山海塾「金柑少年」
吉田悠樹彦
天児牛大は28歳に作った作品と再び向かい合った。最初の頃の作品はどの作家でも自身の全体像が見えていない。荒削りだが強靭な個性の原点がそこにはあった。
壁いっぱいに鮪の尾鰭(模型)が貼り付けられている。その為、初演当時は異臭が劇場に漂ったという。舞台前面に置かれた透明な板には赤い円が描かれている。闇の中から戦時下のような出で立ちの青年が現れる。青年の口をあけた表情と赤丸がかさなる。ゆっくりと手を動かせ、前に歩み、床に崩れ落ちる。戦時下のアイデンティティの中で悩む青年の姿だ。空襲警報のサイレンが鳴り響く中で、少年は舞台を右往左往する。自我と社会の狭間で揺れ動く少年の心を描く。やがて舞台の傍らから、顔を瘡蓋で覆われたような異形の男達があらわれる。腕の動きを中心にからだをしならせるように動く。大駱駝艦のような荒々しい愚行と異なる丹精な彫刻のような世界だ。中西夏之の美術が彼らの揺れる自我と、顔面がつぶされている人々という奇怪なシーンを演出する。と、男が手に孔雀を携え登場する。孔雀は古今東西で珍重されてきた鳥である。不死鳥にも喩えられる。男が手に抱いたまま腰を動かし身を痙攣させる。同性愛の隠喩とも捉えられるシーンだ。男が下肢をがっちり踏みしめ、手を広げて飛ぶように動くと手の中から鳥は羽ばたきだす。鳥が舞台を歩き回る中で、男は筋肉質な肉体を見せつけながら表面の美しさを丹精に見せるように動いていく。鳥はやがて舞台にかけられた透明な板の上に止まってしまう。その下で舞踏手達が肉体美を見せつるように踊ったり、おおらかな表情で動いていく。人々の苦しみや悲しみがダイレクトではなく、演技と肉体の表情を通じて間接的に描かれる。それを包みだすのが壁に貼り付けられた無数の鮪の尾だ。丸顔の童子が登場するとしゃがみながらえっちらおっちら歩きまわり砂の上に倒れかかる。抑圧をされた人々の感情が足元に広がる中で、孔雀は中空にとまり宙を見て前後に揺れ続ける。頭に金属片がささったような男達が登場するとおおがらに動き、エネルギーを空間いっぱいにぶちまける。最後は舞台にさかさまにぶらさがる男を中心に、一列に並び蠢く。ライブ感あふれるラストシーンだ。
ラテン系のような社会の豊穣さの表出でも、情報豊かな社会の中のセンスの良さでもなく、彼らが日本人が1つの精神風景を描いたとすれば、世俗のうめきと断末魔を封じ込めたこのような情景なのだろう。天児は実際には戦争体験を持っていない。しかし風景の中から沸き立つうめき声や踊り手のもがくような表情はこの世俗を青木繁の「海の幸」(明治37年)のような労働の中にある詩情と生活の風景へと観客を誘うのだ。もがき続ける肉体を鮪の尻尾が無数に板に貼り付けられたというセノグラフィーが包み込む。評論家の芝山幹朗は横須賀出身の天児を横須賀キッドと喩えている。目前に広がる港町の中でキッドが見出したのはかくのごとき風景か。
本作はリクリエーションをすることで若手が天児の世界を引き受けた。ちょうど彼らが生まれてきたころにこの作品が登場してきたのだろう。舞踏は共に見てきた世代が社会の中堅層以上になってきている。現代的なコンテクストの中で舞踏の意味合いは問われるべきだろう。
(4月1日 世田谷パブリックシアター)
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