夜が好きだ。
地元の夜が好きだ。
東京から長く長く電車に揺られて地元に着くと本当にほっとする。
今日も帰ってこれた。
街の香り。植物の香り。そして潮の香り。
歩きなれた道に、見慣れた街並み。
季節ごとに変わる生き物たちの匂い。
夜の植物たちが好きだ。
街頭の木々。道端の雑草。家々に植えられた花。
昼間とは全然違う表情をしている。
そこに「ある」という存在感が、夜は際立つ。
触らずにはいられないほどの生命力を感じる。
車が一台も通らない大通りを、
風がざっと吹き抜けて街路樹が一斉に騒ぐ様子が好きだ。
夜の海へ行く。
月が美しく出た夜の密かなる楽しみ。
たまに、ワインやチーズを携えて。
音楽を携えて。カメラは欠かさない。
海へ続く道を歩きながら星空を見上げ、
国道129号線を跨ぐ歩道橋を渡って
日常から海の世界へ。
だけど海へ行くにはまだあともう一歩。
防砂林だ。
防砂林の間の暗い道を通らなければならない。
ここが一番こわい。
鬱蒼と生い茂る木々の間に引きずり込まれそうになる。
とんでもない世界へ連れ去られそうな気分になる。
勇気を振り絞って足を踏み出し、進めた日にだけ海に会える。
夜の海!夜の海!夜の海!
どんなに幻想的か知っていますか。
月明かりが砂浜の上にはっきり描く自分の影にぞっとする。
歩いていた波打ち際が、
満潮時には20メートルも沖側だと知ったときの怖さ。
数十回に一度、タイミングがそろって波が大きく襲ってくるときの怖さ。
だぁれもいない海に、抱えきれないくらい大きな夜空と、月。
たまらないねぇ。
PET SHOP BOYS "HOME AND DRY"
公式サイトはこちら。
World Naked Gardening Day
気持ち良さそう~
私も出来れば素っ裸で暮らしたいよ。
デービスでなら大丈夫だったろうけど
日本では絶対無理だな…^^;
特にうちの前庭は大きな道路に面してますし。
あぁ残念。
ちなみに今年のWhole Earth Festival in Davis CAは5月11日~13日らしい。
あぁ行きたい…
忘れられない唄がある。
自分をつくった唄がある。
どこに飛んでいっても必ず戻ってくる唄がある。
『樹海の糸』 Cocco
が私にとってのそれだった。
もう出逢ってずいぶんになるけれど、
芯にある唄。
こういう世界観って、こっこしか作れないとおもう。
で、それに一部でも共感したり
感動したり。
唄ってほんとにすごくてね。
小さい頃、魔法が使えると思っていた。
このマテリアルワールドの基本的なルールがまだ分かっていなかったから。
たとえば、手紙の封をする時に『〆』を書けば勝手に糊付けされると思っていた。
ときたま、空間に次元の狭間みたいなのが見える時があって、うにょうにょとうごめいているブラックホールに入ればどこか別の世界にいけると思い込んでいた。
電池の中には小人がいて、彼らがわっせわっせと電気を送ってくれていると教えられて、まともに信じていた。
人の声に、感覚的に色が聴こえた。その色彩は発する人間の感情によって変化をするし、強く感知出来る場合と全然何も『見えない』場合があった。この感覚は普通だと思っていた。
小学生の時、夜寝る前に布団の中で、本棚の上にある青いビニール袋を眺めながら『ともこともこともこともこ……』とひたすら自分の名前を頭の中で連呼すると、もう表現できないような感覚が全身を襲ってきて、『自分』が存在すること自体が不思議で不思議で、いくら『夢の世界』に存在するものと信じ込んでも身体を動かそうと思えば自分の意思で動いてしまう事がたまらなく嫌で、目眩が止まなかった。その目眩の中で重たくなった脳を枕に沈めて寝付くのが『儀式』だった。誰にも言わなかった。
私にとって、魔法の世界だった
だって、夢があるじゃないか
よく発達心理学の実験である、齢いくばくかの子供は遊んでいたオモチャをたとえば布で覆われて隠されたりしても、その布の下にオモチャがあると分からないことのように。その子にとっては、今まで遊んでいた筈のオモチャが突然消滅してしまって何がなんだか分からない。でも布を外されたら空間にまたポッと突然オモチャが出現する。
不思議よね~オモチャという物質は認識できているのに、どうして布がオモチャを隠すということは分からないのだろう?それは大人の見方。
だから、何度封筒の裏に『〆』を書いても決して封はされなかったし、
そのうにょうにょホールに、えいっと跳び込んでみても両足は無情にも元の世界と同じ地面に着地してしまった。
電池の中の小人説は、その働きの理解を促すためのただの比喩だという事を教わったし、
『共感覚』ていう脳の機能に由来する不思議な知覚があることを最近知った。そしてそれは弱々とではあるけれども、私にもあると。
『儀式』の感覚は、なんていうか自己存在のorgasmみたいな感じ。
宇宙の中の、ちっぽけな存在(でもそれは自分が自身の身体を動かせるという事実によってマテリアルに絶対の存在)が大きな渦の中に呑み込まれて落ちていく。
『儀式』に陥る誘因の青いビニール袋は今はもうないし、家も変わった。
どんどん社会生活に飲み込まれ、自分の立ち位置を模索するようになった。
月日が経って寝る前に考えることと言ったら、大抵実際にあったこととかこれからあることの期待だとか心配だとか計画だとか、そういう『現実的』なことになった。
い つ の ま に か 。。。
それらを、『魔法』ていう今考えれば非現実的な事と理解しているのは、それから成長して幾年も経って色々な『ルール』が分かってきて、誘発する要因がだんだん理解できるようになったから?学問の知識のせい?
その当時は『魔法』だなんて思っていなかったのかな。当たり前に出来るものだと信じ込んでいたのだから。
それは、月日が経って、現実世界に生きることを徐々に受け入れてきたから?
こんな年になってもそんな夢見る夢子さんじゃ社会生活やっていられないものね。たぶん。
いわゆる、芸術家かGONE BANANAな人だけだわ。
『儀式』の感覚を取り戻そうとしても、中学くらいから既に難しくなっていた。高校ではほぼ途切れた。今では、本当にまれ。
『自分』という存在を受け入れてしまったのかなぁ?ころっと。
でも、今も魔法が使えるって信じてる。
デービス、はるか西
畑の中の小さな小屋で
踊りに踊りに踊った
真っ暗
満月浮かぶ
星ひかる
火の光たよりに
酒のにおいただよわせ
やけるにおい
笑うひとびと
月夜おどる
月夜おどる
あなたの知らない世界へ