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【343】密厳院苅萱堂 高野山

2019年03月20日 | 【高野山の塔頭】

【343】苅萱堂 高野山

住所 伊都郡高野町高野山478
宗派 高野山真言宗
山号 高野山密厳院
開山 興教大師覚鑁上人
本尊 地蔵菩薩

 高野山密厳院は新義真言宗の開祖興教大師覚鑁上人により開基され、苅萱堂は密厳院の堂のひとつです。興教大師覚鑁上人の別名密厳上人と称し祀っています。覚鑁上人は、高野山を追われ紀州根来寺に大伝法院を創立し、後に京都智積院の智山派、奈良長谷寺の豊山派の基礎を作った上人でも知られている。苅萱堂は、苅萱道心と石道丸の悲話に由来するお堂で、出家した苅萱道心が庵を結んだところです。

 平安末期、筑紫の国の領主に加藤左衛門繁氏という人がいました。この繁氏、嫁の他にもう一人千里という女性と一緒に暮らしていたのですが、ある日いきなり出家してしまいます。繁氏の出家直後、千里が男児を出産し、父の幼名をとって石童丸と名付けます。
 石童丸が十四歳のとき、母と共に父に会うため高野山に向かい学文路の宿まで来ますが、そこから先は女人禁制の地。母を宿に残し、石童丸だけが高野山に登り、父を探している時一人の僧と出会います。石童丸の話を聞いた僧は、「その尋ね人はもうこの世にはいない」と告げます。この僧こそ、苅萱道心と名を変えた繁氏だったのです。
 その話を聞き、父を探すのをあきらめた石童丸が学文路に戻ると、母千里は急病で亡くなっていました。石童丸はなすすべも無く、再び高野山に戻り顔見知りになった苅萱道心の弟子となりますが、苅萱道心が父と名乗ることは無く、一生知らぬままに生涯を送ったと言う悲話でした。

かるかやの 親子のちぎり 名乗らずも
慈愛に抱かれ 仏の世界

 

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