弱い文明

「弱い文明」HPと連動するブログです。 by レイランダー

共感できる「がんばれニッポン」

2011年07月18日 | 原発 3.11 フクシマ
 サッカーの女子日本代表がワールド・カップで優勝という快挙を成し遂げた。よかったなあ、と心から思う。というのも、男子サッカーに比べて、女子サッカーは代表クラスの動向はかろうじて報じられるくらいで、プロ・スポーツとしての基盤である「なでしこリーグ」としては、盛り上がりに欠けまくっているからだ(実際プロ・リーグとして成立するまでに至らず、事実上セミ・プロだと聞いている)。
 僕個人としても、なでしこリーグの試合をお金払って観に行こうという気はまったく起きない。正直、男子サッカーに比べて、テンポも遅いし迫力もない。バレーやバスケのような屋内スポーツに比べて、グラウンド全面を使うような屋外団体競技では、男と女ではスペクタクルという点でどうしたって差が大きい、それは仕方ないんじゃないかなあ、と思ってしまう。
 それでも、今回の女子代表の快挙によって、女子サッカーを結構楽しいじゃないかと見直す人は、意外と出てくるのかもしれない。また何より小さな女の子たちが、代表選手たちに憧れてサッカーを始めることで、競技人口が今まで以上に増え、裾野が広がれば、将来の層が厚くなる。そういう風に、今回の成功をうまくつなげてほしいな、と思うのである。

 ともあれ、大会MVPの澤選手をはじめ、この代表選手たちの中には、「食えない」なでしこリーグで会社員をやりながら練習に汗したり、注目されぬまま海外のリーグへ単身武者修行に出るなど、マスコミの伝えないような、日の当たらない場所で苦労をしてきた人たちが多い。代表の基礎を作った、彼女達の先輩選手たちはなおさら、だろう(もちろん、他のスポーツでもそういう選手は多いし、「苦労」できることそのものが素晴らしい人生経験なのだけど)。この快挙はそうした彼女たち、スタッフ達の苦労が実を結んだという意味があるからこそ、ほんとうに重みのある、祝福されるべき大金星だと僕は感じる。

 さて、一方でマスコミとそれに踊らされる、自覚なきニュース・イベント消費者たる国民の方は、相変わらずの浅い浅い、子ども用プールでの大騒ぎである(どうせすぐ終わるけど)。
 トーナメントでドイツを破ったあたりから始まったこの騒ぎに、違和感を感じるシートンさんがそれを書けば、そのシートンさんに違和感を感じる者たちの脊髄反射コメントがたちまち100を越えてほとばしる。この有様そのものが、シートンさんの違和感の正しさを裏付けていると、少なくとも僕には見えるけれど、そういう僕も世間でいえば救いようのない、ひねくれた少数派ということになろう。全然オッケーだけど──まあ、僕はシートンさんみたいに度量が大きくないから、「多数派」のバカコメントなど、一切相手するつもりも、表示してやるつもりもないけど。

 [雑記]「なでしこジャパン!」にウンザリ

 僕はまた、シートンさんとは少し違う視点から、この毎度毎度の「日本代表」祭りの幼稚さの根元にある問題について、ホームページの方で書いたことがある。日本代表を「誇り」にするなという文章で、もう5年前、世間が「ジーコ・ジャパンでベスト8確実」などと浮かれていた時に、ばかじゃねえの、と思って書いたのだった。ナショナリズム云々とか政治的なことを述べているようで、実はそんな話ではない。非常に単純なことで、人は自分の頑張ったことを誇りにすべきで、人がやったことを誇りに思うのはおかしいよね、というだけの話である(と、自分ではそのつもりである)。今も、特に考えは変わっていない。



