うと......不思議なものですね、なぜかしっくりとこない。何かし忘れたことがあるような気がして、心が落ち着かないんですね。
「これは寝散らしのせいかな......」と反省しつつ、懺悔の意味を込め、少し遅れた朝課を一人で始めました。
もうだいぶ日が高くなっていたゆえ、ちらほらとお詣りの方もお見えになり、少し遅れた朝課を普通のご法事の席だと思い、手と手を合わせていただきました。
「うぅ


朝課を終え、いつも通り少し遅れた開山堂(位牌堂)や開山墓地へのお詣りを済ませ、それから再び事務所の机に戻りました。
心なしか気持ちは落ち着き、溜まっていた仕事にもいつも通り手を付けられそうです。
改めて感じた事は、習慣って恐いものだなという事です。私にとっては間違いなく「たかが朝課」ではなく「されど朝課」でした。
自らに課したお勤めをする・しないで、この様に精神が不安定なものかと自らの非力を恥じました。
でも逆に、今日感じた非力はこれからも忘れてはならないなと感じました。
私の中学時代の恩師から、以前こう言われた事があります。
何でも良いから自らに一つ課題を課してみよ、その課した課題をやり忘れた時にしっくりこなくなったら本物だと。
当時、私は野球部員だったため、自らに1日100本の素振りを課した記憶があります。
最初は辛くて怠けた時もあったのですが、そのうちに1日100本の素振りをしないと気持ちがしっくりこなくなりました。
そして、その素振りを終えないと他の何もかも手に付かなくなってしまったのです。
お陰で、素振りの効果は目に見える形で表れる様になりました。
今回の朝課もそれと同じ事なのかなとも感じました。
もちろん、自らに課した課題に振り回される人生は行き過ぎだと思いますが、それをこなしていく事によって心の安定が保たれるなら、自らを律するという意味で、何か一つ自らに課題を与えてみるのも一つの生きるコツかもしれません。
それらが、苦もなく楽もなく自らの日常に溶け込んだ時、初めてその道の妙義が観えてくるのではないでしょうか。
私の場合で言えば、1日の始まりに朝のお勤めをすると、心なしか気持ちがすごく安定してきます。1日の始まりに心の弦を調える作業を、私はこの朝のお勤めでしているのかもしれません。



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