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峠越えれば

峠境に むこうとこっち 峠越えれば別の国

(21) 家に帰りて

2007-09-30 | 万葉集あれこれ

 竹取の翁の長歌の終わりはこうである。

(はしきやし 今日やも子らに いさとや 思はえてある) 何ともそれがまあ、今では君たちに、いやな爺と思われているのだ。(いにしへの 賢しき人も 後の世の 鑑にせむと 老人を 送りし車 持ち帰りけり) 君たちは知っているかな、昔、おじいさんを手押し車に乗せて捨てに行かされた孝行息子が、その車を持ち帰って、今度はお父さんもこの車で山に送ってあげるからねと、そう命じた父を諫めた話を。すべては他人事ではないんだよ。

 憶良の「哀世間難住歌」の終わりもよく似ている。 (手束杖 腰にたがねて か行けば 人に厭はえ かく行けば 人に憎まえ 老よし男は かくのみならし たまきはる 命惜しけど 為むすべもなし) 杖を頼りにあっちへ行けば、人に厭われ、こっちへ行けば人に邪険にされ、年寄りなんてそんなものだ。長生きはしたいが、どうしたらよいものやら。

 旅人もまた老いの繰り言のような歌を残している。

我が盛りいたくくたちぬ雲に飛ぶ薬食むともまた変若めやも(847)
わがさかり,いたくくたちぬ,くもにとぶ,くすりはむとも,またをちめやも

 (雲に飛ぶ薬)は、いわば変若水であろう。こうなってはもう、今更そんなものを飲んでみてもはじまらないといっている。同時に、(雲に飛ぶ薬食むよは都見ばいやしき我が身また変若ぬべし)とも詠っているので、太宰府にいた頃のことで、六十代半ばである。もっとも旅人は都に帰って、若返るどころか、ほどなく六十七で生涯を終えている。

 こうして三つ並べてみると、いずれも老いをテーマにしているものの、「竹取の翁」が一番発想がのびやかで、これが不老不死の神仙思想と一体になって、本格的な空想小説「竹取物語」に発展していったとしても不思議はない。

 よく知られているかぐや姫の竹取物語は、最後に不死の仙薬が登場する、老いをテーマとした、いわば老人文学である。これは後に触れる。

 竹取の翁とは対照的に、政治に未練を残した旅人や、生活者憶良の目は現実の方により多く注がれており、憶良については、その教養の柱は仏教と儒教であり、神仙思想に遊ぶ余裕はあまり感じ取れない。「竹取の翁」の作者まで憶良に比定するのは見当違いであろう。

 憶良に「令反惑情情歌」(惑情を反さしむる歌)」があり、これも「或有人 知敬父母忘於侍養 不顧妻子 意氣雖揚青雲之上 身體猶在塵俗之中 未驗修行得道之聖 蓋是亡命山澤之民(一部略)」というような漢文の序がついている。父母や妻子を顧みない、鼻息ばかりの俗物で、修行と称して山野に逃れている、そんな輩の迷いを正してやりたいと言う。

父母を 見れば貴し 妻子見れば めぐし愛し 世間は かくぞことわり もち鳥の かからはしもよ ゆくへ知らねば 穿沓を 脱き棄るごとく 踏み脱きて 行くちふ人は 石木より なり出し人か 汝が名告らさね 天へ行かば 汝がまにまに 地ならば 大君います この照らす 日月の下は 天雲の 向伏す極み たにぐくの さ渡る極み 聞こし食す 国のまほらぞ かにかくに 欲しきまにまに しかにはあらじか(800)
ちちははを,みればたふとし,めこみれば,めぐしうつくし,よのなかは,かくぞことわり,もちどりの,かからはしもよ,ゆくへしらねば,うけぐつを,ぬきつるごとく,ふみぬきて,ゆくちふひとは,いはきより,なりでしひとか,ながなのらさね,あめへゆかば,ながまにまに,つちならば,おほきみいます,このてらす,ひつきのしたは,あまくもの,むかぶすきはみ,たにぐくの,さわたるきはみ,きこしをす,くにのまほらぞ,かにかくに,ほしきまにまに,しかにはあらじか

ひさかたの天道は遠しなほなほに家に帰りて業を為まさに(801)
ひさかたの,あまぢはとほし,なほなほに,いへにかへりて,なりをしまさに

 優秀な官吏であり、生真面目な下級貴族の目には、律令の枠を越え、勝手に出家を志す私度僧の横行は無節操な、いかがわしいものに見えたとしても仕方がない。憶良の仏教思想はその点やはり教養の範囲に留まる。この流れがやがて大仏の建立に至る、時代を揺るがす、新たな民衆仏教のうねりであることは憶良らの理解を超えている。憶良には、領民に正業を勧める筑前国守として立場もある。

 しかし、憶良の「父母を 見れば貴し 妻子見れば めぐし愛し」の生活感情の健やかな響きだけは、時代を超えてどこまでも伝わって行く。この「令反惑情情歌」に続く「思子等歌」の、「瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ」もまた同様であり、互いに響き合って、時代に関わりなく動かしようのない何者かに形を与えており、新しいと言えば、これ以上に新しいものは何もない。

 短歌の方の(家に帰りて業を為まさに) 家に帰ってまっとうに働くことだよ、にも同様な響きがあり、これも動かしようがない。憶良から千幾百年、昨今引きこもったり、その他諸々、若きを前に、力なくそうつぶやく親の何と多いことか。

ごくどうが帰りて畑をうちこくる  小松月尚
                             (つづく)

(20) 子らがよちには

2007-09-30 | 万葉集あれこれ

 前回省略した竹取の翁の長歌の方を引用してみる。

(道を来れば うちひさす 宮女 さす竹の 舎人壮士も 忍ぶらひ かへらひ見つつ 誰が子ぞとや 思はえてある) 道を行けば、宮仕えの女たちや、役所勤めの男たちが、どこの御曹司やらと、この私をこっそり振り返ったものだ、(子らがよちには) 君らの年頃には、こう見えてもこの私も結構持てたものよ。翁の自慢話である。自慢話には尾鰭がつき、話はいきおい長くなる。

みどり子の 若子髪には たらちし 母に抱かえ ひむつきの 稚児が髪には 木綿肩衣 純裏に縫ひ着 頚つきの 童髪には 結ひはたの 袖つけ衣 着し我れを 丹よれる 子らがよちには 蜷の腸 か黒し髪を ま櫛持ち ここにかき垂れ 取り束ね 上げても巻きみ 解き乱り 童になしみ さ丹つかふ 色になつける 紫の 大綾の衣 住吉の 遠里小野の ま榛持ち にほほし衣に 高麗錦 紐に縫ひつけ 刺部重部 なみ重ね着て 打麻やし 麻続の子ら あり衣の 財の子らが 打ちし栲 延へて織る布 日さらしの 麻手作りを 信巾裳なす 脛裳に取らし 友屋所経 稲置娘子が 妻どふと 我れにおこせし 彼方の 二綾下沓 飛ぶ鳥 明日香壮士が 長雨禁へ 縫ひし黒沓 さし履きて 庭にたたずみ 退けな立ち 禁娘子が ほの聞きて 我れにおこせし 水縹の 絹の帯を 引き帯なす 韓帯に取らし わたつみの 殿の甍に 飛び翔ける すがるのごとき 腰細に 取り装ほひ まそ鏡 取り並め懸けて おのがなり かへらひ見つつ 春さりて 野辺を廻れば おもしろみ 我れを思へか さ野つ鳥 来鳴き翔らふ 秋さりて 山辺を行けば なつかしと 我れを思へか 天雲も 行きたなびく かへり立ち 道を来れば うちひさす 宮女 さす竹の 舎人壮士も 忍ぶらひ かへらひ見つつ 誰が子ぞとや 思はえてある かくのごと 所為故為 いにしへ ささきし我れや はしきやし 今日やも子らに いさとや 思はえてある かくのごと 所為故為 いにしへの 賢しき人も 後の世の 鑑にせむと 老人を 送りし車 持ち帰りけり 持ち帰りけり(3791)
みどりこの,わかごかみには,たらちし,ははにむだかえ,ひむつきの,ちごがかみには,ゆふかたぎぬ,ひつらにぬひき,うなつきの,わらはかみには,ゆひはたの,そでつけごろも,きしわれを,によれる,こらがよちには,みなのわた,かぐろしかみを,まくしもち,ここにかきたれ,とりつかね,あげてもまきみ,ときみだり,わらはになしみ,さにつかふ,いろになつける,むらさきの,おほあやのきぬ,すみのえの,とほさとをのの,まはりもち,にほほしきぬに,こまにしき,ひもにぬひつけ,刺部重部,なみかさねきて,うちそやし,をみのこら,ありきぬの,たからのこらが,うちしたへ,はへておるぬの,ひさらしの,あさてづくりを,信巾裳なす,はばきにとらし,友屋所経,いなきをとめが,つまどふと,われにおこせし,をちかたの,ふたあやしたぐつ,とぶとり,あすかをとこが,ながめさへ,ぬひしくろぐつ,さしはきて,にはにたたずみ,そけなたち,いさめをとめが,ほのききて,われにおこせし,みはなだの,きぬのおびを,ひきおびなす,からおびにとらし,わたつみの,とののいらかに,とびかける,すがるのごとき,こしほそに,とりよそほひ,まそかがみ,とりなめかけて,おのがなり,かへらひみつつ,はるさりて,のへをめぐれば,おもしろみ,われをおもへか,さのつとり,きなきかけらふ,あきさりて,やまへをゆけば,なつかしと,われをおもへか,あまくもも,ゆきたなびく,かへりたち,みちをくれば,うちひさす,みやをみな,さすたけの,とねりをとこも,しのぶらひ,かへらひみつつ,たがこぞとや,おもはえてある,かくのごと,所為故為,いにしへ,ささきしわれや,はしきやし,けふやもこらに,いさとや,おもはえてある,かくのごと,所為故為,いにしへの,さかしきひとも,のちのよの,かがみにせむと,おいひとを,おくりしくるま,もちかへりけり,もちかへりけり

 自慢話には違いないのだが、歌の作者の趣味によるものか、翁のかつての伊達振りがなかなかのもので、これなら娘たちが揃いも揃って、「我れも寄りなむ」ということもありえたかもしれない。

 万葉当世風若者ファッションとでも言うべきものが、これほど詳しく丁寧に語られている例は他にない。上の仮名書きに、読解不能の漢字部分が多く残されているのも、歌の作者が、必要以上にその点の描写にこだわった結果であろう。

