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51天武帝が心から愛したのは持統皇后なのか

2017-03-25 00:24:56 | 51天武帝は心ゆるした女性は

天武帝は、心から 持統皇后を愛したのか

「持統帝と天武帝のつながりの深さ」と「天武天皇の霊魂は伊勢へ」で、二人の絆の深さを考える材料としました。二人の結びつきは希薄だったという、わたしは勘違いしているのでしょうか。二人は強い絆で結ばれていたのでしょうか。

持統帝の歌を詠めば、どちらかというと持統帝は天武帝に対してさっぱりしていた、あまり執着がなかった…と思うのです。では、持統帝は噂通りの冷たい女性なのでしょうか。いえいえ、有間皇子への深い鎮魂の思いを見ると、情の深い人だと分かります。草壁皇子を失った後も、妃の阿閇皇女を連れて紀伊國行幸をして嫁を励ましました。阿閇皇女も持統帝を義母として信頼していました。持統帝は優しい人でもあったのです。

では、一方の天武帝が心許した女性はいたのかというと、それは居ました。藤原夫人(ふじはらのぶにん)でしょうかね。万葉集には二人の親しげな楽しげな歌が残されています。藤原夫人は万葉集には二人いますが、どちらも鎌足の娘です。五百重娘と氷上娘で、大原に住んでいたのが「大原大刀自(大原の大刀自)」でした。

巻二の103、104の二首を読んでみましょう。

103 吾が里に大雪ふれリ大原の古りにし郷にふらまくは後(のち)

おいおい、わたしの新しい住まいには大雪が降ったぞ。そちらの古い郷に雪が降るのはやや遅れるであろうな。(天武帝)

104 吾が岡のおかみに言いてふらしめし雪のくだけし其処にちりけむ 

あらあら、わたくしどものお祀りする神様に頼んで大雪を降らしたのですよ。こちらの雪がくだけた残りがそちらに降ったのでございましょうね。(藤原夫人)

楽しげでしょう。五百重娘は美人でお茶目だったようです。天武帝は親しみをこめて歌を贈ったのでした。天武帝の死後、この女性は異母兄の藤原不比等と密通して、藤原麿を生んだとされています。よほどの魅力があった人でしょうね。

人麻呂歌集から察するに持統帝も天武帝に熱烈に愛されたのですが、持統帝としては淡白だったようですね。だって、持統帝には心から愛した人がいたのですからね。

それにしても、持統帝は草壁皇子のために大津皇子を排除した冷酷な女性というのが世間の通説のようです。

「吉野の盟約(天武八年)」で我が子のように受け入れるとした大津皇子に、謀反発覚後すぐ死を賜わった」この時、日本書紀では「皇后、臨朝称制」していたのです。持統帝を政権のトップとして、大津皇子の死は、持統帝の意思だとされています。しかも、天武朝では議政官の任命記事は在りません。政治の組織は天皇親政であったので、左右大臣、内大臣の任命はないのです。当然、皇族が政治に参画していたでしょう。となると、持統帝意外に権力を握ることができたのは高市皇子ですね。大津皇子の「朝政を聴く」というのも、皇族政治家として仕事を始めたということでした。

 草壁皇子が皇太子になるのは、天武十年か、十二年でした。その時、大津皇子も「朝政を聴く」地位に置かれ、二人は微妙な立場に居ました。 もちろん、大津皇子への皇位継承は天武帝の望みでしたから、持統帝とは考えが違いました。天武と持統の二人は皇位継承に対しても意見が一致していませんでした。

 しかしながら、天武帝には皇后としての鵜野皇女(持統帝)が必要だった。そこには重大な意味があったのでしょう。あまたの妃の中から、なぜ持統帝が皇后に選ばれたのか? 思い出してください。天武帝は天智帝の後宮の女性たちをことごとく、新王朝の後宮に移しました。高貴な血統を他に漏らさない為でした。そして、あまたの後宮の女性の中で、鵜野皇女こそが皇后にふさわしかったのです

大王になれる皇族は限られています。同じく皇后になれる女性も限られているのです。持統帝は特別な皇女だったのです

 貴種に対する執着は、武家の時代になっても根強く残り続けました。

古代には、その出自で一生が決まったのでしょうね。

いかさまに おもほしめせか 神風(かむかぜ)の伊勢の国に行ってしまった天武天皇。仏教に帰依していた天武帝でしたから西方浄土へ行かれたと思っていたのに、夢の中で神の国である伊勢に行かれてしまった…古代では、夢も現実と同じでした。そこには、天武天皇の出自がかかわっているのでしょうか

 また、天武帝は天皇自らが政治をすることを目指していたので議政官の任官はなく、他に権力を分けるつもりはなかったのですが、持統称制になると太政大臣・右大臣の任命が始まります。政治のやり方も天武帝とは違っているのです。

天武朝では壬申の乱で天武帝に協力した豪族たちは出世できなくて、さぞやがっかりしていたことでしょう。天武帝の政治は、律令政治を目指した孝徳朝や天智朝とは基本的に違っていたのですから。

律令によって権力を握ろうとしていた近江朝の残党である中臣氏も痛手だったことでしょう。ですが、藤原氏は持統帝に近づける大きなカギを握っていました。それは、藤原不比等の出自に関わることでした。その鍵で、持統帝に近づいたのだとわたしは思います。 

不比等が淡海公(たんかいこう)と呼ばれていたことは、ご存じでしたか?えらく意味深なおくり名ですね。まるで、天智天皇の御落胤と云わんばかりではありませんか。それが、不比等が持統帝に接近する鍵だったのだと思うのです。

後にはそのことを書きましょう。

 また明日


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