毛呂山町の「出雲伊波比神社」を参拝した帰路途中で、坂戸市にある「多和目城跡」に寄ってみた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/a0/ec1842960b85ff4ce71e5666e73e8777.jpg)
現地解説板。 主郭跡。遺構は土塁が確認できる。
(現地解説板)
多和目城は、坂戸市多和目の城山の頂にあります。市内で最高位を示す標高113mの丘陵上の平場を利用して築かれた中世の城跡です。
城跡の南側は険しい断崖となって、眼下には高麗川が流れています。
現在は、南側の崖を除き、土塁と空堀が城の周囲を囲っていて、その規模は、東西110m、南北65mの長方形になります。
土塁の一部が折れ曲がって周囲が平らな部分(腰曲輪)があり、敵の侵入を防御する構造になっていることがうかがえます。
この城の歴史は、よく分かっていませんが、狭山市柏原の長谷川家に伝わる、江戸時代の安永8年(1779年)に書かれた記録には、
「田波目大かけ城」を河越城主の扇谷上杉氏が攻めたときに、柏原の住人である半貫内膳が参戦し、高麗の新節次と合戦したと記されています。
この記録は、室町時代の大永4年(1524年)に河越城主の扇谷上杉氏が毛呂城を攻めたときのことを、伝承として書きとめたものでしょう。
「大かけ」と地理的な特徴を伝え、田波目と地名が一致することから、多和目城を指している可能性も考えられ、興味深い資料です。
昭和47年(1972年)に城山配水池の建設に伴い、土塁の一部を調査しました。
土塁の内側には、建物の一部と思われる多くの柱穴と、縄文時代中期の住居跡を三軒発見しました。
周辺は「城山の森」として、地元のボランティア等による保全活動による道標がたてられている。
しかし、整備はほとんどされていないので、草の高くなる時期には散策が困難になると予想される。
外郭や土塁、虎口跡のような遺構は確認できたが、城跡と言うほど規模は大きくないようだ。
【城郭データ】
名称:埼玉県選定重要遺跡 「多和目城跡」
所在地:埼玉県坂戸市多和目
時代区分:戦国時代
築造者:不明
形態:城跡
遺構:土塁・空堀
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/3b/bf879dcc5ddc02bdfa63d23431ac5ea9.jpg)
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現地解説板。 主郭跡。遺構は土塁が確認できる。
(現地解説板)
多和目城は、坂戸市多和目の城山の頂にあります。市内で最高位を示す標高113mの丘陵上の平場を利用して築かれた中世の城跡です。
城跡の南側は険しい断崖となって、眼下には高麗川が流れています。
現在は、南側の崖を除き、土塁と空堀が城の周囲を囲っていて、その規模は、東西110m、南北65mの長方形になります。
土塁の一部が折れ曲がって周囲が平らな部分(腰曲輪)があり、敵の侵入を防御する構造になっていることがうかがえます。
この城の歴史は、よく分かっていませんが、狭山市柏原の長谷川家に伝わる、江戸時代の安永8年(1779年)に書かれた記録には、
「田波目大かけ城」を河越城主の扇谷上杉氏が攻めたときに、柏原の住人である半貫内膳が参戦し、高麗の新節次と合戦したと記されています。
この記録は、室町時代の大永4年(1524年)に河越城主の扇谷上杉氏が毛呂城を攻めたときのことを、伝承として書きとめたものでしょう。
「大かけ」と地理的な特徴を伝え、田波目と地名が一致することから、多和目城を指している可能性も考えられ、興味深い資料です。
昭和47年(1972年)に城山配水池の建設に伴い、土塁の一部を調査しました。
土塁の内側には、建物の一部と思われる多くの柱穴と、縄文時代中期の住居跡を三軒発見しました。
周辺は「城山の森」として、地元のボランティア等による保全活動による道標がたてられている。
しかし、整備はほとんどされていないので、草の高くなる時期には散策が困難になると予想される。
外郭や土塁、虎口跡のような遺構は確認できたが、城跡と言うほど規模は大きくないようだ。
【城郭データ】
名称:埼玉県選定重要遺跡 「多和目城跡」
所在地:埼玉県坂戸市多和目
時代区分:戦国時代
築造者:不明
形態:城跡
遺構:土塁・空堀