 特徴的なものをいくつか拾ってみる。
(さ丹つかふ色になつける紫の大綾の衣) 赤みがかった粋な色合いの紫の派手な模様の衣
(ま榛持ちにほほし衣) 榛の木で染め上げた衣
(高麗錦紐に縫ひつけ刺部重部なみ重ね着て) 高麗錦を紐にして縫いつけ合わせ重ね着て
(日さらしの麻手作りを信巾裳なす脛裳に取らし) 日晒しの手織りの麻布を前垂れ風の短い袴にあしらい
(二綾下沓) 二色交ぜ織りの足袋
(長雨禁へ縫ひし黒沓) 長雨でも平気と縫い上げた黒の沓
(水縹の絹の帯を引き帯なす韓帯に取らしわたつみの殿の甍に飛び翔けるすがるのごとき腰細に取り装ほひ) 薄水色の絹帯を、付け紐風の唐帯みたいに、蜂のようなよく締まった腰にきゅっと巻いて

 色彩も豊かで、「赤みがかった紫」、「榛の木で染めた茶色」、「日晒しの白」、「黒」、「薄水色」等々、様々取り合わせている。後の源氏物語には八十色くらいが登場するらしいのだが、色へのこだわりはこの時代既にあり、日本の古代は単色ではない。

 そして、(ま櫛持ち ここにかき垂れ 取り束ね 上げても巻きみ 解き乱り 童になしみ) 櫛を片手に髪の毛を束ねてみたり、解いて散らしてみたり、(まそ鏡 取り並め懸けて おのがなり かへらひ見つつ) 鏡を覗いてはためつすがめつ、今時のにきび面と変わるところは何もない。

 憶良もまた巻五の「哀世間難住歌」で、(蜷の腸 か黒き髪に いつの間か 霜の降りけむ) と同じように、若さとはそのようなものだと諭している。(『(7)娘子さびすと』)

 しかし、そこで詠まれている男の子らしさは、「ますらをの 男さびすと 剣太刀 腰に取り佩き さつ弓を 手握り持ちて 赤駒に 倭文鞍うち置き 這ひ乗りて 遊び歩きし」といった月並みなもので、この程度では「我れも寄りなむ」というわけには行きそうもない。憶良は多分生真面目な若者であったのだろう。(つづく)

(19) 竹取の翁

2007-09-30 | 万葉集あれこれ

噛み当つる身のおとろひや海苔の砂  芭蕉
がっくりとぬけ初る歯や秋の風      杉風

 人が老いを実感するのはいつの頃であろうか。やはり、歯が欠けたり、白髪が目につくようになるという辺りが一番常識的かもしれない。胡桃を噛み割るような勇気はとっくに失せたものの、幸い歯の方はどうにか健在ではあるが、あらぬ所に白髪を一本見つけ時はさすがに粛然とするほかなかった。つい最近のことである。

 杉風は長命であるが、芭蕉の享年は五十一であり、翁が代名詞のようになっているが何の不自然もない。一茶は、帰郷後に妻子を得て辛苦する辺りは、いかにも一茶らしいのだが、柏原に終の住処を見つける五十前、既に歯は一本も残っていなかったらしい。

 変若水(をちみず)なんていうものを求めたくなる気持ちは今も昔も変わりはないにしても、老いを感じる実年齢は、やはり今とは大分異なることを前提としないと、古典の鑑賞には無理が生じる。

 竹取の翁というと、かぐや姫の竹取物語であり、平安時代前期頃の小説のはしりである。登場人物の一人に藤原不比等らしき人物が出てくるので、物語の舞台は万葉集の時代ということになる。

 万葉集にも、これとは別に、付録のような巻十六に「竹取の翁」が詠われている。

死なばこそ相見ずあらめ生きてあらば白髪子らに生ひずあらめやも(3792)
しなばこそ,あひみずあらめ,いきてあらば,しろかみこらに,おひずあらめやも
白髪し子らに生ひなばかくのごと若けむ子らに罵らえかねめや(3793)
しろかみし,こらにおひなば,かくのごと,わかけむこらに,のらえかねめや

 翁が、長生きしたからこそ、こうして白髪頭になったのだ、君たちにしたところが、そのうち白髪にならないわけはないのだよと、若い子らを諭している。これには説明が必要で、題詞にこうある。

昔有老翁 号曰竹取翁也 此翁季春之月登丘遠望 忽値煮羮之九箇女子也 百嬌無儔花容無止 于時娘子等呼老翁嗤曰 叔父来乎 吹此燭火也 於是翁曰唯<々> 漸趨徐行著接座上 良久娘子等皆共含咲相推譲之曰 阿誰呼此翁哉尓乃竹取翁謝之曰 非慮之外偶逢神仙 迷惑之心無敢所禁 近狎之罪希贖以歌

 「竹取翁」が春先岡に上ってみると、娘ばかりが九人、グループで草を摘み煮物をして遊んでいる。ピクニックである。「娘子等呼老翁嗤曰 叔父来乎 吹此燭火也 於是翁曰唯<々> 」一人が、おじさん、こっちへ来て火を吹くの手伝ってと言う。あいよということで、翁は仲間に加わったのである。その中、座が落ち着いてみるとどうも様子がおかしい。誰よ、こんな爺さん呼んだのは、とかこそこそ言い合っている。よくよく見たらかなりの白髪頭であったのだ。そう言われても最初に誘ったのはそっちの方である。今更引っ込みがつかない、ということで翁が居直ったのである。

 ありそうな話で、実体験抜きでは、こんな愉快な話はそうそう簡単にできそうもない。話には尾鰭がつく。

はしきやし翁の歌におほほしき九の子らや感けて居らむ (3794)
はしきやし,おきなのうたに,おほほしき,ここののこらや,かまけてをらむ

恥を忍び恥を黙して事もなく物言はぬさきに我れは寄りなむ (3795)
はぢをしのび,はぢをもだして,こともなく,ものいはぬさきに,われはよりなむ
否も諾も欲しきまにまに許すべき顔見ゆるかも我れも寄りなむ (3796)
いなもをも,ほしきまにまに,ゆるすべき,かほみゆるかも,われもよりなむ

 「はしきやし」本当にまあ、説教が効きすぎて、「おほほしき」少しばかりぼんやりしていた娘たちは、九人が九人揃って「我れも寄りなむ」、白髪のおじさんに参ってしまう。その気になって、よくよくおじさんの顔を見てみれば、「否も諾も欲しきまにまに許すべき」何でも聞いてくれそうな、いとも優しそうな顔をしているではないか。以下全員の同じ調子の歌が並ぶ。これはすべて白髪頭の妄想であり、話の尾鰭である。実際のところは、嫌みな爺と思われただけのことかもしれない。

 先に『(13)夢に娘子になりて』で触れた旅人の(あるいは憶良も手伝ったか)「松浦川に遊ぶ序」と同工異曲の神仙譚と言えなくもない。しかし、ここではそれらしい不自然さがなく、翁が「非慮之外偶逢神仙」、思いがけず、偶然仙女のみなさんの中に紛れ込んでしまい、畏れ多いというようなことを言っても、これも冗談か、当てつけにしか聞こえない。白髪頭の境涯では、村娘が仙女に見えても不思議はない。

 この竹取の翁の実年齢はいくつくらいであろうか。万葉集のこの翁とかぐや姫の翁はどうみても無関係とは思えない。竹取物語にはこうある。

この事を御門きこしめして、竹取が家に御使つかはさせ給。御使に竹取出で会ひて、泣く事かぎりなし。此事をなげくに、髭も白く、腰もかゞまり、目もたゞれにけり。翁、今年は五十ばかりなりけれども、物思ふには、かた時になむ老になりにけると見ゆ。

 かぐや姫が月に帰るのを知って嘆き悲しむ翁に、御門が使いを出したのである。翁といっても五十そこそこ、やはり今のおじさんといったところか。殊によっては「仙女」が「寄りなむ」こともありえたか。(つづく)

(18) 変若水

2007-09-30 | 万葉集あれこれ

ちはやぶる神の社しなかりせば春日の野辺に粟蒔かましを(404)
ちはやぶる,かみのやしろし,なかりせば,かすがののへに,あはまかましを

春日野に粟蒔けりせば鹿待ちに継ぎて行かましを社し恨めし(405)
かすがのに,あはまけりせば,ししまちに,つぎてゆかましを,やしろしうらめし
我が祭る神にはあらず大夫に憑きたる神ぞよく祭るべし(406)
わがまつる,かみにはあらず,ますらをに,つきたるかみぞ,よくまつるべし

 一首目、「娘子報佐伯宿祢赤麻呂贈歌」とある。娘子が赤麻呂の誘いに、「粟蒔(逢はまく)」、逢ってもいいのだけど、神様が恐れ多いからとかとか言っている。二首目は赤麻呂、恨めしい神様であることよ。三首目は再び娘子、何をおっしゃいますやら、あなた様の方の神様、奥様のことですよ、ちゃんと祭ってあげなくては、といったたわいないやり取りである。

 娘子(をとめ)とはいっても、歌の内容から宴席に侍る遊行女婦の類であろう。宴席の冗談をそのまま歌の贈答に仕立て、歌は赤麻呂一人が創作したとみてよい。

 万葉集は、このような遊び心や創作抜きには語れないのだが、歌を常に現実に引き寄せ、歌い手の実生活に重ねようとする傾向が少し強すぎはしまいか。前回引用した『日本の古典詩歌1 万葉集を読む』でも、憶良の「老身重病經年辛苦及思兒等歌」について、「七十歳をいくつも過ぎ、重い病気に悩む身で、なおこのような幼い子を持っていたらしいのは同情に耐えません」というようなことが書かれている。このような不自然な解説が、かえって歌意を損ねていはしまいか。

 次の二つも上の娘子と赤麻呂のコンビによるもの。これも創作であろう。

我がたもとまかむと思はむ大夫は変若水求め白髪生ひにけり(627)
わがたもと,まかむとおもはむ,ますらをは,をちみづもとめ,しらかおひにけり
白髪生ふることは思はず変若水はかにもかくにも求めて行かむ(628)
しらかおふる,ことはおもはず,をちみづは,かにもかくにも,もとめてゆかむ

 娘子が、もうお年ですよ、白髪が見えますとか赤麻呂をからかっている。それはどうかねとか言いながらも、それでは変若水とやらを手に入れてきますかとか、やり返し、この二人結構気が合う。

 この時代、「変若水(をちみず)」という不思議なものが世にあると信じられてたらしい。「をつ」は元へ戻る、若返る。「をとこ」「をとめ」の「をと」と同源であり、もう一度あの頃に戻れたら、という切ない願望から生み出されたものであろう。

いにしへゆ人の言ひ来る老人の変若つといふ水ぞ名に負ふ瀧の瀬(1034)
いにしへゆ,ひとのいひける,おいひとの,をつといふみづぞ,なにおふたきのせ

 これはあっちこっちにある養老の滝の類で、あまり効果は期待できそうもない。変若水がどこにあるかというと、これは大分遠いところまで行かなくてはならない。巻十三の雑歌に次のようなものがある。

