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ダンスとか。

ARICA 『KIOSK』

2006-12-21 | ダンスとか
馬車道・BankART Studio NYK(NYKホール)。
10月の『PAY DAY』がベースになっていて、装置などは基本的に同じ、ただしそこに鉄割アルバトロスケットが加わる。ついこの前の「吾妻橋」で初めて見た彼らのイメージと変わりなく、遠い下手の隅のジャンクの山や「ねぐら」みたいなところからメチャクチャな格好で現れた「底辺」な感じの人々が安藤朋子の店先を営業妨害したりなぜか手伝ったりする。上手側の戸口の方へ自転車で走って行って帰って来たらワカメをびっしり運んで来たのはウケた。ワカメの投げ合いなど波乱も起きそうになるのだが、規則性を重んじるフリをすることで自律性を身にまとう安藤のパフォーマンスと、コントロール解除したフリをすることでひたすら相手に負い目を背負わせようとする鉄割メンバー(戌井昭人&奥村勲のコンビ、その他に前田真里が舞台左右の奥でずっと床掃除をしているのも異様)の間に何を起こすかは、作品としてはやはり難しい選択を迫られるところだろう。自己防御と排他性が結果として攻撃に転じる前者と、相手の攻撃性を故意に誘発することで結果的に自己防御を維持する後者、一言でいえばこういう両サイドの悲劇的な「バランス」を重視した構成・演出と思われ、その意味では相当に見事なバランスが探り当てられていると思う。鉄割が無言でちょっかいを出す、あるいは出しそうにしているのを睨みつける安藤の表情、目線のドラマティックさなどに、今までのARICAで見たことのないものがあって、そこはもっと先が見たい!と思ったのだが、「売店のおばちゃん vs. 危ない人」みたいなベタベタな図に陥ってしまいそうな、あまり本質的とはいいがたいスリルも同時にうっすら感じた。いや、やはりここはチェルフィッチュの『エンジョイ』の向こうを張って…などと勝手にあれこれ思ったりもした。安易に落としたりクライマックスに持っていったりせず、ひたすらテンションを漂わせ続けることに徹した演出が「大人」といえばそうなのだが、決定的な勝負を敬遠したといえなくもない。「商品」(水、ペットボトル)の物量が強調される終盤~ラストは、単純に、観客の注意が散漫であり続けたために、着々と進行する量の増加がインパクトを十分発揮しなかった。巨大な冷蔵庫など登場しなかった『PAY DAY』の、段ボールから延々とペットボトルが出て来た時の方が、はるかに数学的崇高を感じた。冒頭に、なかなか人間が現われないまま装置が動いたり新聞紙の塊がぶら下がって来て揺れたりという無人シークエンスが長々とあって、これが妙に興奮した。ロバート・モリスがジャドソン・コンサートでやっていたという、モノだけのダンスを連想しながら見ていた。
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