 4月の終わり頃、東中野のポレポレ座で「25年めのチェルノブイリ」と題された特集上映の企画を観に行った。その期間中、同じ建物の1Fの喫茶スペースで、故・貝原浩の絵画展「ぼくの見たチェルノブイリ」というのをやっていた。
 僕は貝原さんのことは、本の挿絵などでおなじみのイラストレイターとして認識していて、いわゆる「画家」としての活動などほとんど知らなかった。ここでは、人を食ったような、ユーモラスで軽妙な本の挿絵とはかなり違うタッチの絵、特に「風しもの村」という画集の和紙に描いた原画がメインで展示されていて、ええーっ、あの人こんな絵も描いてたのか、としばし呆然とさせられたのである。
 「風しもの村」は事故から6年後の1992年、チェルノブイリ風下のチェチェルスクという村を訪れた際のスケッチを中心にまとめた画集だという。貝原さん特有の、人物の「目」が突き刺さるような絵とともに、いくつかメモ、コメントのようなものが書き込まれている。
 その中に、事故を起こした4号機の「石棺」のスケッチもあった。そしてその絵の左上に書かれていた貝原さんのコメントが、個人的に、忘れがたいものだったのである。その文章をせっかく書き留めた紙がどこかに行ってしまっているのだけど、記憶を元に書き起こすと、こんな口調、内容だった。
 …今、進行する核汚染を食い止めることができなければ、我々の享受している一切の「文明」なぞ、なんの意味があろう。オリンピックの応援などに声を枯らすな!知恵を出せ!金を出せ!がんばれニッポン!

 それは、眼前に実物の「チェルノブイリ」を観ている、貝原さんの心の衝撃(あえぎ)・躍動をそのままに伝える言葉だった。そして僕は、すでに日本中が「復興」に向けた「がんばれ」の声に占拠されていたなかにあって、はじめて腑に落ちる、共感できる「がんばれニッポン」に出会った思いがした。と同時に、それを描いた(書いた)貝原さんが生きていて、3.11を迎えてしまったなら、どれほど打ちのめされたことだろう、と想像せずにはいられなかった。

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2 コメント

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突然のフィーバーに困惑 (tokoro)
2011-07-19 18:54:54
流石反応が早いですね。

私も優勝の次の日からのフィーバーぶりには違和感を覚えました。
盛り上がるのは勿論結構なことです。
でもそこから妙に教訓めいたことを引き出そうとしている。
結果を残したのだから、素直に賞賛すれば良いんですよ。
それが「選手の能力を引き出した監督の手腕」だとか「努力することが大事」だとか「被災地に力を与えました」だとか・・・。
なんでそういう手垢の付いた表現したできないのか、マスコミさん、わかりません。

他方選手や監督やサッカー協会の理事といった人達は随分冷静な反応をしてました。
会見でオリンピック予選の話とかしてましたし。

私は、澤選手の「結果を残すことが大事」っていう発言は女子サッカーだけでなくて、日本におけるスポーツの悲哀と受け取ってます。
スポーツを日常において楽しむっていう環境・文化がない。
だから高い金を出して観に行くものか、あるいは自己満足として代表を応援するかということでしかスポーツを楽しめない。
シートンさんところのコメントなんて見ているとむしろファンの民度の低さが如実に表れているとしか言いようがありません。

日本代表に対するある種の俄かファンによる自己陶酔というのは、自己を取り巻く環境への不満とか自身に対する自信のなさとかが投影されているものなんだろうなと思います。
だから結果を残せば賞賛するけれど、結果を残せなければ罵倒するか無視する。
あるいは思ったような結果が残せなければ他人(主にルールや審判)のせいにする。
スキージャンプとかノルディックスキーとか典型的ですよね。
ヨーロッパに対して優位性を保ってきたのをルール変更でひっくり返された。
もちろんルール変更はフェアではなかったかもしれませんが、それに対応する努力も怠ってきたことは否めません。
ところがマスコミも俄かファンも10年以上経っても相変わらずルール変更のことを言い立てる。
あるいはバンクーバー五輪の女子フィギュアなんかも好い例かもしれません。
決められたルールの中でフェアな勝負をしてキム・ヨナ選手に負けたことを受け入れられない。
真央ちゃんが負けたのは審判が悪い、ルールが悪い・・・。
韓国人に日本人が劣るなんて認められない・・・。
そんな考えばかりしてるんでしょうね。
でもスポーツなんて個人の能力の問題であって国のレベルがダイレクトに反映されるわけじゃない。
ルールの中ではキム・ヨナ選手が勝っただけで真央ちゃんが劣っているわけでもない。
銀メダルだって十分賞賛に値するものだと思うんですけれどね。
自分たちの言っていることが選手や競技に対する冒涜であることがわからないなんてどんだけレベルが低いんだか・・・。