天橋も 長くもがも 高山も 高くもがも 月夜見の 持てるをち水 い取り来て 君に奉りて をち得てしかも(3245)
あまはしも,ながくもがも,たかやまも,たかくもがも,つくよみの,もてるをちみづ,いとりきて,きみにまつりて,をちえてしかも

天なるや月日のごとく我が思へる君が日に異に老ゆらく惜しも(3246)
あめなるや,つきひのごとく,あがおもへる,きみがひにけに,おゆらくをしも

 変若水を求めようと思うなら、月まで行って来るほかないのである。それでも何とか手に入れて若返(をちえて)らしてあげたいという、その「君」とは誰であろうか。「我が思へる君が日に異に老ゆらく惜しも」、日一日と「君」が老いてゆくのを見るのがつらい、多分そう言っている本人の方はまだ若いのである。親子か夫婦か、いずれにしても己自身の老いと向き合うほどの切実さは伝わってこない。

 ありもしない変若水なんていうものを持ち出すのであるなら、こんないい気な歌よりは、最初の娘子と赤麻呂の、たわいもないやりとりの方がまだましである。

 憶良が「年長く 病みしわたれば 月重ね 憂へさまよひ ことことは 死ななと思へど 五月蝿なす 騒く子どもを 打棄てては 死には知らず」と詠む時、己自身の老いた姿を見据え、なおその先に、世間の諸々の老いを詠いつくそうとしている。その限り、七十過ぎの憶良が実際に子供を抱えていようといまいと、それはどうでもよいのである。赤麻呂の軽口めいた歌も含めて、万葉集は思いの外、そのような創作に満ちている。(つづく)

(17) 何せむに我を

2007-09-30 | 万葉集あれこれ

奈良山の児手柏の両面にかにもかくにも侫人の伴(3836)
ならやまの,このてかしはの,ふたおもに,かにもかくにも,こびひとのとも

 児手柏の葉っぱのように裏だか表だか分かりゃしない。あっちにもこっちにもいい顔して、それが侫人(こびひと)て奴だよ。

 聖徳太子の十七条憲法の六にも、「侫媚者対上則好説下過 逢下則誹謗上失(上に対しては則ち好んで下の過を説き、下に逢いては則ち上の失を誹謗る)」と、「佞(かたま)り媚(こ)ぶる」を戒めている。律令とともにこんな輩が珍しくなくなったのである。

 周りを見れば、今でもこんなのはいくらでもいる。誰でも己の自画像として多少は思い当たるというような言い方も出来る。十七条憲法は官吏の心得を説いているのだが、上意下達の組織の中でしか生きられない、今時の大多数の給与生活者にとっても、これはそれほど他人事ではない。

 万葉集巻十六は、本来十五巻本の万葉集のいわば付録である。どうということもないが捨てるには惜しい、そんな歌ばかりが集められており、後世から見れば万葉集の真骨頂は、案外こっちの方にあるのかもしれない。

 上の歌なども、とりあえず残してはみたものの、しかし、だからといってこれをどこに収めたものやら、といった編者の顔が思い浮かんでくるようで、そのあたりも何ともおかしいのである。

 前回の乞食者(ほかいびと)の歌は、この巻十六の終わりに置かれている。鹿の次は蟹である。

おしてるや 難波の小江に 廬作り 隠りて居る 葦蟹を 大君召すと 何せむに 我を召すらめや 明けく 我が知ることを 歌人と 我を召すらめや 笛吹きと 我を召すらめや 琴弾きと 我を召すらめや かもかくも 命受けむと 今日今日と 飛鳥に至り 置くとも 置勿に至り つかねども 都久野に至り 東の 中の御門ゆ 参入り来て 命受くれば 馬にこそ ふもだしかくもの 牛にこそ 鼻縄はくれ あしひきの この片山の もむ楡を 五百枝剥き垂り 天照るや 日の異に干し さひづるや 韓臼に搗き 庭に立つ 手臼に搗き おしてるや 難波の小江の 初垂りを からく垂り来て 陶人の 作れる瓶を 今日行きて 明日取り持ち来 我が目らに 塩塗りたまひ きたひはやすも きたひはやすも(3886)
おしてるや,なにはのをえに,いほつくり,なまりてをる,あしがにを,おほきみめすと,なにせむに,わをめすらめや,あきらけく,わがしることを,うたひとと,わをめすらめや,ふえふきと,わをめすらめや,ことひきと,わをめすらめや,かもかくも,みことうけむと,けふけふと,あすかにいたり,おくとも,おくなにいたり,つかねども,つくのにいたり,ひむがしの,なかのみかどゆ,まゐりきて,みことうくれば,うまにこそ,ふもだしかくもの,うしにこそ,はなづなはくれ,あしひきの,このかたやまの,もむにれを,いほえはきたり,あまてるや,ひのけにほし,さひづるや,からうすにつき,にはにたつ,てうすにつき,おしてるや,なにはのをえの,はつたりを,からくたりきて,すゑひとの,つくれるかめを,けふゆきて,あすとりもちき,わがめらに,しほぬりたまひ,きたひはやすも,きたひはやすも

 蟹が主役の寸劇のようなものと思えばよい。都から声が掛かった蟹が、歌が歌えるわけでもない、笛が吹けるわけでもない、琴が弾けるわけでもない、何でこの私がとぶつぶついぶかりつつも、「今日今日と明日香に至」ってみれば、何のことはない、という蟹のぼやきである。蟹が真面目くさるほど観客は腹を抱えるという趣向でろう。

 ここにも「為蟹述痛作之」と注があるが、この場合は蟹を干物(きたひ)にして賞味している側としては、鹿ほどの痛みの自覚はまずないはずで、専ら趣向を楽しんでいるというだけのことであろう。歌の構想が面白いし、滑稽な所作が加わって大いにうけたはずである。

 この点に関連して次のような解説も行われている。

 都が飛鳥周辺にあった時代は、天武・持統朝を中心とする時代で、古代天皇制の権威が隆盛を誇った当時でした。……天皇は「現つ神」として意識されていました。この長歌にある思想も、そのようなものだったのです。つまり、この長歌は、左注にあるような「鹿のために痛みを述べて」作られて歌ではなく、むしろ逆に、鹿のために「歓び」を述べたとさえ言ってよいような内容でした。注をつけた人物は奈良時代の人の意識で書いているでしょう。そこからすれば、すでに天皇は現つ神ではありえません。天皇のために死ぬことが無上の歓びである、という教化宣伝の思想も、すでに有効ではありえなくなっています。そのため鹿の死も「痛み」という観点からとらえられています。二首目は、難波江に住んでいた葦蟹が、飛鳥までおもむき、その宮殿で大君に食べられて死んでゆくさまを、みずから喜んで祝福しつつ歌うという形の叙述になっています。一首目の長歌が、山野に生きる生物の代表者として鹿を歌っていたのに対し、こちらは海浜の生物の代表者として蟹を採り上げており、両者相俟って、天皇の権威がかくも広くこの世を覆っているのだと謳い上げていると言ってよいでしょう。(日本の古典詩歌1万葉集を読む 岩波書店 2000年)

 万葉前期と後期、奈良遷都以前と以後とでは歌の性格自体が大きく異なることは当然としても、それは上とは少し別の意味になりはしまいか。二首目の蟹の痛みの注などは、多少冗談の気味さえうかがえる。当の乞食者も含めて、巻十六に付録として、これらを採録した者達には、遊びを遊び、滑稽を滑稽とする、もう少し自由闊達な気風があったように思えるのだがいかがなものか。(つづく)

(16) へげのけぶり

2007-09-30 | 万葉集あれこれ

愁ひつゝ岡にのぼれば花いばら

 蕪村の代表句の一つである。前回の「北寿老仙をいたむ」の「君をおもふて岡のべに行つ遊ぶ をかのべ何ぞかくかなしき 蒲公の黄に薺のしろう咲きたる 見る人ぞなき」と重ねてみると、上の句の背後にあるものが見えてくる。蕪村は多くを語ろうとして、様々試み、それを次々に削ぎ落とし、最後にこの句に行きついたのではなかったか。

 「北寿老仙をいたむ」は読む者によって解釈が同じではない。問題になるのは、次の「」をつけた部分である。

雉子のあるか ひたなきに鳴を聞ば 「友ありき河をへだてゝ住にき へげのけぶりのはと打ちれば西吹風の はげしくて小竹原真すげはら のがるべきかたぞなき 友ありき河をへだてゝ住にきけふは ほろゝともなかぬ」

 これを前回、「雉の声がする。聞けば雉も嘆いている。私にも河を隔てて行き来する友がいた。それが怪しげな煙がぱっと上がったとみるや、こんな隠れるところとてない原のこと、狙われたが最後、今日はもう友の姿はなく、その声を聞くことはできない。要するに雉は鉄砲で撃たれたのである。それを運良く難を避けた友である雉の目から説明している。」と書いた。

 これに対して、こんな風に読まれることもある。

 どこに雉子がひそんでいたのでしょう。ひたすら悲しげに泣き続けるのを聞いていますと、親を呼ぶ鳴き声のようにも思われます。でも私には親とも頼んだあなたを親しくお呼びすることもかないません。思えば、今朝までは得がたい老友がその河向こうに住んでいらっしゃいましたのに。どうにも哀傷に耐えがたく、私はまた人里のほうへ帰って参りました。あなたの家のあたりで、この世ならぬ紫の煙がぱっと散ると、それは折からの烈しい西風におられて、あっという間に夕暮れの空へと消えてしまいました。小竹原や真菅原のどこにもこもりようもありません。人間の一生など、まことにそのようにはかない夢幻かもしれません。またもや思い出の深い岡のべにやって参りました。そうしてあなたという無二の老友が、ついちかごろまで河をへだてて住んでいらっしゃったのに……と、繰り返し追憶にふけることです。しかし、今日はあの雉子はほろろとすら鳴きません。雉子の鳴かぬにつけても、あなたが雉子と化して、あの世へ去られたことが、ひしひしと思い知られることです。  (鑑賞日本古典文学『蕪村・一茶』角川書店1976年)

 歌(詩)の印象と述べた鑑賞であるとしても長すぎる。やはり解釈に無理があり、辻褄を合わせようとして、歌意共々やたらくどくなってしまった。「へげのけぶり」という表記に問題があるにしても、歌の途中で主語が替わっているのを、蕪村本人の独白で押し通そうとすることが無理なのである。人の側から見れば珍しくもない雉撃ちが、雉の目からは不可思議な昨日と今日の断絶であることを、人の避けられない死と重ねることで、その無常を演出してみせたのであり、それにふさわしい舞台として薺、蒲公英の岡の辺が選ばれたのである。これはすべて蕪村本人の実体験とは関わりない、創作と考えた方が間違いない。

