弱い文明

「弱い文明」HPと連動するブログです。 by レイランダー

『OUT OF PLACE』

2006年11月23日 | パレスチナ/イスラエル
 11月も終わりに近く、街角には早くもクリスマス商戦の広告・キャンペーンが目につき始めている。
 もうそろそろすると、いわゆるクリスマス・ソングの他に、山下達郎の「クリスマス・イヴ」とワム!の「ラスト・クリスマス」、それにジョン・レノンの「ハッピー・クリスマス」が繁華街を占領する。だが僕の心を占領し始めるのは、むしろ日本のロック・シンガー、SION(今はどうしてるのだろう?)の「12月」という曲だ。今は音源が手元にないので正確ではないかもしれないが、サビはこんな歌詞だった。

 12月 街は クリスマス気分
 あちこちから 思い出したように ジョンの声
 俺はといえば いつも この頃になると
 何か やり残したような 甘い後悔をする
 12月──


 甘い後悔は自業自得だとして、近年は特にこの頃になると、もう一つの思いが心の中でうずき始めるようになった。
 近年、というのは具体的には2003年秋、エドワード・サイードが世を去ってからである。
 僕が解説するまでもなく、『オリエンタリズム』その他の著書で知られるエドワード・サイードは、パレスチナはエルサレム出身・米国籍の著述家である。彼と「クリスマス」の間に特に深いつながりはない。なるほど彼は一族が英国国教会に属するキリスト教徒だったが、敬虔な信者だったというわけではない(むしろ一種の無神論者だったと記憶している)。
 なのになぜ、この頃になるとサイードを沈痛な気持ちで思い出すのか。それは簡単に言ってしまえば、「パレスチナ問題」というものがこの世にあるせいだ。

 キリスト教徒ではない多くの日本人にとって、クリスマスとは単なるイベント・お祭りだ。別にそれでもいいと思う。
 ただ一つだけ、どうせクリスマスを祝う気持ちがあるなら、そのうちの少しでいいから、キリストの生まれ育った「聖地」のことにも思いを馳せてほしい。そう言いたくなる。キリストは(ローマ占領下ではあったが)パレスチナ生まれパレスチナ育ちの「パレスチナ人」だった。
 キリストが十字架を背負ってゴルゴダの丘まで引っ立てられて行った道、ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)の脇には、今もパレスチナ人が多く住む(旧市街の只中にある)。キリストが死刑判決を受けた裁きの場は、現在は小学校の校庭だそうである。

 パレスチナでは今日も、キリストの子孫たちが弾圧の憂き目に会っている。その地に生まれたパレスチナ人であるというだけで、小さな子供たちまでもが十字架を背負わされている。誰が、何のために、背負わせたのだろうか?
 この子供たち、一人一人が現代のキリストである。サイードがそう書いた、というわけではない。でもなぜか、僕の心の中では、はるか昔に殺されたG・カナファーニーや、エドワード・サイードのようなパレスチナの才人たちの面影に、石つぶてをもってイスラエルの戦車に挑むパレスチナの少年たちの面影がだぶるようになってしまった。特に、サイードが逝ってしまった時の空虚感が、変わらず押し寄せる日本の「クリスマス」の非現実感が、その想いを僕の中に深く焼き付けるように作用したのかもしれない。

 「サイードの記憶を辿る」佐藤真監督の映画『OUT OF PLACE』が11月25日(土)より年末まで、東中野ポレポレで上映される。詳しくはこちら。イベント&上映スケジュールのページには、各地の上映予定も記されている。週末には上映時間の合間を縫って、トーク・イベントも予定されている。同じポレポレで観た『ルート181』との比較もできると思うので、僕も逃さず行きたい。
 ただ国内では会期末(12/15)まで、国会情勢も気がかりだ。こっちはこっちで日本の子供に十字架を背負わせようという「ユダヤの祭司」達の活動が活発なのである。仕事関係も忙しくなりそうだし、どうなることやら・・・・。 


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3 コメント

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Unknown (おにやんま)
2006-11-23 20:21:51
僕も今年初めに『オリエンタリズム』を読みました。知が権力と結びついていく言説を、これでもかと言わんばかりに提示していく姿は、彼がどれだけパレスティナでの悲しみをいつも背負っていたかということの表れでしたね。僕もパレスティナ問題が報道される度に、死に臨んでのサイードの失意やいかばかりだったかと思わずにおれません。

ガッサン・カナファーニーを読んだ人と言葉を交わすのは初めてです。「路傍の菓子パン」を読んだ時、どんな嘆願も無視されて殺されていく土地で生まれ育った子供たちに対して、「平和を!」だとか「テロは許されない!」なんて、簡単には言えないことだと思いました。戦争をありありとした日常として育った子供たちを、僕らが理解することは不可能だと絶望的になりました。

ワムもシオンというバンドも知らないのですが、個人的にクリスマスと言えば、ホワイト・クリスマスです。作曲者のIrving Berlinとうい人が幼い娘を亡くしたのを契機に書いた曲のようです。不正確な情報なんですが、そんなことを昔テレビの海外ドキュメンタリーでやっていました。だからこの曲の夢心地のようなメロディーは、もういない人間を思っているのか、楽しいような悲しいような曲ですね。ちなみに僕はThe Driftersのバージョンしかしりません。ではまた。
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「路傍の菓子パン」 (レイランダー)
2006-11-24 13:50:43
サイードはともかく、カナファーニーはこの地域に関心を持っている人以外に知られていませんね。逆に言うと、「そっち方面」の人ならほぼ誰でも(名前とプロフィールくらいは)知ってるでしょう。

「路傍の菓子パン」は、僕も最初に読んだ時はヒリヒリするようなショックを味わったけど、今にして思えば、決して絶望するような内容ではないと思います。いくら大人達が「パレスチナ問題」に振り回され頭を痛めていても、パレスチナの悪ガキはそんな大人達をだまくらかして生きていく。そのしたたかさというか、ふてふてぶしさの中に、人間の世界の普遍的な希望を見出す(また大げさな言い方になってしまった…)というのが、あの話の狙いではないでしょうか。
 むしろそういうしたたかさを持てないままに飼い慣らされている日本の子供たちの方がよほど絶望的ではないか・・・・近頃は特にそう思います。

 そう言えば児童文学者の灰谷健次郎さんが亡くなったのですね。すごく昔に読んだんで、どんなストーリーだったかは憶えてないけど、『兎の眼』か『太陽の子』のどっちかに、「路傍の菓子パン」の少年に似た、虚言で大人達を振り回す孤児の少年みたいのが出てきたような・・・・(違ったかな?)。
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Unknown (おにや)
2006-11-24 21:52:34
なるほど。戦争という荒廃した現実を土台として育っている子供たちを憐憫の眼差しで見るという僕の態度は、おめでたいことかもしれない。戦争や盗みの横行する世界を「偽りの仮称の世界」として認識するのは保留して、それを現実として生きている子供たちの逞しさを描いていたのかもしれませんね。もう一度読み直してみます。

灰谷さんの作品は読んだことがないので、読んでみるつもりです。では。
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