弱い文明

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森は誰のものか~淵の森会談・追記2

2007年08月21日 | 環境と文明
 森のことを一番熟知し、一番愛情をもってたずさわっている人こそが森の「持ち主」にふさわしいという「仮の」前提の、その前にあるもっと重要な前提は、我々が普通に経済活動し・普通に暮らしている(とされている)現代社会においては、絶えず陰になって見えにくい場所に置き忘れ、放置される傾向にある。時折誰かがそれを日の当たるところに持ってくると、ずいぶん突拍子のないものに見えることもある。それをまた日陰に置き忘れ直す人は、だけどほとんどその自覚なしにやっている。
 たとえば、産経新聞(Web版)の記事には、そんなややこしい一連の作用・反作用が同居しているように僕には見えた。以下の部分である。
 渡部市長と面会した宮崎さんは「長らく人の手が入っていなかった土地で、開発計画は精神的に土足で踏み込まれる気持ちだ。市にはありとあらゆる可能性を探ってほしい」と公有地化を進めるよう改めて要望した。(下線はレイランダー)
 確かにこの箇所は、僕も聴いていてインパクトがあったのだけど、これでは氏の言いたいニュアンスや、ここでの文脈が伝わってこない。決して揚げ足取りをしたいわけではなく、これが新聞のベタ記事というやつの宿命なんだろうとも思うのだが、少なくともここには「思想」が見えない。この産経の記者も、おそらく僕同様、この発言の部分にハッとしたに違いない。それははからずも、宮崎駿の「思想」がそこで我慢できずに顔を出したからだ。だからこの部分をあえて記事に盛り込んだのだろうに、この薄味のまとめ方では、残念ながら「思想」が伝わらない。公有地化が暗礁に乗り上げた大雑把な経緯をつかんだ上で、この記事を読んだ人でも、
○「手つかずの自然」の土地に業者が入ってきたから
○当該緑地の「所有権」は、公有地化の合意を取り付けた保全運動側にあるはずだから
そのどちらか(または両方)だから「土足で踏み込まれる気持ち」と訴えているように、おそらくは感じるのではないか。
 だが、その場で聴いていた僕の記憶では(セリフは完全に正確ではないが)、氏はこういう具合のことを語ったのである。

「資本主義である以上、土地に持ち主がいるってことは、まあ仕方ないです。だけどこっちの立場として、より根本的なことを言わせてもらえば、森は誰のものでもない、人間のものなんかじゃないんだというのがまずある。そこを頭から無視されて、いくらなら売るとか、誰が買うとか買わないとかの話をされると、心の中を土足で踏み荒らされたような気持ちになる・・・・」

 だって元々そういう思いを汲んでくれた上で、あの日(6月19日)東村山の市長室で「公有地化合意」を決めてくれたはずですよね、そうでしょう市長?そういう話だったでしょう、あの日の会談は?というニュアンスが、氏の口調や目線からもほとばしっていた。対する渡部市長はと言えば、「まあなにぶんね、金額の隔たりがね、どうにかしないと・・・」というような筋違いのことをゴニョゴニョとくり返すばかりで、能面のような無表情も終始変わらないのだった。

 誰のものでもない森、という考えは理想論だろうか?ナイーヴなエコロジストの世迷言だろうか?
 そうではない。誰のものでもない土地という観念は、しっかり現在の社会に根付いている。それは「公有地」「公共空間」という発想の基本なのだ。
 何度も言うようだが、買おうと思えば宮崎氏は一人で買える。しかしそれで「緑地が守られた」、「理解ある人の土地になったんだからもう大丈夫」、よかったよかった、ではないのである。何より、宮崎氏自身がそんな考え方をしていないのだ。

 『もののけ姫』を思い出してほしい。首を失って暴れまわるシシ神に、アシタカとサンは、ジコ坊から奪い返したその首を返そうとする。そんなもの捨ててお前らも逃げろ、と言われながら、アシタカは「人の手で返したいんだ!」と言い返し、首を掲げさし出す。
 首が戻ったシシ神は森に倒れ込み、平穏が戻る。だがそこはもうかつての原生林・シシ神の森ではない。牙を抜かれ、人に生殺与奪権を奪われた森だ。シシ神は死んだのだ。

 今僕らの周りにある森は、すべてがこういった森だろう。唯一人間にとってブレーキになっているのは、すべてを切り刻み尽くしてしまったら、自分達も生きていけなくなるという一抹の認識だけだ。
 だから人間は、こうした必要かくべからざるものを「誰のものでもない」と捉え直す・学び直す必要に直面した。その結果、「公有」という知恵をここに適用することにした。「公有」とは、「誰のものでもない」状態を、国なり地方公共団体なりが有するという形で行政上の肩代わりをしている状態であって、本当に国や役所のお偉いさんが「所有」しているわけではないことは言うまでもない。
 この古くもあり新しくもある知恵を捨てて、売り買いの論理(というより没論理)にすべてを委ねてしまったら、最後には自分で自分の首を絞めることになるだろう。
 森の保全とは、「人間の手で」シシ神の首を返すこと、なのだ。人間の手が入る以上、そこにもはやシシ神はいない。けれど、手を引っ込めてしまえば、別の手──市場の手、という魔手が伸びてくる。だから引っ込めるわけにはいかない、というのはジレンマでもあり、シシ神を殺してしまった人間の背負う原罪でもある。だけど、それは同時に人間の精神的価値、財産にもなる。「公有」という概念に命を吹き込んでくれるだけでも。

 淵の森の話というのは本来ごくローカルな問題で、たまたま宮崎駿という有名人が絡んでいることで、ちょっとした騒ぎになっているようにも見えるが、その実、ネオ・リベラリズムのグローバリゼーション~公共スペースの縮小という波の一端が、ここにも押し寄せてきたという解釈も成り立つかも知れない。だからなんだと言われても困るが、少なくとも僕にとっては「公有」の意味を学び直す、貴重なテキストにはなっているのである。

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2 コメント

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宮崎駿はクソジジイだ (ころすけ)
2009-06-20 04:26:01
『となりのトトロ』や『魔女の宅急便』などの作風から駿をやさしいおじいさんと思っている方もおられようが、はっきりいってかなりクセのあるクソジジイだ。
知らない人のためについでに書いておくと、『千と千尋の神隠し』なんかもあれ、実は性風俗のお話なのだ。
あの映画を観て勘のいい人は直ぐに気づいたと思うが、だらしない親(まぁ、借金でも背負ったのでしょう。作中では食べちゃいけないものをたべて豚になる)のために「人とちゃんと挨拶ができないような女の子」が頑張って性風俗産業で働いて成長するという隠喩になっている。
湯屋とはつまり娼館(いまの言葉ではソープランド)で、千尋が千になるのも源氏名だから。
お客が男の神様ばかりだったことについても、もはや説明の必要はないだろう。
宮崎駿自身はなぜ風俗産業をモチーフにしたかについて
「今の世界として描くには何がいちばんふさわしいかと言えば、それは風俗産業だと思うんですよ。日本はすべて風俗産業みたいな社会になってるじゃないですか」(日本版『プレミア』の2001年6月21日号)
と語っている。

やはり、宮崎駿はクソジジと云わねばならない。
そして、そういうクソジジイだからこそ多くの人を惹きつける作品を作り出すことができるのだと私は思っている。

面白い! (レイランダー)
2009-06-20 10:12:57
古い記事まで目を通してくれてありがとう。

フーゾクの話として読めるとは、今の今まで気づきませんでした。なるほど。
あらためてあのクソジジイが好きになりますね(笑)。

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