 巻十六、乞食者(ほかいびと)が詠ったとされる、この歌は何なのであろうか。門付けの芸人のような人々が都の周辺には実際におり、そこで歌われていたものが一部採録され、偶然後世に伝えられたということか。「いとこ 汝背の君(さあさ皆さん)」「申しはやさね 申しはやさね」のような歌い出しの呼びかけや囃子詞のような部分、冗長すぎる枕詞の類を取り去ってみると、骨格ははっきりしておりごく分かりやすい。憶良のような才能のある人物が、興に任せて一気に創作したみてもおかしくない。不思議なものが残されている。万葉集のおもしろさである。

いとこ 汝背の君 居り居りて 物にい行くとは 韓国の 虎といふ神を 生け捕りに 八つ捕り持ち来 その皮を 畳に刺し 八重畳 平群の山に 四月と 五月との間に 薬猟 仕ふる時に あしひきの この片山に 二つ立つ 櫟が本に 梓弓 八つ手挟み ひめ鏑 八つ手挟み 獣待つと 我が居る時に さを鹿の 来立ち嘆かく 「たちまちに 我れは死ぬべし 大君に 我れは仕へむ 我が角は み笠のはやし 我が耳は み墨の坩 我が目らは ますみの鏡 我が爪は み弓の弓弭 我が毛らは み筆はやし 我が皮は み箱の皮に 我が肉は み膾はやし 我が肝も み膾はやし 我がみげは み塩のはやし 老いたる奴 我が身一つに 七重花咲く 八重花咲くと 申しはやさね 申しはやさね」(3886)
いとこ,なせのきみ,をりをりて,ものにいゆくとは,からくにの,とらといふかみを,いけどりに,やつとりもちき,そのかはを,たたみにさし,やへたたみ,へぐりのやまに,うづきと,さつきとのまに,くすりがり,つかふるときに,あしひきの,このかたやまに,ふたつたつ,いちひがもとに,あづさゆみ,やつたばさみ,ひめかぶら,やつたばさみ,ししまつと,わがをるときに,さをしかの,きたちなげかく,たちまちに,われはしぬべし,おほきみに,われはつかへむ,わがつのは,みかさのはやし,わがみみは,みすみつほ,わがめらは,ますみのかがみ,わがつめは,みゆみのゆはず,わがけらは,みふみてはやし,わがかはは,みはこのかはに,わがししは,みなますはやし,わがきもも,みなますはやし,わがみげは,みしほのはやし,おいたるやつこ,あがみひとつに,ななへはなさく,やへはなさくと,まをしはやさね,まをしはやさね

 上の「」をつけた部分は鹿が語っており、枝葉を取ると、

獣待つと 我が居る時に さを鹿の 来立ち嘆かく 「たちまちに 我れは死ぬべし 大君に 我れは仕へむ ……老いたる奴 我が身一つに 七重花咲く 八重花咲くと 申しはやさね 申しはやさね」

 と、これだけでよい。
 狩の勢子にかり出された物語の語り手の側に、当の鹿がやって来て嘆いて言う。「私はもうすぐ射られて死ぬ。そうしてお仕えするつもりだ。私の角も耳も目も爪も毛も皮も肉も何もかもみんな使ってもらえて私はうれしい。そう申していたとほめて下され」

 ずいぶんと潔い鹿である。これは乞食者(ほかいびと)の歌う寿歌(ほぎうた)である。「ほかひ」は寿(ほく)の継続態「ほかふ」に連なる。鹿までがわが身を顧みず喜んでお仕えしていると、この世(当家)の繁栄を寿ぎ、祝いを述べているいるのであり、めでたい、めでたいと、あるいは鹿の形をして滑稽に踊ったのかもしれない。

 しかし、鹿の嘆きを文字通り歌い囃して笑いに変えたとしても、ただの歌として読めば「鹿の来立ち嘆かく(鹿乃来立嘆久)」であり、やはり鹿は嘆いている。注に「為鹿述痛作之」とあるように、鹿の本音を「痛」と解するのは当然であろう。寿歌を楽しんでいる者にも、そのあたりはそれとなく伝わっていたと考えるべきであろう。そこに、風刺と呼べるほどのものが込められていたとも思われないにしてもである。(つづく)

(15) 友ありき

2007-09-30 | 万葉集あれこれ

磐白の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた帰り見む (141)
いはしろの,はままつがえを,ひきむすび,まさきくあらば,またかへりみむ

家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る(142)
いへにあれば,けにもるいひを,くさまくら,たびにしあれば,しひのはにもる
鳥翔成あり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ(145)
あまがけり,ありがよひつつ,みらめども,ひとこそしらね,まつはしるらむ
 

 上の「家にあれば」は、旅の困難を単純明快に詠っており、よく知られている。しかし、これは挽歌である。尤も(雖不挽柩之時所作<准>擬歌意 故以載于挽歌類焉)と、上にあげたもの共通の注がついている。柩を挽く時に作った本来の挽歌ではないが、ここでは歌意によったとする。

 最初の二つの題詞は「有間皇子自傷結松枝歌」である。この時代旅の無事と帰還を願って松の枝を結ぶ民俗があった。そして皇子の「自ら傷みて」の事情は誰もが知っている。皇位継承の微妙な位置に置かれた有間皇子は欺かれて謀反に加担し、それを暴かれ、天皇の滞在する紀州牟婁の湯(白浜)に護送され、再び都へ送り返される途中絞殺され、十八年の短い生涯を終えるのである。歌はその往路のものとされる。

 これなども有間皇子の悲運を知る後世の代作と見た方が分かりやすい。磐白(岩代)は白浜への途中にあるが、松の枝を結んだのも椎の葉に飯を盛ったのも、有間皇子本人ではなく、それを追慕する側であろうし、そのように読めば、「家にあれば」の歌もそのまま野辺送りの挽歌となる。

 上の三番目は憶良の追和とされるが、それらしいところは何もない。憶良はこのような月並みな歌も残している。

 万葉集を古代の人々の素朴な真情の吐露とするのは誤解であろう。遊び心も、創作としても物語も豊富に含まれている。巻十六には乞食の詠んだされる不思議な歌が残されており、ここでは何と鹿や蟹が自身の境遇を語っている。憶良や旅人がそれを知らないはずはなく、後の時代になっても当然その伝統は生きている。

 俳句では河童忌や糸瓜忌のように、忌日が季語と化しているし、追悼の句もよく詠まれる。これも挽歌以来の伝統かもしれない。蕪村の「北寿老仙をいたむ」は、近代になってから発掘され、その形式と内容が近世離れしていたことから、多くが面食らった、これも不思議な作品である。参考までに全文をあげてみる。

君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に
何ぞはるかなる
君をおもふて岡のべに行つ遊ぶ
をかのべ何ぞかくかなしき
蒲公の黄に薺のしろう咲きたる
見る人ぞなき
雉子のあるかひたなきに鳴を聞ば
友ありき河をへだてゝ住にき
へげのけぶりのはと打ちれば西吹風の
はげしくて小竹原真すげはら
のがるべきかたぞなき
友ありき河をへだてゝ住にきけふは
ほろゝともなかぬ
君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に
何ぞはるかなる
我庵のあみだ仏ともし火もものせず
はなもまいらせずすごすごと彳める今宵は
ことにたうとき

 仮名ばかりで読みにくいので、勝手に漢字を増やし区切ってみる。

君朝に去りぬ 夕べの心千々に
何ぞ遙かなる
君を想ふて 岡の辺に行つ遊ぶ
岡の辺何ぞ かく悲しき
蒲公の黄に 薺の白う咲きたる
見る人ぞなき
雉子のあるか ひたなきに鳴くを聞かば

友有りき 河を隔てて往きにき
変化の煙のはと打ち散れば西吹く風の
激しくて 小竹原 真菅原
逃るべき方ぞなき
友有りき 河を隔てて往きにき 今日は
ほろろとも鳴かぬ

君朝に去りぬ 夕べの心千々に
何ぞ遙かなる
我が庵の阿弥陀仏 灯火も物せず
花も参らせず すごすごと佇める 今宵は
殊に尊とき

 やはり原文のリズムを味わうには、このような小細工をしない方がよいのだが、この方がよほど分かりやすいことも確かである。

君をおもふて岡のべに行つ遊ぶ
をかのべ何ぞかくかなしき
蒲公の黄に薺のしろう咲きたる
見る人ぞなき

 このあたりは到底近世の俳諧のイメージとは馴染みようがない。あまりに新しすぎるのである。多くが面食らったのは当然なのだが、解釈上議論のある作品なので、あえて上のように書き換えてみた。これに従って意味を拾ってみると、内容はごく分かりやすい。

 今は遙か遠いところに行ってしまった友を追慕して、岡の上を彷徨っていると雉の声がする。聞けば雉も嘆いている。私にも河を隔てて行き来する友がいた。それが怪しげな煙がぱっと上がったとみるや、こんな隠れるところとてない原のこと、狙われたが最後、今日はもう友の姿はなく、その声を聞くことはできない。要するに雉は鉄砲で撃たれたのである。それを運良く難を避けた友である雉の目から説明している。

 解釈上問題になるのは、一つは表記で、「へげ」の意味は前後から推し量るほかなく、漢字で「変化」とすれば誤解の生じる余地はない。もう一つは歌の中で主語が入れ替わり、突然雉が語り出したりすることが突飛すぎたのである。しかし、草木ですら物言う古代以来の伝統を考えれば、歌や詩に蟹や鹿、雉がしゃべって不都合な理由などあるわけもない。蕪村はごく常識的に受け入れられる範囲のことを試みたにすぎない。それを突飛と見る側にむしろ問題がありそうである。(つづく)

(14) 愛河の波浪

2007-09-30 | 万葉集あれこれ

世間は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり(793)
よのなかは,むなしきものと,しるときし,いよよますます,かなしかりけり

 万葉集巻五はこの旅人の歌に始まる。雑歌に分類されているが、これは挽歌である。旅人は太宰府在任中に妻を亡くしている。「報凶問歌」とあり、漢文序で「禍故重疊 凶問累集 永懐崩心之悲(不幸が重なり、凶報が続き、絶えず心も崩れんばかりの悲しみを抱く)」と解説している。この時期、旅人には不幸が続いたのである。

