この映画を観るにあたって、僕はニュートラルな気持ちではなく、相当に厳しい、つけられるだけの難癖をつけてやろうという気持ちで臨んだ。その結果、何か予期しないものが胸にこぼれ落ちてくるのなら、それだけ持って帰ろうと思っていた。
実際に観てみると、なるほどこれは美しい映画だった。ある種、宮崎監督にしか作れない美しい映画だと言っていい。けれど同時に、この美しさなら、「もういい」とも感じた。美しいものをあえて突っぱねてそう言うのではなく、自然に、どうしようもなく、「もういい」と感じてしまった。
この美しさなら、もういい。まして「千と千尋」や「ポニョ」で、見た事もないような新次元の美しさに引き合せてくれた宮崎アニメにして、今さらこれならば。
胸にこぼれ落ちてくるもの、はあった。それは主人公二人の愛の物語である。だがそれですら、恋愛の諸相を描き切っているわけではないというイチャモンは別にして、この映画の中でそれが果たしている役割に思い馳せる時、「もういい」と思ってしまう。彼女が彼を支え、彼の夢である航空機の完成を支えた、という役割。しかしその完成によって、どれだけの多くの人間が死地に赴き、どれだけ多くの「敵」の人間を死なせたのか。
「もののけ姫」では愛の物語が、シシ神と人間とを調停する力につながっていった。「ハウル」では愛の物語が、魔力による代理戦争に対する非戦のレジスタンスへとつながっていった。しかし「風立ちぬ」でのそれは、ゼロ戦という兵器の誕生を称揚し・美化する流れにつながっている。作者がいかにそれを否定しようと、それはそうなっている。主人公・堀越二郎の薄命の妻の献身が、ゼロ戦誕生を支えた、という形で。その時「生きねば」という映画のコピーは、そのまま戦争への消極的「参加」へとつながってしまっている。
この時代、彼らの愛の背後に、どれだけの報われぬ愛の物語があっただろう。いや「背後に」というよりも、それが押し潰され報われずに終わったのは、まさにゼロ戦が活躍を見込まれ、実際に活躍したからこそ、という因果関係だって当然あるのだ。そこまで考えなければ、歴史の「悲しみ」など、わかったことにならないだろう。
さらに「もののけ姫」や「ハウル」と違うのは、「敵」が描かれないことである。「敵」が何者だったかは歴然としているのに、それが描かれないということが──今さらながらの「日本人の物語」でしかないということが、僕を滅入らせる。
「風立ちぬ」公式サイトには、監督のこんなメッセージが掲載されている。
言いたいことはわかる。だが、こちらも言わせてもらえば、夢とその代償が本人の人生の中で完結するように描かれるだけなら、それが「悲劇」であろうと、それは「美化された悲劇」と呼ぶしかないものだと思うのである。「一機も帰ってこなかった」とか「国を滅ぼしてしまった」というセリフによって、完結できる「悲劇」ならば。なぜなら僕は、「一機も作るべきじゃなかった」と思うし、「あんな国はもっと早く滅びるべきだった」と心から叫びたい人間だから。
映画の中で堀越二郎の同僚・本庄が「俺達は兵器商人じゃない」とうそぶくシーンがある。そんなバカな、である。いくら自分達は「飛行機」を作っているだけだと技術者が自己規定しようと、発注者が軍であり、その用途を知ってその用途に合わせて設計している本人達が「兵器商人じゃない」はずがない。
歴史上初めて航空機が都市攻撃に使われたのは、ドイツ軍によるゲルニカ爆撃だと言われる。だが、単発の掃討作戦ではなく、一定期間にくり返し行なう空爆によって、敵国の産業や民衆の生命・財産に無差別に被害を与え、物心両面で戦意をくじくという、「戦略爆撃」を歴史上初めて実行に移したのは、日本海軍である。ゼロ戦の初陣は、その海軍による対重慶空襲「百一号作戦」である。無差別爆撃の爆撃機を護衛するために投入されたのだ。それが本来の設計目的ではないにしても、そのような紛うことなきジェノサイドの道具としての任務も、ゼロ戦はこなしていた。
