昨夜のハーヴェストには、いつもと少し違う空気が流れていた。
僕が寄ったのは午前1時過ぎのこと。ただ一人カウンターに座ったオバさんと、マスターのタカシさんが話し込んでいる。タカシさんは僕に気付くと「おぉ、ごめん、ごめん」と言って近づいて来た。そして、
「悪いんだけどさ、これからちょっと、あの人と大事な話があるんだわ」。
「あ、じゃ、今夜は帰りますよ。 すみませんお邪魔しちゃって」
と告げ、踵を返そうとした。のだが、
「別にいいわよ」とオバさん。
「いや、いいっすよ。 僕の家は近くですし、いつでも来れますから」
という僕の返事の裏には、もしかするとタカシさんはこのオバさんの愛人で、別れ話が拗れているのでは、という邪推があったのだが、オバさんはそんなことにはお構いなく、
「せっかくいらしてくれたお客さんを帰すなんて、あなたそれでも商売人なの?」
と、タカシさんに向けて意地悪な笑顔。タカシさんは苦笑いを浮かべながら、僕にオーダーを聞いてきた。そして、コロナを手渡し、
「まぁ、危ないことにはならないけど、あんまり関わらない方がいいから。 本当に悪いけど、それ飲んだら帰ってくれないか」
そこまで言われると、気になってしまうのが僕の性格で、ちびちびと普段の半分位のスピードで瓶を傾けていた。まぁ、指輪やらネックレスやらブレスレットやらで、ゴテゴテに武装したオバさんには全く興味がないのだけど、彼女とタカシさんとの関係は気になる。 母親? いやいや。やはり愛人だろうなぁ。
などと考えていると、僕の背後で店の扉が開く気配がした。
入ってきたのは一見してチンピラ風の30代位の男(以下「チンピラ」)。眼つきからしてあまり友達にはなれなそうな印象だ。チンピラはざっと店内を見回すと、僕の後ろを通り抜けてオバさんの隣の席に、どっかと腰掛けた。
そこからの会話は省略するが、簡単に説明すると、オバさんは会社経営者で、その社員の男がチンピラの知り合いと喧嘩となり、怪我をさせたということのようだった。チンピラは終始、丁寧語で話していたが、言葉の端々から脅迫めいた雰囲気が伝わってくる。
「そのとき、突然ね、殴られたっていうんですよ。 さすがに僕らでもそれはしないなぁ」、「いや、社長ほどの人を責める訳にはいかないけど、もう少しね、社員の面倒をみてやってもいいんじゃないですか」
警察に被害届を出せば済むと思うのだけど、そうではないらしい。一方的に殴られたというのに、相手から名刺を受け取っているというのも解せない。目的は単純にお金なのだろう。タカシさんは無言でグラスを磨いている。オバさんはカチャカチャと宝石をいじりながら、チンピラの話を受け流していた。それが30分も続いただろうか。
「分かったわ」
と、オバさんが言い放った。
「あなたの言いたいことは分かった。 確かにそれが事実なら大問題ね。 彼からはきちんと事情を聞いてみますから、安心して」
「ありがとうございます、社長」
深々と頭を下げるチンピラ。口元に薄ら笑いが見て取れる。オバさんは、ううん、いいのよ、と首を何度か横に振ってそれに応えた。
そして、
再びオバさんとチンピラの目が合ったそのときだった。
「ところで」
と、オバさんが静かに切り出した。 明らかにさっきまでとは雰囲気が違う。全身を覆う豪奢で下品な貴金属の輝きが一瞬にして失せ、彼女自身が圧倒的な存在感を放ち出した。
「今度は私が聞く番。 ねぇ。 私みたいなオバサンが、社長でいられるのは何故だと思う?」
意外な展開に、チンピラは明らかに怯んでいた。
「えっ? それは、まぁ、やっぱり社長の才能と人望と・・・」
しどろもどろな言葉を遮って、彼女は畳み掛ける。
「そうじゃないの。 私はもともとお金の計算が得意じゃないし、根っからの小心者だから大きな判断をするたびに怖くなる。 結局のところ、ビジネスなんて向いていないのね。 でも、そんな私が今の地位にいられるのは、周りの人達の支えがあったからなの。 私が選んだ信頼のおける人達のおかげ。 ただそれだけなのよ」
チンピラは「はぁ」と、気のない返事。オバさんは更に続ける。
「私に、唯一誇れる才能があるとすれば、それは人を見る目なの。 この人は何に幸せを感じるのか。 何を嫌っていて、何を守りたいのか。 筋を通す人間かどうかは目を見れば分かる。 そういうことを見抜く力だけは他人に負けないつもりなの」
「えぇ・・・」
「分かるかしら。 私は彼のことを心から買っているし、信頼しているの。 だから、今、あなたが話していることは、私の才能に対する挑戦でもある」
「えぇ!? いや、そんなことじゃなくて・・・。 ただ、さ、あの」
「もちろん、彼に誤りがあれば私は決して許しません。 首根っこひっ捕まえて、あなたの前で土下座でも何でもさせましょう。 でもね。 万が一にも、あなたの情報に間違いがあれば、それは私に対する最高の侮辱です。 それだけは十分に理解しておいてくださいね」
ここまで気持ちのいい啖呵を聞いたのは久しぶりだった。
あとで聞いた話だが、このオバさんはタカシさんの昔からの知り合いで、ハーヴェストの開店資金も融資してもらっているそうだ。当然のことながら、件の男性社員が完全な被害者とは思えない。それはオバさんも承知の上だろう。それでも、ここまで言ってくれる上司がいるというのは幸せなことだと思う。このオバさんが誰に似ているかと言うと、僕の嫌いな細木数子なのだが、このオバさんになら人生相談をしてもいいかな、と思った。
チンピラが帰った後、オバさんは初めてタカシさんに飲み物を注文をした。僕自身は酒飲みだけど、飲み屋でホットコーヒーを頼む人は、大概、嫌いになれない。