悔しかもかく知らませばあをによし国内ことごと見せましものを(797)
くやしかも,かくしらませば,あをによし,くぬちことごと,みせましものを

妹が見し楝の花は散りぬべし我が泣く涙いまだ干なくに(798)
いもがみし,あふちのはなは,ちりぬべし,わがなくなみた,いまだひなくに

 こんなことになるなら、生前遙々一緒に赴任してきたこの地を、もっともっといろいろ見せてやればよかった、こうして嘆いている間にも妻も見たはずの楝の花は散って行く。
 最初にあげたものも含めて、挽歌としては率直な、哀切きわまる歌であり、故人と共に作者の人柄がしのばれる。

 しかし、この後の二つは旅人のものではない、憶良の代作である。憶良は、漢詩文と、それと区別するために「日本挽歌」と題する長歌に反歌五首を添えて、これらをセットにしてを旅人に謹上している。上の歌はこの反歌五首の中にある。
 漢文の方は「蘭室屏風徒張 断腸之哀弥痛 枕頭明鏡空懸(香りの高い閨には屏風だけが淋しく張ってあり、断腸の悲しみはますますせつなく、枕元には明鏡も見る人もなく懸かっている)」等と実にリアルであり、「嗚呼哀哉(ああ哀しきかも)」と結んで、「愛河波浪已先滅 苦海煩悩亦無結 従来厭離此穢土 本願託生彼浄刹(愛欲の川波は消えてしまったが、煩悩の海は渡り終えていない。もとよりこの穢土から厭離したいと思っており、本願どおりにあの浄土に命を寄せたい)」と最後は仏教思想である。

 挽歌は雑歌、相聞と共に万葉集を構成する主要な柱の一つである。「歌」の語源は「訴ふ」かと思われ、この世ならぬ、神や死者への訴えや呼びかけが歌の本来の姿であり、死者を追悼する挽歌が歌の発生に深く関わっていることは間違いない。しかし、万葉集のこの時代は、仏教と共に火葬の新たな習慣が根づいていった時期であり、儀礼としての挽歌のあり方も大きく変わって行かざるをえない。

うつせみし 神に堪へねば 離れ居て 朝嘆く君 放り居て 我が恋ふる君 玉ならば 手に巻き持ちて 衣ならば 脱く時もなく 我が恋ふる 君ぞ昨夜の夜 夢に見えつる(150)
うつせみし,かみにあへねば,はなれゐて,あさなげくきみ,さかりゐて,あがこふるきみ,たまならば,てにまきもちて,きぬならば,ぬくときもなく,あがこふる,きみぞきぞのよ,いめにみえつる

 これは題詞に「天皇崩時婦人作歌」とあり、天智天皇の周辺にいた女性の詠んだ純然たる挽歌である。しかし、後半の「玉ならば 手に巻き持ちて 衣ならば 脱く時もなく 我が恋ふる 君ぞ昨夜の夜 夢に見えつる」だけ取り出せば、相聞と読めないこともない。この時代、殊に仏教以前、人の生死の境は今ほどは判然としていない。本来死者の復活を呼びかける呪歌である挽歌が、いつの間にか相聞に転化したとしてもおかしくはない。

君待つと我が恋ひをれば我が宿の簾動かし秋の風吹く(1606)
きみまつと,あがこひをれば,わがやどの,すだれうごかし,あきのかぜふく

 万葉集巻八、秋の相聞の冒頭に置かれた、よく知られた額田王のこの歌も、本来は挽歌であろうとする見方もある。題詞の「額田王思近江天皇(天智天皇)作歌」というような伝承や先入観を除いて、そのまま読めば、亡き人を追慕していると、確かにそのようにも読めるのである。

 歌の伝統も解釈もこの時代大きく変わっていったのであり、この流れの中にあって、憶良は仏教思想を挽歌に持ち込むことで、その呪歌としての伝統を断ち切り、残された者の悲哀をより強調してみせたのである。

 挽歌は本人に成り代わって詠むのが本来の形であり、創作としての物語に発展するのは、これもごく自然である。それにしても憶良の上の歌は真に迫っており、憶良がこの時期に妻を亡くしたという事実がないにもかかわらず、これを憶良自身の挽歌とする説を生むほどに、作品としてよく完成されている。(つづく)

(13) 夢に娘子になりて

2007-09-30 | 万葉集あれこれ

片隅に旅はひとりのかき氷   森澄雄
ふかし芋割るやより添う冬の宿 横光利一

 歌よりは句の方が好きである。思いつきで二つあげてみたが、近代俳句は写生であるとはいっても、このような舞台や映画の場面を思い起こさせるような、様々何事か語り出しそうな句もある。そのまま少しだけ空想を広げれば、短編小説がひとつ書けそうである。蕪村がこのような句を得意としている。

御手討の夫婦なりしを更衣
飛入の力者あやしき角力かな
鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉
宿かせと刀投出す吹雪哉
やぶ入の夢や小豆の煮るうち

 実際に、蕪村はこの「やぶ入の夢や小豆の煮るうち」とよく似た、太祗の「薮入の寝るやひとりの親の側」に、自作の「春風や堤長うして家遠し」他を配して、奉公に出て見違えるようになった娘が親元に帰る道中を描いた「春風馬堤曲」という、漢詩と俳句を一体にしたような、不思議な作品を残している。

 長歌から短歌へ、短歌から連歌を経て俳句へといった流れとは別に、歌や句から、逆にそれを広げて物語風の詩文を試みるというようなことがあってよいのかもしれない。

 太宰府では、憶良や旅人を囲んで実際にそのような創作のようなことが行われている。

いかにあらむ日の時にかも声知らむ人の膝の上我が枕かむ(810)
いかにあらむ,ひのときにかも,こゑしらむ,ひとのひざのへ,わがまくらかむ
 
 いつの日か誰かの膝の上で憩いたいという、これだけ読むと良縁を求めて夢見ている女の子といった風情であるが、古典を踏まえた漢文の手紙に添えられたもので、旅人が都の藤原房前に出したものである。
 藤原一族によって体よく都と追われた旅人ではあっても、不比等の二男、房前には誼を通じておく必要があり、手紙を添えて琴を贈ったのである。「此琴夢化娘子曰」、上の歌は旅人の夢に出てきた女の子のもので、いわば琴の精である。

言とはぬ木にはありともうるはしき君が手馴れの琴にしあるべし(811)
こととはぬ,きにはありとも,うるはしき,きみがたなれの,ことにしあるべし

 いい人がきっと大事にしてくれるから安心してよいと、旅人はこの琴の精に語りかけている。

 手紙の形を借りた戯曲であり、これを受け取った房前はどんな顔をしたものか。貴族らしい遊びともいえるが、都への復帰を願う旅人は案外本気でこんなものを作っていたのかもしれない。

遠つ人松浦の川に若鮎釣る妹が手本を我れこそ卷かめ(857)
とほつひと,まつらのかはに,わかゆつる,いもがたもとを,われこそまかめ

若鮎釣る松浦の川の川なみの並にし思はば我れ恋ひめやも(858)
わかゆつる,まつらのかはの,かはなみの,なみにしもはば,われこひめやも

 これも、旅人のものであるが、このまま読めばありふれた相聞の応酬であり、手本を巻かめとか、我れ恋ひめやもとか、月並みもよいところである。

 しかし、これにも漢文が添えられており、この鮎を釣っている女の子たるや普通ではない。

花容無雙 光儀無匹 開柳葉於眉中發桃花於頬上 意氣凌雲 風流絶世

 その花の顔(かんばせ)は並ぶものがなく、光り輝く姿は比べるものもない。しなやかな眉はあたかも柳の葉が開いたよう、あでやかな頬はまるで桃の花が咲いたよう。気品は雲を凌ぐばかりで、艶やかさはこの世のものとも思えないのである。

 絶世も道理、これは仙女だという。自らを仙界に迷い込んだ貴人に見立てて、そこでのやり取りを、これも戯曲に仕立ててみたのである。これなどはまったくの遊びであり、酒宴の座興のようなものに違いない。もっともこの場合も、上の琴の精同様、古典の焼き直しであり、純粋な創作とは言えない。しかし、ともあれ歌に飽き足らない、その遊び心が物語風の創作に向かうのがごく自然であることを、これらは素朴に示している。

 憶良の「貧窮問答歌」や「老身重病經年辛苦及思兒等歌」を、このような遊びの延長上に置いてみたらどんなものか。上の旅人の創作に憶良が関わっていたことも考えられる。憶良は他人に代わって歌を代作しており、これも創作と言えないこともない。(つづく)

(12) 名は立てずして

2007-09-30 | 万葉集あれこれ

 旅人の「讃酒歌」13首の中に、酔い泣きが3首詠われている。(6)で関連して、泣き上戸というのにあまりお目にかかったことがないと書いた。喜怒哀楽といった単純なことでも、今の常識をそのまま古代に持ち込むのは、やはりかなり問題がありそうである。
 柳田国男は、社会から大人の泣き声が消えたことを称して、感情の近代化と言っている。(『不幸なる芸術』)「言葉というものの力を過信し、何でも言葉で表現しようとする傾きがある」、そのためだという。感情を無理して言葉に替えようとし過ぎるということか。喜怒哀楽の中で「哀」が特にぎこちなく、簡単には泣かない、泣けないのである。「女々しい」というような言い方で、人目を気にしているのかとも考えたが、どうもそれだけではないらしい。人目が気になるのなら電車の中でものを食ったりはしない。
 塾の講師をしていた頃、卒業式に出る機会が何度かあり、この日ばかりは中学生も高校生も女の子はよく泣いていた。答辞は泣きながら読むものと決まっているかのようで、なぜかいつも女子の役割になっていた。公然と泣けるのは今では卒業式くらいになってしまったのかもしれない。

 卒業式のちらほら始まる頃である。今、卒業式に「仰げば尊し」が歌われることはあまりないのかもしれない。それでも歌詞だけは誰でも知っており、二番は( 互いに むつみし 日ごろの恩 わかるる後にも やよ わするな 身をたて 名をあげ やよはげめよ いまこそ わかれめ いざさらば )である。立身出世とはまた何とも時代がかって、古めかしくということで敬遠されたのであろうが、卒業式にはやはり「仰げば尊し」が似つかわしい。成人式に一斉に和装になるのと同じことで、何であれ式とはそんなもので、いやなら式などという伝統をさっさと捨てればよいのである。

士(をのこ)やも空しくあるべき万代に語り継ぐべき名は立てずして

 注に「……報(こた)ふる語(ことば)已(すで)に畢(をは)り、須(しばら)く有りて、涕(なみだ)を拭(のご)ひ悲しび嘆きて、此の歌を口吟(うた)ふ」とある。元の漢文だと「報語已畢 有須拭涕悲嘆口吟此歌」となる。見舞客に容態を尋ねられ、一通り答え、そこで思わず言葉に詰まり、つい涙を流してしまった。憶良は泣きながら、この歌を詠ったのである。
 天平5年のこのわずか後に、憶良は亡くなったものと考えられ、「士」として、果たして自分は名を立てることができたであろうかという自問であり、自責である。憶良の名が、こうして今に伝えられていることは、当たり前のことながら憶良自身にとっては何も意味しない。

 憶良没後、二十数年経って家持がこの歌に追和している。「勇士の名を振るはむことを慕(ねが)ふ歌」(振勇士之名歌)である。

(略)大夫や 空しくあるべき 梓弓 末振り起し 投矢持ち 千尋射わたし 剣大刀 腰に取り佩き あしひきの 八つ峰踏み越え さしまくる 心障らず 後の世の 語り継ぐべく 名を立つべしも(4164)
ますらをや,むなしくあるべき,あづさゆみ,すゑふりおこし,なげやもち,ちひろいわたし,つるぎたち,こしにとりはき,あしひきの,やつをふみこえ,さしまくる,こころさやらず,のちのよの,かたりつぐべく,なをたつべしも

大夫は名をし立つべし後の世に聞き継ぐ人も語り継ぐがね(4165)
ますらをは,なをしたつべし,のちのよに,ききつぐひとも,かたりつぐがね

 長歌と短歌がセットになり、憶良の歌がそのまま詠み込まれている。ここでは「士」は「大夫」になっており、(ますらを)と読ませる。武門の大伴らしい勇ましい詠い振りである。誰もが一族の名を冠した氏と共にある、この時代の常識に従えば、名を立てるとは、これ以外にはないわけで、家持としてはこれで十分追和したつもりになっている。しかし、家持は果たして憶良の涙を理解していたのであろうか? 

