思うこと

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「絶望の国の幸福な若者たち」 古市憲寿

2013年08月17日 22時05分47秒 | 日記

作者の古市憲寿は1985年生まれ、現在慶応大の研究員であり、まだ二十代の気鋭の社会学者である。

 この本のテーマはこの題名に集約されているのは間違いないが、極めて刺激的な評論であり、私達の固定観念をあっさりと打ち砕くような側面がある。
 さて「若者」については昔から、或いは最近でも色々論評されている。最近しばしば言われるのは無論若者「不幸論」である。世界的な経済不況、少子高齢化を軸に若者を〈不幸呼ばわり〉する言説には事欠かない。曰く「現在の若者達は絶対的就職難である」「非正規社員での雇用が一般化している」「ひどい格差の中にある」「年金はいずれ70歳ぐらいからになる」「二人で一人の高齢者を抱える必要がある」「引きこもり・パラサイトシングル・内向き志向」「新しい貧困層」……挙げればきりがない。さらにこれらの状況は悪化することこそあれ、改善の見込みはなかなか見い出せない。右肩上がりの高度成長期に比較すれば不幸の形容詞のオンパレードと言っても良い。〈可哀想な若者達…〉。そしてまた日本の若者達に対して、それに追い打ちをかけるような事もよく言われる。「こんな格差社会、こんな絶望的な状況にありながら少しも怒りの声を挙げない。大規模なデモもストライキも抗議の声もない…」。追い打ちは続く。アメリカではウォール街でついに若者達が大きな声を挙げた。99%の冨を1%の層が占有していると多くの若者が声を挙げた、大規模集会・大規模デモが繰り広げられている。そしてそれはWebを通じて全米・全世界に広がった。それなのに日本では大きな盛り上がりにならない(呼応がないわけでないが)。ヨーロッパでもアジアでも若者が声を挙げている。お隣の韓国でも…。話は大きくなって、エジプト・リビアなどでは若者のみならず一般大衆の不満がついに革命・政権交代にまで至った。それなのに日本の若者たちの大部分は大人しい…。ひどい言葉もある。日本の若者達は自分たちの置かれている状況を直視しようともせず、また考えてみようともせず(失礼な)、なんか身近な世界に閉じこもっている。こんなことではダメ!、怒れ若者よ!…といったようなものが、いささか紋切りすぎる言い方だったが、現在の若者たちに寄せられている言葉だろうか。で、結論は「今の若者は不幸」ということになる。
 そしてこうした論に対して作者の古市氏は現状は認めながらもそんな裁断の仕方をあっさりとひっくり返す。
 表題にもある通り、まず著者は「幸福な若者たち」と言い切ってしまう。これは何も作者が皮肉や逆説を述べているわけではない。また作者の主観からそう述べているわけではなく、実際の若者達に聞いた所、その社会調査で二十代の若者のうち、約七割が現在の生活に満足しており、今の生活を幸せだと感じているというデータに基づく。これは先に挙げた若者を取り巻く状況から考えれば少し不思議なことなのだが、作者はここから現代社会のあり方を考えていく。
 そしてここが作者の独自の視点なのだが、なぜ現在の若者が自分たちをそんなに幸福だと考えているのかを、作者は、それは彼等にとって将来、この社会が今より幸福になるとは到底思えず、いわば今後の状況にほとんど絶望しているからこそ、彼等は今・現在が幸福であると感じていると述べている。これはとてもユニークな論である。こうしたことを今までに述べた人を私は知らない。普通はもちろん逆だ。現在が困難であっても将来の夢や希望が信じられる時に人は幸せであり、多少の困難があろうと未来に向かって頑張れるが、将来がお先真っ暗ならば、人は絶望の淵に沈んで毎日不幸を感じるのが当然だと考えるからだ。しかし作者の先のように言う。ヒトは未来に絶望する時、イマを幸福に感じる…それは至言なのか妄言なのか。もちろん現在が飢餓と隣り合わせであったり、戦争の渦中であればそうはならないだろうが、今の日本ではこれが若者の姿であると著者は言う。
