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関東大震災が起きた日

2017年09月01日 14時33分24秒 | 歴史シリーズ
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『大原社会問題研究所雑誌』No.668 /2014.6
 
 
関東大震災時の朝鮮人虐殺から半年後の1924年2月10日の「やまと新聞」に,次のような記事を見つけました。「虐殺鮮人数百名の白骨、子安海岸に漂着」と言うショッキングな見出しで始まる記事は、半年前の関東大震災時、朝鮮人を虐殺し海に放棄した遺体が、暴風により子安の海岸にたどり着いたということです。
 
 それだけではなく、この地域を管轄している神奈川警察署は、虐殺遺体の処理を何もせずそのまま放置したと言う事です。神奈川警察署は、横浜にある警察署の中で唯一震火災の被害を免れた警察署であり、朝鮮人虐殺が激しかった所でもあります。
 
この記事を見て,まず数百と言う数に愕然とし,また,神奈川警察署が遺骸にまで冒涜した行為に怒りを覚えました。
 
当時2月8、9日と暴風雨がきて,市電が止まるほどの激しい風が吹いたようです。暴風による海流の動きから察すると,横浜港の方からながれてきたのではないかと考えられます。
 
震災後権力の弾圧にも屈せず調査した「在日本関東地方罹災朝鮮同胞慰問班」の調査では,子安から横浜にかけて多くの朝鮮人が虐殺されています。しかし今もその実態が明らかになってはいません。神奈川鉄橋で500人,子安から神奈川停車場まで150人,新子安町で10人,神奈川警察署で3人,御殿町付近(神奈川警察署がある所)で40人,浅野造船所で48人もの朝鮮人が虐殺されたと言われています。それ以外の地域にも虐殺証言はいくつもあります。
 
私は,このような多くの人間を虐殺するには,それなりの武器が必要,それ故軍隊の関与があったのではないかと考えていました。それは,今も変わりはありません。
 
また同時に,遺体はどうしたのか疑問に思っていました。
証言の中に,「横浜駅に朝鮮人虐殺遺体の傍で列車を待つ」とか「家の傍の遺体が1ヶ月放っておかれて臭かった」「川に流れてきた遺体が臭かった」などありましたが、どこにどのように葬られたのか調べてみました。朝鮮人の被殺者埋葬地として,「三ツ沢墓地に200名(神奈川付近の被殺者)久保山火葬場に千余体」(吉野作造)となっていますが,三ツ沢については,証言がありますが久保山については,横浜市は「当時の資料は既に処分」してしまったし,証言も見つからず分かりません。
 
横浜の中心部では,川に放棄している証言が多く見られますが,この神奈川辺りの証言は,ほとんどありません。子安海岸に虐殺白骨がたどり着いたという事ならば,川や海に大量に投げ捨てたとしか考えられません。
 
やはり想像していたとおりでした。それを裏付ける証言もいくつか見つかりました。
 
「その頃,遠い親戚にあたる海軍の軍人から,横浜が大変という話を聞いたことがあります。横須賀から横浜に来てみたら,あの辺の東京湾には殺された朝鮮人の死骸が沢山浮かんでいて,死骸の上を歩いて渡れるくらい多くの朝鮮人が殺されていたと言う話でした」(大内力「埋火」)
 
海軍の軍人がハッキリと朝鮮人の死骸と言っているのです。虐殺された死骸は一目で分かったそうです。何とも言いようのない光景が目に浮かびます。
 
昨今,教科書や副読本から「朝鮮人虐殺」が消えようとしています。また,「虐殺」と言う言葉は,教育の現場にふさわしくないと言って,変えられようとしています。当時も事実を隠蔽し,歴史を捏造してきましたが,またその上をいく捏造をしようとしています。
 (後略)
画像:「やまと新聞」1924.2.10

https://blogs.yahoo.co.jp/honjyofag/66618337.html


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