 家持が同族の池主と交わした詩文中に「幼き年に未だ山柿の門に逕(いた)らずして」とあり、この「山柿」の一人は柿本人麻呂でよいとして、もう一人が山上憶良なのか山部赤人なのか、二説あるという。家持が意識したのは赤人と考えるのが自然であろう。家持に限らず、その時代果たして憶良を理解する者がどれほどいたものか?それほど憶良の歌は、この時代にあっては異質である。

 家持にはどこか軽薄な印象がある。(3)で触れた「海行かば」にしても偶然大伴に下された勅書に奮い立ち、これを詠んだことから、後世妙なところで自分の歌が利用され、誤解を受けたりしている。上の勇ましい長歌にしても、内容は何もないに等しい。追和の動機は何なのか。

 創作を交えてのことであったにしても、「五月蝿なす 騒く子どもを 打棄てては 死には知らず」と詠む憶良が、一族の名誉や、官吏として実績や栄達にこだわるはずもなく、「名は立てずして」のその名が、歌人として世に入れられることを望んでのものであることは言うまでもない。

 出世など望むべくもない、多分渡来系の従五位下、下級貴族である憶良が、それでも「士」の自覚の下に、残された一つの生き方として、文名を求め、創作に踏み出していった、その覚悟が「名」であろう。同じく歌の道を志しながらも、ありえない武門の大伴の名にこだわり続ける家持とは、よい対照をなしており、この憶良の生き方には今につながる新しさがある。

 名を立てることを、家持のように立身出世に止めず、単純にアイデンティティに関わるものと考えれば、場合によっては「仰げば尊し」を今歌ったからといって、それほど目くじらを立てることもない。憶良ほどに思い詰めることもないが、名を惜しむ姿勢はあった方がよい。(つづく)

(11) 大長今

2007-09-30 | 万葉集あれこれ

チャングムなど 見てる場合じや ないんだが 坐り込んでしまふ スプーン提げて

 戦後短歌を代表する長老格の岡井隆の最近の歌集『家常茶飯』から見つけた。万葉集に始まる歌の今の姿である。ここ二三年どこの家でも見られた日常のひとこまを活写して無理がない。誰もがついつい見てしまったのである。岡井は三種類の文字と話し言葉と文語を自在に使いこなしている。「士・大夫」を(おのこ・ますらお)と読ませてみたり、「憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母も我を待つらむぞ」と詠んでみたりする、それと同様の実験的な試みは今でも続いている。

 チャングムは漢字の「長今」の朝鮮語読みである。長い連続ドラマの途中から見始め、ついつい最後まで見てしまったが、毎回冒頭に「大長今」とタイトルが出ていたが、初めのうちそれが主人公のチャングムであることをうっかり見過ごしていた。
 ドラマは、16世紀初頭の朝鮮王朝を舞台に、王の主治医にまで上り詰めた、実在の医女の成功物語である。食や医についての今の理解を、あえて男尊女卑の儒教文化の、それもその本丸のような宮廷の女官の世界に持ち込んでみせたのである。この時代、医女はの扱いであり、個人の能力や知識を際立たせる、これ以上の設定はない。韓国の高視聴率は、そのまま香港、台湾、日本へ当然のように引き継がれていった。
 これらの地域は、漢字を通じて、儒教と儒教的な官僚国家の様々な可能性や限界を、長く教養として共有してきたのであり、その記憶は今でも消えたわけではない。ドラマは、女官を巻き込んだ宮廷内の官吏による派閥抗争を背景に、ひたむきに自らの生き方を貫く主人公に、一族の繁栄や身内の利害のためには、自らを裏切らざるをえない敵役を配し、それぞれの強さ、弱さ、危うさを対照させてみせる。湿気過剰の東アジアのこの地域では、いつの時代であれ、このような生き方は波乱を伴わざるをえず、ドラマチックなエピソードを紡ぎ出すのに苦労はしない。

 ドラマの第一回、主人公の父親が、自身の運命に関わる女性三人の存在を、順・好など漢字一文字で暗示を受ける所から始まる。以後漢字を読み書きする場面は頻繁に出てくる。そもそも成宗(ソンジョン)・燕山君(ヨンサングン)・水剌間(スラッカン)・最高尚宮(チェゴサングン)のような固有名詞は、どれも人物名も含めて漢字のままの方が理解しやすい。東アジア共通の文化として、漢字の意味を改めて考えてみるにはよい機会になったように思う。

 「士」は広辞苑によれば、「官位・俸禄を有し、人民の上位にある者、周代に四民の上、大夫の下にあった身分」、もともとは「兵卒の指揮をつかさどる人」、軍人、兵を意味するとある。象形としては、儀礼用の鉞の頭部で、刃を下にして置いた形である。戦士階級の象徴を文字化したもので、次第に官吏・役人、単なる男子へと意味が広がっていったものと考えられる。
 近世、武士が徳川幕藩制を支える官僚に転身していった、それと同じ経緯は、古代中国以来のものであり、文字を通して、その記憶は今に伝えられている。特権意識の抜けない、今の役人根性の一端もそこに由来しているのであろうし、命を賭して職分を全うする戦士の責任感も、そこには多少なりとも引き継がれているものと考えたい。

 官吏としての「士」の中に含まれるが、記録をとる人、あるいはその記録を「史」という。「士」や「史」としての職分とその責任、自負という点について、こんな話が分かりやすい。
 『春秋』に「斉の崔杼、その君、光を弑す」とある。家臣である崔杼が主君の光を殺したのである。だから「弑す(目上の者を殺すこと)」である。崔杼の妻に光が通じており、その邸に忍んできた光が討ち取られたのである。それを史官が国の記録に「弑す」とありのままに書き記す。怒った実力者の崔杼は、その史官を殺し、記録を破棄する。史官の職責を引き継いだ、その弟が再度「弑す」と記録する。崔杼はこれも殺す。次の弟も断固として同様に書き記し、これも殺される。第四の弟が記すに及んで、ついに崔杼は断念せざるえない。崔杼にとっては不名誉な記録が後世に残されることになる。

 分かったようで実はよく分からない話である。なぜにそこまで職責、職分にこだわるのか。
 「史」の象形は、祝詞のついた木の枝を右手で捧げている姿とされる。祖先の霊に祈り、祭る姿である。史が記録するのは本来祭についてのものであり、そうである以上、原則は曲げられるはずもなく、史の名において、時に命を賭すこともありえる。命懸けは戦士のみではない。その遠い記憶が、そのまま崔杼の時代に伝えられていたまでのことである。「史」は春秋の時代、最高の知識階級であり、儒教の伝統の中では、「史」とはこのようなものとして記憶されている。

 社会が複雑に発展するにつれ、官吏の職分も様々に分岐して行く。そのそれぞれに応じて、果たすべき職責に自ずと一定の原理原則が生じてくるのはごく自然であろし、それが伝統というものでろう。単純な上意下達だけで組織が機能すると考えるのは無知である。
 俸禄を有する者という古くからの官吏の意味を、今の時代のありふれた大衆である給与生活者にまで押し広げて考えるのは、少々無理があるにしても、どんな時代であれ、どんな職分であれ、組織の一端を担い、社会に関わる限り、どこにでも「私」に対する「公」は存在するであろうし、そのいずれかを優先するのは間違いであり、「私」と「公」のせめぎ合いの中に、自ずと生じた原理原則が存在しないとしたら、社会には公正も正義も成り立たないことになる。漢字に刻まれた遠い記憶は今でも有効であると考えたい。

 憶良は、万葉集の時代を代表する「士」あり、「史」であることは間違いない。その憶良がこだわる「万代に語り継ぐべき名」とは、どのようなものと考えたらよいのであろうか。( つづく)

(10) をのこやも

2007-09-30 | 万葉集あれこれ

 憶良は晩年病を患っていたのである。前回の「(憶良沈痾之時歌)士やも空しくあるべき万代に語り継ぐべき名は立てずして」とは別に、前回触れた「老身重病經年辛苦及思兒等歌」とはセットになった漢文の「沈痾自哀文(病に沈み自ら悲しむ文)」があり、そこで、病を得て十年、今74歳になるとしている。筑前守として九州に下った頃には既に病の自覚があったことになる。結果的には後世に伝えられた憶良の歌はこの時期のものがほぼ総てであり、憶良は常に自らの老病の二つを正面から見据え、それを詠い続けたのである。相聞歌ばかりの万葉集の中にあって、憶良の歌の動機は場違いなほどに異質である。

 「沈痾自哀文」は難解な長文であり、憶良がいかに古典と漢文に通じていたかはよく分かる。しかし、何のためにこれを書いたのか。後の鎌倉時代まで、役所の文書は外国語である漢文(中国語)で記録されている。考えようによっては、常識とは別に古代の方が、今よりよほど国際的であったという言い方もできる。憶良は官吏として身につけた教養の全てを駆使して、創作の可能性を様々に試してみたかったのかもしれない。

 憶良は40歳を過ぎて遣唐使に随行し、直接大陸の文化に触れ、帰国後伯耆守、筑前守を歴任する。出自については渡来系であろうとされている。国際感覚を身につけた、当時第一級の優秀な官吏であったに相違ない。