 冷静に考えれば作者の言葉は的を射ている。先に挙げたように若者を取り巻く状況は絶望と言わないにしても深刻な状況にあることは間違いない。しかし今の若者(だけではなく私達も含めてだが)の生活を振り返ってみれば、確かに何か生活を脅かすような深刻な事態があるだろうか。戦後高度成長期を突っ走ってきた日本、その達成が現在目の前に広がっている。物質文化に於いては(一般人の日常レベルに於いては)、日本は多分世界一だ。平和と高度消費社会を満喫しているのは違いない。賃金においては世界トップレベルであることは論を待たない。個人所得は中国の十倍ぐらいか。さしあたって何の不満があろう。世界最高品質のモノが手の届く範囲で周囲にゴマンとある。家電も車も食べ物も衣料品も…もうこれ以上の進化があまり考えられないぐらいのレベルに到達し(もちろん発達・発展の余地はある)、それも給与で「無理なく買える」範囲である。酷暑であろうが厳寒であろうが、ひとたび自宅へ帰ればエアコンが快適な環境を提供する。六畳一間のボロアパートであっても、エアコンをONにさえすれば世界のどのリゾート地より快適に違いない。しかも一年中だ。リモコンをひねればハイビジョンの薄型テレビが圧倒的に美しい画面を映し出す。ドラマでもバラエティでも今や内容はともかく、極められたテクニックはしばし目を釘付けにする。テレビのこちら側で私達は笑い、感動し、時には泣いたりする。食事はファストフードでもコンビニでも居酒屋でも、相当美味しい料理がディスカウントの競争でおよそ信じられないくらいの値段で味わえたりする。ユニクロで品質もデザインも超満足の衣料品が一杯買えたりする。人間の行為の中で、ある意味最も美しさから遠く、できれば忌避したい排泄の時間が快適なトイレで快適な時間となる。国内でも国外でも格安料金でツアーに参加出来る。ホテルも食事もそこそこ。とりたてて不満はない。パソコン・スマホで世界のニュースや情報が一瞬で見られ、買い物も旅の予約も商売もできる。検索も一瞬。ゲームも音楽も映画も思うがまま。趣味も勉強もできる。TwitterやFacebookでコミュニケーションを世界レベルに広げられる。自分のつまらない(失礼)つぶやきや、つまらない(失礼)日記に対して多くのコメントが寄せられる。私を励まし、私に共感してくれ、私を癒してくれる多くのコメント、多くの「イイネ」。私はその中で理解の確かな手応えを感じる。家族の中でも教室でも職場の仲間の中ででも得られない素敵な時間を私は手に入れることができる。ついでに出会系まで完備している。メールや通話はいうまでもない。衣食住、趣味・教養のレベルまでどこに不満があろうか、今以上のものをどこに得られようか。これが今という時代だ。
 違う角度から見てみよう。
 最近我がクラスである新聞記事について感想を書かせてみた。日本の豊かさは世界で12位であるという記事を読んでの感想である。因みにトップはノルウェー、2位はオーストラリア、3位は米国である。「日本は豊かだと思いますか?」というこちらの問いかけに対しては、もちろん圧倒的に多くの生徒が「豊かであると思う」と答えている。例えばこんな意見。「私は日本は豊かだと思います。私がそう思う理由の一つは他の国に比べてすぐに水を得ることができるし、コンビニエンスストアなど24時間営業のスーパーだってありますし、非常に生活しやすい環境だと思います。ただあまりにも生活しやすいため、水や食べ物の大切さを忘れてしまいがちではないかと思います。また日本の税金などの見直しは必要ではないかと思います。まだまだ日本に不安な所がありますが、これからの挑戦を期待します。」