本庄の設計した爆撃機(九六式陸攻、あるいは九七式重爆か)が編隊を組んで敵地に向かい、迎え撃つ戦闘機によって被弾するシーンが一瞬登場するが、まさにあの編隊の下に南京・武漢(漢口)・重慶といった長江沿いの都市があり、日本軍は毎朝の牛乳配達のように、そこに大量の爆弾をばら撒きに行っていた。その、地上の地獄は描かれず、被弾する日本の爆撃機だけが戦争の現実として描かれる。それが「日本人の物語」、ということだからである。
そういう「物語」は、もういい、と思うのである。
代わりに僕は、こう思うのである。
堀越が、ゼロ戦をもっと平凡なものに作っていたら──あるいは、いっそ獄につながれることを覚悟の上でその開発をサボタージュしていたら、アジア・太平洋戦争はもっと早くに(日本の敗北で)終わっていたのではないか。「敵」も「味方」も、もっと少ない犠牲で済んだのではないか*注1。
もちろん、戦争が生み出した悲惨の責任は、、総じてそれを止められなかった全ての「臣民」にある。だが、多くの「生き延びるだけで精一杯」だった彼らに比べ、堀越の立場は別格であり、その役割は戦争遂行において重大なものだった。その彼がどのように罪を自覚し、懺悔したのだろうかと、興味を覚えるのは自然なことではないだろうか。難しいことを考えるのは苦手だ、という人は別として。
映画は「地獄でした」「終わりの方はボロボロでした」というセリフとともに、堀越の「夢」をしめくくろうとする。だがユーミンのエンドテーマは、戦争の現実を知らずに世を去った妻・菜穂子の心情には寄り添っても、戦時を「ズタズタにひきさかれ」ながら生き抜いた主人公の「潰えた夢」には寄り添っていない、むしろパステル絵の具で塗りこめて隠してしまう。生身の人間なら、そこに耐え難い慙愧の念があったに違いないのに。
それとも、本当に技術一本槍の人間で、右も左もわからない政治オンチだったというのだろうか?海外事情に広く接する機会も能力も与えられ、ドイツ語を流暢に話すほどのインテリでありながら、日本帝国のために自身の本当の夢・未来を投げ出すつもりでいたというのか?*注2
いったい、日本帝国にそんな価値があると、当時の堀越が信じられただろうか。映画で主人公は幾度か、日本の民の生活を、欧米に比べてのその「貧しさ」を思い、自分にできることを考えるような顔をする。できることは夢の航空機の実現だと彼が腹をくくったとしても、その彼や同僚の作った飛行機が、同じくらい貧しいアジアの子供達の家に爆弾を落とすために使われる現実を知りながら、その日本帝国の方針に従うのが善だなどと、どうして信じられるだろうか?
・・・映画は映画、フィクションなんだから、映画の堀越と実在の堀越が必ずしも一致しなくてもよい、あの堀越は(堀辰雄を含めた)様々な人物の合わさったもの、あるいは宮崎駿自身のパーソナリティが投影された人物なのだ、という解釈が一方ではあるようだ。僕はその解釈を否定はしない。ただ、僕はそんな人物には興味が持てない。そんな人物に、リアリティを感じないからだ。
そう、僕はこの映画の主人公に、不思議なくらいリアリティを感じなかった。ディテールはこれまでの宮崎作品と比べても一番といっていいくらいリアルに描かれながら、人物そのものは今までのどの宮崎作品の主人公よりも、リアリティを感じない。監督が描きたかったという、「毒」も「狂気」も取り立てて感じなかった。
あの時代に国家に抵抗するなど無理だった、それこそリアリティがないと言われても、僕はたじろがない。僕が生きているのは「あの時代」ではなく、現代なのだ。
歴史に「if」はないといって歴史を批判的に検討することを拒絶する人は、現在も未来も自力でたぐり寄せることを拒絶する、あきらめる人だろう。そのような人間は少なくとも大人ではないし、責任ある人間とは言えない。歴史を批判的に検討することは現在を生きるための必須条件である。歴史に「if」はなくても、現在に「if」はある。いや、現在には「if」しかない、「if」の連続が現在なのだから。
過去ではなく現在に生きている僕らには、過去にまつわる嘘をあばく権利が、いやむしろ義務がある。それは歴史を裁くことではない。現在を生きるためにすること(してきたこと)なのである。