 「士やも空しくあるべき万代に語り継ぐべき名は立てずして」これを万葉仮名で表記すると次のようになる。
『士也母 空應有 萬代尓 語續可 名者不立之而』 (をのこやも,むなしくあるべき,よろづよに,かたりつぐべき,なはたてずして)

 何とも面白いというか、不思議な表記である。(をのこやも,むなしくあるべき,よろづよに,かたりつぐべき,なはたてずして)のような歌の方は、このように洗練されていたかどうかは別にして、外国語である漢文や漢字とは無関係に、以前から詠われ、表記されることなく、長く口承されてきたのである。それが、ある時期を境に外国の文字で表記されるようになる。この場合それは単なる表記に終わらず、表意文字である漢字のイメージと日本語のイメージが重なることで、歌の表現力が一気に豊かになっている。例えば、ローマ字を借りて日本語を表記した場合と比べてみればよい。文字数が少ない分、表記はたやすいが、文字自体がイメージを喚起するわけではないので、上の様な不思議な現象は起こりようがない。

 確かに漢文(中国語)に似て漢文とは言えない、この『士也母 空應有 萬代尓 語續可 名者不立之而』を(をのこやも,むなしくあるべき,よろづよに,かたりつぐべき,なはたてずして)と読ませるには、表記上かなり無理があり、今でも万葉集の中には、読み下しようのない意味不明のものも、いくつか残されている。しかし、いったんこれを(をのこやも,むなしくあるべき,よろづよに,かたりつぐべき,なはたてずして)と読み、更に「士やも空しくあるべき万代に語り継ぐべき名は立てずして」と表記し直すと、途端にそこから様々なイメージが無理なく溢れ出し、(男と生まれた以上、為すこともなく世を過ごしてよいものか、後世に名を残してこそ男だ)くらいの意味には、無理なく誰にでも伝わるのである。和歌が和歌として、今の形に定着するためにも、漢字は必要だったことになる。万葉集には純粋な大和心が詠われている式の考え方は、相当にいかがわしい。

 ただ上の場合問題は「士」である。(をのこ)を男の子、「男」で表記してもよいはずのところをあえて「士」としている。(をのこ)と同じ意味の(ますらお)の場合だと、
ますらをと思へる我れや水茎の水城の上に涙拭はむ (968)
ますらをと,おもへるわれや,みづくきの,みづきのうへに,なみたのごはむ
大夫跡 念在吾哉 水莖之 水城之上尓 泣将拭
 このように、ここでは「大夫」が使われている。これは旅人が太宰府を去る時、児島という「遊行女婦」から贈られた歌に応えたもので、男である私が涙を見せたりしてはいけないのだが、というような意味になる。

 参考までにもう一例、(7)で女の子については既に触れた、憶良の長歌「哀世間難住歌」の中、男の子についての部分より一部抜き出してみる。
ますらをの 男さびすと 剣太刀 腰に取り佩き さつ弓を 手握り持ちて(804)ますらをの,をとこさびすと,つるぎたち,こしにとりはき,さつゆみを,たにぎりもちて (男共が男らしく振る舞おうとして……)
麻周羅遠乃 遠刀古佐備周等 都流伎多智 許志尓刀利波枳 佐都由美乎 多尓伎利物知提
 ここでは(ますらお)は「麻周羅遠」、(おとこ)は「遠刀古」と漢字本来の意味は完全に無視している。要するに必要に応じて、それなりに漢字を使い分けており、必要な場合はその本来の意味も生かしているのである。

 「士」も「大夫」も漢字本来の意味は官吏である。この時代、付け焼き刃の律令制の下で、(をのこ)の自覚をもって、とりあえず「士」のそれに代えて間に合わせていたのである。憶良は、その点どこまで「士」たろうとしていたのであろうか。(つづく)

(9) 五月蝿なす

2007-09-30 | 万葉集あれこれ

 ありのままの現実をそのまま詠う憶良の歌は分かりやすい。前回の「富人の家の子どもの着る身なみ腐し捨つらむ絹綿らはも」、貧窮問答歌に添えた方が分かりやすそうな歌である。海草のようにぼろの垂れた袖無し、ごわごわの麻にきまっているし綿などあるわけもない、をあるだけ着込んで寒さをしいでいる子沢山の一家がある、その一方では、綿も絹もふんだんに使った衣類を子供の数以上に蓄え、(着る身なみ)それを着る子供がいないのである、無駄に余らせ、捨てている。

 貧富の格差、富の偏在はいつの時代も分かりやすいテーマであり、不幸なことにどこまで行っても終わりはない。

 若い登山家が新聞にこんな体験を綴っていた。(日経07.2.24夕、野口健)
戦争難民の支援にアフガニスタンに数年前入った。しかし、出会ったのは生態系難民である。いつからか冬になっても山が白くならない。雪が積もらない。川や井戸も涸れ始めた。爆弾より水がない方が怖い。地雷なら片足で済むかもしれないが、水がなくなれば確実に死ぬ。事実、水不足でキャンプでは毎月多くの子供が命を落としている。現地の実情としては、恒常化した戦争のためにいちいち難民になっているわけには行かないのである。しかし、水のためには馴染んだ土地を捨てるほかない。
 もう二十何年か前のことになるが、パキスタン側からカイバル峠を経て、アフガン南道をイランへ長いバス旅行をしたことがある。確かに春先、荒涼とした半砂漠の彼方にはどこまで行っても雪山が見えていた。その白と乾いた空の青さが印象に残っている。ソ連侵攻前のこの頃、まだこのあたりものんびり観光旅行ができたのである。東京では今年、雪を見ないままについに冬が終えそうである。乾燥地帯の水不足の原因が温暖化であるとしたら、エネルギー資源の過剰消費のつけがこんな所にまで及んでいることになる。

 貧富の不合理を詠った上の歌は、「貧窮問答歌」同様憶良最晩年のもので、「老身重病經年辛苦及思兒等歌」に添えられた数首の中の一つである。憶良は既に70歳を越えている。

(略) 世間の 憂けく辛けく いとのきて 痛き瘡には 辛塩を 注くちふがごとく ますますも 重き馬荷に 表荷打つと いふことのごと 老いにてある 我が身の上に 病をと 加へてあれば 昼はも 嘆かひ暮らし 夜はも 息づき明かし 年長く 病みしわたれば 月重ね 憂へさまよひ ことことは 死ななと思へど 五月蝿なす 騒く子どもを 打棄てては 死には知らず 見つつあれば 心は燃えぬ かにかくに 思ひ煩ひ 音のみし泣かゆ(897)
よのなかの,うけくつらけく,いとのきて,いたききずには,からしほを,そそくちふがごとく,ますますも,おもきうまにに,うはにうつと,いふことのごと,おいにてある,あがみのうへに,やまひをと,くはへてあれば,ひるはも,なげかひくらし,よるはも,いきづきあかし,としながく,やみしわたれば,つきかさね,うれへさまよひ,ことことは,しななとおもへど,さばへなす,さわくこどもを,うつてては,しにはしらず,みつつあれば,こころはもえぬ,かにかくに,おもひわづらひ,ねのみしなかゆ

 憶良が「老身重病(老身に病を重ねていた)」ことは事実としても、盛んに作歌活動をしているところをみると、それほどの病身とも思えない。この歳で「五月蝿なす騒く子ども」を抱えている、というのもおかしな話である。死ぬに死ねない生の営みを、このような形に表現してみたということか。

 この長歌に添えられた数首の中には、次のようなものもあり、ここでも貧富の不合理が詠われている。

荒栲の布衣をだに着せかてにかくや嘆かむ為むすべをなみ(901)
あらたへの,ぬのきぬをだに,きせかてに,かくやなげかむ,せむすべをなみ

 子供達に粗末な着物すら与えることのできない、親の気持ちが詠われている。絹や綿まで腐らせている富者を見るにつけても、この不甲斐ない親としては、何とも辛いと、その心中を明かしているのである。傷口に塩をすり込むように、重荷に更に荷を重ねるように、老いて病み、それでもわが子を(打棄てては 死には知らず 見つつあれば 心は燃えぬ)、子をなして生きる限り生病老死の苦しみから逃れるすべはない。この点では、上の若き登山家の視線の先にある、医療を求め、やせ細った我が子を抱き抱え途方にくれている、アフガニスタンの父親の立場と憶良のいる場所にそれほど距離があるわけではない。現実の不合理と共に、その背景までもが見て取れないとしたら、それが切実なものであればあるほど、信仰と諦念の世界に留まるほかないのである。

 それにしても、前回の「すべもなく苦しくあれば出で走り去ななと思へど」とか上の、元気に騒ぎ廻るわが子を「見つつあれば心は燃えぬ」とか憶良の表現の新しさは楽々と今に及んでおり、これは尋常なことではない。

士やも空しくあるべき万代に語り継ぐべき名は立てずして(978)
をのこやも,むなしくあるべき,よろづよに,かたりつぐべき,なはたてず

 「憶良沈痾之時歌」とある。病に伏し、見舞われ返礼に詠ったもので、いわば辞世である。男たるもの後世に名を残さないことには死ぬに死ねないのだという。憶良にとって、それはどのような名であろうか。(つづく)

(8) 人はあらじ

2007-09-30 | 万葉集あれこれ

世間を何に譬へむ朝開き漕ぎ去にし船の跡なきごとし(351)
よのなかを,なににたとへむ,あさびらき,こぎいにしふねの,あとなきごとし

 旅人の讃酒歌の次に満誓という僧のこの歌が置かれている。この配置には大した意味はないのであろうが、讃酒歌の中の「生ける者遂にも死ぬるものにあればこの世なる間は楽しくをあらな」も、これだけを取り出してみれば仏教の無常を詠んだと取れなくもなく、それを受けてここに配置したとも考えられる。この時代、仏教思想は、教養として旅人らの知識層にこの程度は浸透している。

 前回の憶良の「世間を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」は、長歌の「貧窮問答歌」を返したもので、上の満誓の歌共々、仏教思想としてはごく分かりやすい。「憂しとやさし」は仏教語の「厭恥」、この世は思い通りにならなくて辛い、生きていれば恥ばかりが多く、消え入りたい時もあるの意味になる。こうして短歌にしてしまうと、憶良も旅人も僧侶の満誓と大して違わない。しかし、憶良の真骨頂は短歌ではなく長歌にある。その長歌も枕詞などはお構いなしで、自在に独自の世界を詠んでおり、伝統は無視され、歌というよりは物語に近い。