 こうした意見に代表される。経済的にも物質的にも、平和の面でも安全の面でも日本は豊かであると答えている。クラスの感想を聞いて、まず思ったのは、変なことだが、他国に比して、日本の豊かでない点を見出すのに結構生徒は苦労している?のではないかということだ。昔からこの手のアンケートは多くあり、日本は物質的には恵まれているけれど、ウサギ小屋と称された狭い住宅や福祉関係などでまだまだ貧しいと答えるのが一つのパターンであった。今でもそういう答えはないわけではないが、生徒の感想を読んで思ったのは、日本の豊かでない点を見出すのがなかなか難しいというような一種の「戸惑い」である。肯定一辺倒ではもちろんない。先に挙げた不安要素を指摘する声は少なくない。景気の悪さや就職率の低さ、年金や環境など通例一般のものは挙げているのだが、さてこれらが日本固有のものであるかといえば、どうもそうも言えない。経済状況で言えばもちろん周知のようにEUのギリシアは破綻寸前だし、イタリアも危機的状況だ。米国だって苦しんでいる。現在圧倒的に勢いのある中国やインドやブラジルはどうかと言えば、誰が考えてもこの経済発展が未来永劫続くとはまず思えない。日本も厳しいが他国も似たような状況だ。不安要素として、自殺や虐待などを挙げた人もいたが、なんか無理矢理見出している感がないわけでもなかった。こうした回答は昔はあまりなかったと思われる。さらにノルウェーやオーストラリアなどが上位に来る理由がわからないと正直に答えた生徒もいた。高福祉の北欧諸国、豊かな自然で広大なオーストラリアというイメージが従来からあるが、一昔前なら日本と比較して豊かさの象徴であったこうした国にも大きな魅力を感じないような「豊かさ」の再定義認識、これは新しい感性ではなかろうか。まだまだアメリカ・北欧諸国の神通力が消えたわけではないが、昔と同様の捉え方をしていないような若者が出現しているように感じた。
 また違う例だが、少し前ある学園の中堅教師からこんな話を聞いたことがある。その教師がある時学園の若手教師をつかまえて、色々聞いた所(とある目的で…不満とかないのとか…)、その学園に入って1~2年目の若手男性教員はいみじくも言ったそうである。「なーんも不満はありません。仕事は楽しいし、忙しいですが、教科指導やクラブ指導、クラスの生徒との関わりも楽しい。給料とか特に不満もないです。悩みなんか特にないです」と。全ての教員がそうだという気は全くないが、この返事は今の若手の状況をよく表しているのではないか。やんちゃで指導困難な生徒は少なくないし、苦労は多いが、それと同じぐらい可愛い生徒もいる。クラブでものすごく忙しいがそれに見合う確かな充実感とやりがい、手応えを感じる。気の合う同僚も居る。職場環境が最高でないにしても苛酷なノルマを課せられたり、自らの仕事ぶりに対して叱責や罵倒が日常茶飯事ということもない。クラス運営ではそもそも教師は一国の主であり、主体性を発揮するのには最も適した場所である。給与も少なくとも世間水準を下回っていることはない。多少の苦労はあっても取り立てて「なーんも不満はない」ということになる。
 さてこれらに対する反論は多いだろうと思う。例えば格差について、新しい貧困についてである。「派遣や期限付き非正規雇用が多くて正社員にもなれない雇用状況でどこが幸福なのか?」しかし、若者にとって、二十代ならば、正規雇用と非正規雇用の賃金格差はさほどない。「将来の年金の危機的状況はどうする?」「日本の経済は将来的に危い、ギリシアは他人事ではない」「このまま少子高齢化が進めば…」「政治の沈滞、地方の衰退…」。金融も工業も農業も医療も何もかも厳しい状況にある。これらを今後どう切り開いていくのだ?