自分の思い描いた結果以外は認めないというのは、そもそもスポーツに対するこの国の教育や文化が間違っているとしか考えられません。
ルールや審判に文句を言うことがどんなに恥ずかしいことかっていうのがわかってない。
自らがスポーツと関わってルールや審判との関係を学ぶというのが基本にあるべきですが、
どうも学校の体育や部活動からして結果を追い求める方向にあるような気がします。
それを国や企業レベルで相変わらず続けているのが日本のスポーツを取り巻く現状でしょう。
なんか観客としてしか関われないというのが日本の政治と似てますね。

おっと、ついついヒートアップして関係のないこと口走ってしまったかも。

貝原さんの言葉には私も共感しました。
でも世の中はどうも方向性が狂っているような気がするんですよね。
フクシマにいたときも反原発運動は復興の妨げになると随分言われましたし。
しかし事故は終息もしていないし、原発をどうしていくかという議論の決着も付いていないのに復興に向けて頑張ろうなんてどの口が言えるのでしょうね。
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>tokoroさん (レイランダー)
2011-07-20 03:38:26
優勝のニュースといつものマスコミの過熱報道だけなら、別でここで書こうとは思わなかったでしょう。シートンさんの記事と、そこにぶら下がるコメントの落差に唖然として(それも今さらですが)、エンジンかかっちゃった感じです。

おっしゃるとおり、これは僕もそれほど昔から認識してたわけじゃないけれど、日本における「スポーツ」文化の、「結果」への偏り方の問題っていうのが、一方ではありますね。そりゃ、プロは結果で収入が変わってくるわけだから、よりよい結果に向けて頑張るのは当たり前ですが、広くスポーツのファンの楽しみ方って、必ずしもそんなプロの上昇志向に付き合う必要はないわけで。
まだしも国内のスポーツだと、単に結果をどうこう言うだけじゃない、個人個人の楽しみの視点っていうのがちゃんと生きてると思いますが、なぜか「国」対抗になると、途端に視野が狭くなる。普通、国際レベルになるんだから、より楽しみの要素が増えて、観てる方の視野も広がるべきなのに、「日本」の成績・結果が圧倒的に中心に居座って、スポーツ番組はおろか、報道全般が「結果」に目を奪われ、中身を味わうことを忘れる。
これが、独立したばかりの貧しい小国だったりしたら、わからないでもない現象だと思うんですが…まだ東京オリンピックの頃の「一等国になりたい!なりたいなりたい!」というメンタリティから成長していないのか。しつこくオリンピック誘致してる都知事もいるし…。
まあ、今の放射能どうにかしないと、東京開催なんて無理でしょうけど。

しかし、あらためて自分の書いたものを読み返してふと気がついたんですが。
日本の女子サッカーが、よほどマイナーで不遇なのに優勝したからすごい・めでたいみたいに書いちゃいましたが、よく考えたら、そんな代表が優勝できてしまう大会って何なの?っていう見方もあるわけで。これは決してなでしこをけなすつもりで言っているわけじゃなく、冷静に大会の中身を吟味すれば、それほどレベルの高い大会ではなかった可能性もあるんじゃないか。少なくともスポーツ・ジャーナリストと言われる人たちなら、そのへんをきちんと分析した記事を書くべきだろうと思います。
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