風交り 雨降る夜の 雨交り 雪降る夜は すべもなく 寒くしあれば 堅塩を とりつづしろひ 糟湯酒 うちすすろひて しはぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ ひげ掻き撫でて 我れをおきて 人はあらじと 誇ろへど 寒くしあれば 麻衾 引き被り 布肩衣 ありのことごと 着襲へども 寒き夜すらを 我れよりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ凍ゆらむ 妻子どもは 乞ふ乞ふ泣くらむ この時は いかにしつつか 汝が世は渡る
かぜまじり,あめふるよの,あめまじり,ゆきふるよは,すべもなく,さむくしあれば,かたしほを,とりつづしろひ,かすゆざけ,うちすすろひて,しはぶかひ,はなびしびしに,しかとあらぬ,ひげかきなでて,あれをおきて,ひとはあらじと,ほころへど,さむくしあれば,あさぶすま,ひきかがふり,ぬのかたきぬ,ありのことごと,きそへども,さむきよすらを,われよりも,まづしきひとの,ちちははは,うゑこゆらむ,めこどもは,こふこふなくらむ,このときは,いかにしつつか,ながよはわたる

 これは貧窮問答歌の前半の問い掛けの部分である。寒くてたまらないので塩をなめ、酒糟を湯で溶き、酒ともいえないようなものを飲んでいる、この人物は「我れをおきて 人はあらじ」などとうそぶいているところをみると、当時のありふれた下級官吏の一人であるのかもしれない。ありったけの袖無しを着込み、(鼻びしびし)鼻をすすりながら、それでもこの人物は、数の上ではもっと多い、自分以上に貧しい者たちに思いを寄せ、若干は自分を慰めたりもしている。

天地は 広しといへど 我がためは 狭くやなりぬる 日月は 明しといへど 我がためは 照りやたまはぬ 人皆か 我のみやしかる わくらばに 人とはあるを 人並に 我れも作るを 綿もなき 布肩衣の 海松のごと わわけさがれる かかふのみ 肩にうち掛け 伏廬の 曲廬の内に 直土に 藁解き敷きて 父母は 枕の方に 妻子どもは 足の方に 囲み居て 憂へさまよひ かまどには 火気吹き立てず 甑には 蜘蛛の巣かきて 飯炊く ことも忘れて ぬえ鳥の のどよひ居るに いとのきて 短き物を 端切ると いへるがごとく しもと取る 里長が声は 寝屋処まで 来立ち呼ばひぬ かくばかり すべなきものか 世間の道
あめつちは,ひろしといへど,あがためは,さくやなりぬる,ひつきは,あかしといへど,あがためは,てりやたまはぬ,ひとみなか,あのみやしかる,わくらばに,ひととはあるを,ひとなみに,あれもつくるを,わたもなき,ぬのかたぎぬの,みるのごと,わわけさがれる,かかふのみ,かたにうちかけ,ふせいほの,まげいほのうちに,ひたつちに,わらときしきて,ちちははは,まくらのかたに,めこどもは,あとのかたに,かくみゐて,うれへさまよひ,かまどには,ほけふきたてず,こしきには,くものすかきて,いひかしく,こともわすれて,ぬえどりの,のどよひをるに,いとのきて,みじかきものを,はしきると,いへるがごとく,しもととる,さとをさがこゑは,ねやどまで,きたちよばひぬ,かくばかり,すべなきものか,よのなかのみち(892)

 これが問答の後半、村に住む多くはこんなだという。綿も入っていない、海草のようにぼろ切れが垂れ下がった袖無しを肩に掛け、土間に藁を敷いて家族が寄り添って飢えと寒さをしのいでいる。そんな時でも、(しもと取る)むちを手にした里長の声だけはやたら威勢がいいのである。
 
 憶良は国守という地方官の立場で、下級官吏の生活や里長支配下の村の実態について、それなりにある程度は知っている。
 天平期の東大寺の写経生の上申書が残されている。下級官吏が写経を副業にする例はよくあったらしい。給与だけでは生活できないのである。上申書には官給の浄衣の交換、月五日の休暇、食事の改善、三日に一度の酒の支給などの要求が並べられている。全体の中ではごく少数ではあっても、この頃に始まる、私たちの大先輩である給与生活者の実態は、今とそれほど違うわけでもなさそうである。

 しかし、貧窮問答歌に歌われて世界は、憶良の想像と考えた方がよい。憶良にとって、世の貧しさ、貧窮とはこのようなものであり、社会には人の逃れることのできない現実として、このような不合理が存在するのである。但し、それがなぜ生じるか、そこに政治の背景を見ているわけではない。歌の末尾には山上憶良頓首謹上とあり、献上の相手は明らかではないが、作品としての評価を期待して詠まれたものであり、長歌に問答の形式を取り入れ、生活感のある言葉だけで雅語に頼らず、ありのままに現実を詠む、これは思い切り革新的な試みであったことは間違いない。

すべもなく苦しくあれば出で走り去ななと思へどこらに障りぬ(899)
すべもなく,くるしくあれば,いではしり,いななとおもへど,こらにさやりぬ

富人の家の子どもの着る身なみ腐し捨つらむ絹綿らはも(900)
とみひとの,いへのこどもの,きるみなみ,くたしすつらむ,きぬわたらはも

 憶良が社会の現実を直視することのできた、この時代稀な歌人であったことは確かである。しかし、そこに必ずしも社会への抗議や批判が含まれているわけでもない。政治はまだまだこの時代未熟である。(つづく)

(7) 娘子さびすと

2007-09-30 | 万葉集あれこれ

 憶良は旅人の二年後に74歳で亡くなっている。「罷宴歌」が詠まれて時期が旅人の太宰府在任中だとすると、高齢の憶良の帰りを幼い子が待っているわけはなく、多くは冗談と聞き流し、座興ととったはずである。旅人の「讃酒歌」も「賢しみと物言ふよりは酒飲みて酔ひ泣きするしまさりたるらし」のように推量の助動詞「らし」を多用し、他人事のように、酒飲みとはどうもそんなものらしいというような詠い方で、どこまでが本音かはっきりしない。それでよいのである。いずれも分かる相手にはこれで通じると思って詠んいる。こうしないと歌にはならないし、笑ってもらえれば、とりあえずはそれでよいのである。

 憶良と旅人の関係というのも面白い。旅人が太宰師として九州にいたのは二年ほどであり、その交流は意外と短い。どちらもそれぞれに処世に長けた高齢である。一方は名門の中納言、他方は筑前守といっても貴族の最下層で従五位下、同じ貴族でも旅人のような三位以上と憶良とで、身分上の立場は大きく隔たる。律令が布かれ、官僚制がとられても大伴や藤原など有力氏族の特権はそのまま残されており、三位以上の位階は実績や実力の通じない別の世界である。そして、六位以下の一般官吏ともなれば、旅人の住む世界とは更に隔絶したものとなる。憶良のいる場所からは、そのどちらも見えており、名ばかりの未熟な官僚制の実態を憶良は知り尽くしている。

 偶然の配置なのであろうが、旅人の「讃酒歌」と憶良の「罷宴歌」が並べられていると、旅人の酔い泣きなんかに、憶良が、そんなの知ったことか、付き合っていられないよ、と言っているように読めたりもする。体よく都を追われ、藤原専権を座視するほかない旅人の現実批判は、憶良のそれとはついに重なりようがない。思想性という点では、憶良の方がはるかに徹底しており、憶良はその点では万葉集の例外的な歌人である。

瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ いづくより 来りしものぞ まなかひに もとなかかりて 安寐し寝さぬ(802)
うりはめば,こどもおもほゆ,くりはめば,ましてしぬはゆ,いづくより,きたりしものぞ,まなかひに,もとなかかりて,やすいしなさぬ

 「罷宴歌」同様、ごく当たり前のことを詠んでいるにすぎない。しかし、思想性とはこのようなものを言う。次もまた同様である。

娘子らが 娘子さびすと 唐玉を 手本に巻かし 白妙の 袖振り交はし 紅の 赤裳裾引き よち子らと 手携はりて 遊びけむ 時の盛りを 留みかね 過ぐしやりつれ 蜷の腸 か黒き髪に いつの間か 霜の降りけむ 紅の 丹のほなす 面の上に いづくゆか 皺が来りし 常なりし 笑まひ眉引き 咲く花の 移ろひにけり 世間は かくのみならし(804)
をとめらが,をとめさびすと,からたまを,たもとにまかし,しろたへの,そでふりかはし,くれなゐの,あかもすそひき,よちこらと,てたづさはりて,あそびけむ,ときのさかりを,とどみかね,すぐしやりつれ,みなのわた,かぐろきかみに,いつのまか,しものふりけむ,くれなゐの,にのほなす,おもてのうへに,いづくゆか,しわがきたりし,つねなりし,ゑまひまよびき,さくはなの,うつろひにけり,よのなかは,かくのみならし

 長歌の一部であり、この後に男の子についても分かりやすく詠まれているが省略する。年頃の女の子が、友達同士誘い合って派手に粧い凝らし、遊び呆けている様子が詠われている。しかし、髪は白く顔に皺がより、花のような微笑みも眉もあっという間に散ってしまう(笑まひ眉引き 咲く花の 移ろひにけり)のである。

 誰にも経験があるし、思い当たる、ただそれだけの当たり前のことを、あえて歌に詠む、それが思想性であり、これだけは古くならない。今の時代にそのまま置き換えることができる。憶良にはなぜこのような新しい歌が詠めたのであろうか。憶良はこの長歌をこう結んでいる。

手束杖 腰にたがねて か行けば 人に厭はえ かく行けば 人に憎まえ かくのみならし たまきはる 命惜しけど 為むすべもなし(同、一部略)
たつかづゑ,こしにたがねて,かゆけば,ひとにいとはえ,かくゆけば,ひとににくまえ,かくのみならし,たまきはる,いのちをしけど,せむすべもなし

 杖をついて、あっちへ行けば嫌われ、こっちへ行けば憎まれ、それで一生を終えるのである。人の一生とはそのようなものだ、それをしっかり見据えているからこそ、「罷宴歌」のような歌をさらりと詠むことができる。簡単そうでこれは結構難しいのである。

銀も金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも(803)
しろかねも,くがねもたまも,なにせむに,まされるたから,こにしかめやも

 上の「瓜食めば 栗食めば」の長歌を返したのがこれである。これを旅人の「夜光る玉といふとも酒飲みて心を遣るにあにしかめやも」と比べてみたらどんなものであろうか。

 銀だ金だ玉だといって、それがどうがどうだというのだ、というところまでは同じなのだが、そこから先、それぞれに向き合っている現実、思想性の質は大分違ったものである。

世間を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば(893)
よのなかを,うしとやさしと,おもへども,とびたちかねつ,とりにしあらねば

 憶良というと誰でもまず思い浮かべる「貧窮問答歌」をここでも見てみたい。憶良の思想を支える一つの柱は明らかに仏教である。(つづく)