 若者達はもちろんバカではない。経済状況や少子高齢化の危機も十分知悉している、自分たちの置かれている立場や将来的な不利益性もよく認識している。しかしさしあたって年金のことを言われてもピンと来ないのもまた当然だ。そんな40年後50年後のことを誰が真摯に考えられようか。「今から考えておかないと大変だぞ」ともっともらしく忠告する中高年の男性は考えてみればいいのだ。自分が二十代の時どうであったか。わたしなんか自慢じゃないが「国民年金」と「厚生年金」の違いすら知らなかった…。考えたこともなかった。日本の経済も世界の経済も平和も環境も、ともかく自分自身に密接に関わりのあること以外は興味の外、関心の外であった。
 確かに当時私達は未来をそう悲観的には考えていなかった。発展という概念は絶対的であった。だから幸せであったか?今の若者達は未来がかなり深刻であることを十分認識している。それが分からないほどバカな若者はそうは多くない。だから不幸か?生活レベルで言えばはるかに今の若者の方が裕福だ。比べるまでもない。私達の時代に夢・憧れであったことのかなり多くは今予想を超えた形で実現し、それを日常生活レベルで駆使できているのが現在の若者達の一つの生活だ。
 作者も言うが、「昔は良かったか?」。ALWAYS三丁目の世界は夢と希望に溢れていたか?そんなことはない。ノスタルジアに覆われた真実に目を瞑ってはならないのは作者の言う通りだ。自分は農家の出身だからある意味よくわかるのだが、私達の少年・若者時代はもちろん戦争や飢餓に脅かされていたわけではなかったがひたすら貧しかった。作者の言葉を借りれば「貧しくて不潔だった」。小学校低学年時代、村にテレビは一台もなかった。テレビどころか、蠅を追い払いながらの食事や、殺虫剤で押し寄せる蚊を退治し、蚊帳の中での就寝。くみ取り式の便所は悪臭を放つ。ウォシュレットどころか、トイレットペーパーと称するものすらない。厳寒の冬は手が皹やあかぎれで血が出る。足は霜焼けでぱんぱんに赤黒く腫れ上がる。食事も服装も貧しいものだった。少し貧しい友達の家は小屋のようで倒れそうだった。家の中には雑多なガラクタ(大変失礼)が散乱していた。ある家は風呂場もなく、土間に風呂釜が置いてあるだけだった。学校では手足がちぎれそうな冷たいバケツの水で雑巾をすすいで教室の床を拭いた。これが昭和二十年代・三十年代の田舎の農村の風景である。
 あの頃は夢があったという時、私達はその不潔さを忘れているかのようだ。この時代に戻ると言うことはその不潔さの中で生きることを選択することだ。今とその当時とどちらが豊かで幸せか?二者選択にすらなり得ないのが本当だ。
 さてそうした中での現在の若者がいる。日本の将来を見通した時、客観的に判断して明るい材料はあまりない。いわば絶望だ。若者達はシャープに現実を見ている。未来の絶望はほとんど既定事実だ。だからこそ今の生活を重視し、とりあえず不満な状況にはないのでそれを幸福と感じる。
 若者は怒りの声をあげないのか。そんなことはない。やはり作者が言うように反貧困デモや反格差デモに出かける若者は少なくない。近くでは反原発デモに参加した若者は少なくなく、また震災ボランティアに行く若者も多い。TwitterやFacebookに今の世の中の問題や不満を述べる人は多い。現実の行動に移す人も少なくない。作者はこうした集会やデモに参加している若者の声も聞いている。右翼的だろうが左翼的であろうが彼等は真摯に何かを求めている。作者はそれを「ムラムラした気持ち」と言う。それを持つ若者は多い。しかし作者は次のようにも指摘する。そうした運動への興味や関心(=高い問題意識)を抱き、また参加し、実践する者は決して少なくなく、そこで彼等は自らを確認したり、他者から承認されたりする一定の充実感・達成感を抱く。あるいは他者との連帯を実感したりする。しかしそうした〈非日常〉はやがて〈日常化〉し、それが一種のサークル・居場所的になってしまうという。その時社会的に拡大していく方向性や契機は消失していくと作者は言う。従って巨大な運動や潮流にならないと言う。
 著者はそうした若者の姿をとりあえず肯定している。それでいいではないかと。承認され得るべき「場」をとりあえず確保できていればそれでいいではないかと言う。
 いたずらに若者を批判する大人達にはいい薬になるに違いない。作者の認識はとても正しいものだと思う。「絶望の国の幸福な若者たち」という題名になる所以だ。
 しかし朝日新聞でこの本を評した北大の中島岳志も言うように
「…現実には仲間がいるのに孤独や不全感を抱える若者も多い。賛否が分かれるであろう論争的な一冊だ。」という気持ちが私もする。深刻な懸念は遅かれ早かれ現実化する。それはそう遠い未来ではない。その時若者(もちろん私達も)どうすべきなのか。今のままでいいのか。
 そして米国やヨーロッパ・中国や韓国の若者達の分析も併せて聞いてみたい気がする。
 ともかく若者にも中高年にも必須の一冊だ


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