「あきらみゅうあきらみゅう。ありゃなんの涙じゃろか、ゆりが涙は。
心はなあんも思いよらんちゅうが、なんの涙じゃろか、ゆりがこぼす涙は、
とうちゃんーーーーーー。」
10日に逝かれた石牟礼道子さんの『苦界浄土 わが水俣病』からの言葉だ。
僕が幼いころ、空も海も、けっしてきれいではなかった。
いろいろなものが壊れてゆくようだった。人も、、、。
水俣病を知り、とほうもなくおそろしくなって震えた。
その震えがながくながく、いまだ静まっていない気がする。
心の激しく動く年齢に出会ったのが『苦界浄土』だった。
こみあげてくる感情をおさえることができなくて泣いた。
怒りの根底から、作者のあたたかなものがあふれてくるのだった。
言葉に体温があることを教えられた。
「安らかにねむって下さい、などという言葉は、しばしば、生者たちの欺瞞のために使われる」
という言葉も同書にある。
人は、金儲けのために海をけがし、人と人のあいだの大切なものを次々に崩壊させたのだと思う。
そのできごとは、ずっと低い地響きをひびかせつづけている。
深いところでそれは例えば放射能のことにも、そして精神的なことや人間に対する思いや愛情にかかわることもふくめて、僕らのさまざまな荒廃に、深くかんけいしてきたのではないかと、思っている。
この同じ時代に、しかし、石牟礼道子さんの文学に出会えた、ということは、本当に感謝すべきことだったと思う。
この人のご本を読むと、滝に打たれたような気持になるのだった。
ずしりと重いご本は、読むにも覚悟が必要だったが、いったん読み始めると特別な時間が流れ始めた。
一文字一文字をみつめ、しだいしだいに言葉が近づいてくるのを待ち、いつしか胸の奥で何かが動き出すのが感じられた。
たましいに直接向き合っているような感覚になってゆくのだった。
力をもらえたと思う。
映像を見たことがあった。毛筆で文章をかいていらした。
石牟礼さんが言葉を書き記す姿は、デリケートで、しかし厳しい緊張感が満ちてあり、しかし優しさがこぼれるようで、見惚れた。
落ちてゆく花びらを拾うようなテンポの、それは一種のおどりみたいだった。
「地上にひらく一輪の花の力」
という言葉を石牟礼さんは『花を奉る』のなかに書かれたが、これほど力強い言葉を僕はまだほかに知らない。
石牟礼道子さんの言葉を、ずっと大切に読みつないでいきたいと心から思う。
合掌。