
曹洞宗福地山種月寺(ふくちさんしゅげつじ)ではこの時期に托鉢の寒行に出ます。
越後の曹洞宗、村上の耕雲寺、石瀬の種月寺、村松の慈光寺、塩沢の雲洞庵は「越後四箇(しか)の道場」といわれ、それぞれ所属の末寺から若い修行僧が集まります。
種月寺に出かけてきました。
「文安三年(1446)の夏、一人の老僧が多宝山麓の北陸街道を往きつ戻りつされていたが、思い定められたか村はずれの谷間福地(ふくち)谷へと進まれ、夏草の茂みに足をとどめてたたずまれていた。
この老僧こそ、村上耕雲寺三世南英謙宗(なんえいけんしゅう)禅師であった。時に六十歳、曹洞宗の教えを広めんと法縁地縁を頼り、各地に寺を創られていた。
また越後守護職上杉房朝(ふさとも)も領地越後の平安を願ってこの地方に一寺を建立したいと日頃帰依する禅師に適地をさがさせていた。この願いがかなうかどうか、選ばれた福地谷はその背後に土地の豪族小国(おぐに)氏が天神山城を築き松岳(まつがたけ)山にはその支城を擁して、この地方一帯をを支配していた。その小国氏が上杉氏と好(よし)みを通じていたことも幸いし、その外護をうけることなり、禅師は「鼓缶軒(こふけん)」となづける小庵に起居して種月寺の建立に取りかかることができた。それは今から五百五十余年前のことである。 耕雲寺 種月寺の名の因るところ 雲を耕し 月を種(う)えると 」:種月寺第三集 種月寺の誕生より
午後二時、素足にわらじ履きで山門を出ていく。
石瀬部落を托鉢する。玄関までの雪に埋まる足。
托鉢を終え、山門をくぐる。
「山門の扉と屋根に丸十⊕の寺紋が付いている。なぜこの寺紋か定かでないが、丸十(轡くつわ)は薩摩島津家の家紋であり、南英謙宗は薩摩の出身だと伝えられている。(注)耕雲寺の寺紋菊水は河内楠木氏の家紋である。したがって末寺には寺紋を菊水にしているところが多い。」 :種月寺第三集 山門、回廊門より
経を唱えて終了。
わらじを脱いだ冷たい足はバケツの湯が待っていた。
菅笠の内にある「茂道」 曽根の広井さんか?
頭陀袋と鉢一椀で乞食して、雨に降られてしばし祠で雨宿り。破れ家のようさばさばした生涯。笑っちゃいそうだよ。良寛さまは書いている。乞食とは托鉢のことか?
今日乞食逢驟雨
暫時廻避古祠中
可笑一嚢与一鉢
生涯蕭灑破家風 :良寛
なんと信心深いこと!
種月寺にはかやぶき屋根ふき替えの時、足場を登って作業を見学し説明を受けたことがあります。また本堂前のキンモクセイと、珍しいギンモクセイの白い花に感動したことも・・・
この寒さの中托鉢に同行した貴方も凄い!私は夕方五時過ぎに種月寺の近くでよく温まっています。
種月寺の歴史に立ち会われたのですね。
国、県、市の補助で総事業費は1億6千余万円。
新潟の㈱田中組が1億5千余万円で工事施工し平成20年11月竣功したと「種月寺第三集」にあります。
現在の皎月眞爾住職は開山南英謙宗禅師から四十一代。重要文化財指定の本堂建立は元禄12(1699)年に出雲崎大工小黒甚七によるものとあります。三百年(開山からなら五百五十年)の歴史を銀木犀は見てきたのですね。対の金木犀は昭和23年に枯れて二代目だそうです。
子供の頃はゴム長の中に稲ワラを敷いたものでした。
足も手もしもやけ(あかぎれ?)でかゆい思いもしました。
いまは断熱シートにホッカイロでぬくぬくです。
素人カメラマンが10人もいました。