国のために命を捧げた兵隊達がいたから、今の日本の平和があるという嘘(→そういう兵隊達がいたから、なかなか戦争が終わらなかったのだ!)。
戦時中の兵器の開発経験があったから、日本の科学技術は戦後も発展したのだという嘘(→戦争がなくてもそれは発展できるのだし、なければ発展できないような技術なら発展しなくていいのだ!)。
あるいはゼロ戦について言えば、これは嘘をついているという問題ではないが、その優秀性にはいくつもの但し書きが必要だということ。すなわち、運動性能と航続距離の長さで、ゼロ戦は列強諸国の戦闘機を圧倒したが、防弾性能においては(他の多くの日本軍用機にも共通した問題として)初めから劣っていた。つまり運動能力で被弾のリスクをカバーしていたのだが、戦争後期には米空軍の戦闘機の能力アップに追いつかれ、欠点をカバーできなくなった(こちらなどを参照のこと)。
これは、僕自身が軍艦・戦闘機に熱中していた小学生の時、本で読んだ話で、とても印象に残っているのである。米空軍のパイロットがゼロ戦のことを、一発の被弾で「紙のように燃える」と形容していたという事実。また、すでにミッドウエー海戦の頃から、優秀なベテラン・パイロットをその「紙のように燃える」機体のせいで多く失い、戦争後期には未熟な若手を乗せるしかなくなり、戦闘能力ダウンにつながったという事実。
アメリカの戦闘機なら、被弾しても何とか母艦まで帰り着けることが多かった、少なくともそういう方向の設計思想があった。大切なパイロットを失わずに済むし、機体も無駄にならない。日本にそれがなかった、というのは軍事的な合理性に疎かったという話ではどうやらなく、そもそも人命軽視の思想が国家・軍の柱に刻まれていたからだ、それこそが日本敗戦の遠因である…ということまで、僕が昔読んだ(子供心に戦争美化を刷り込むのかと日教組あたりに抗議されそうな、源田実元大佐なんかが監修に名を連ねている)戦記本にさえ、書いてあったのである。
そのような人命軽視の思想(味方に対してさえそうだから、敵にはなおさらの)から、堀越二郎も無縁だったとは思えない。不本意かもしれないが、ゼロ戦こそはその分かりやすい象徴だったりする。「優秀な日本の技術」の象徴でありながら、同時に人を部品としか思わないような(何かブラック企業のような)体質の象徴でもある、と。
ともあれ、そんなゼロ戦の弱点を、僕が知っているくらいなのだから、飛行機マニアの宮崎翁が知らないわけがない。「一機も帰ってこなかった」のは、「戦争」だったんだから仕方ない、ということだけではなかったはずだと、現実の堀越は知っていたはずだ。だが映画のスクリーンからは、その問題を突いた時に現実の堀越が発したであろう「うめき」は、聞こえてくる気配もなかった。
たかがアニメに何を噛み付いている、と言われるかもしれないが、僕は宮崎駿が好きだからこそ、真面目に噛み付かなければ失礼だと思っている。
夢に向かって突き進む、なんていう綺麗な言葉で、ゼロ戦開発とそのもたらした現実を美化することは不可能である。それは原発を、みんなを幸せにする未来のエネルギーだといって、国家ぐるみで推進したことが何をもたらしたか、その現実を美化することができないのと同じことだ。ゼロ戦という「兵器」と、発電所という「産業」または「インフラ」は、おのずと違うものである。だが、国策をもって自明のことのように公費を費やして開発される、その自明性を疑う権利すら奪われて屈従するのは、帝国臣民にはふさわしいかもしれないが、地球市民にはふさわしくない。その観点からは同じこと、同じく「もうたくさん」と言ってやらなきゃいけないこと、だろう。
そんなこと、宮崎氏はとうにわかっているはずだ。わかった上での、それでも最後に作り上げたかった氏の「飛行機の夢」、それがこの映画なんだろう、と思う。
ならば僕のこの文章は、氏に突きつける、一つの「代償」として受けとってもらえばいい。
鈴木プロデューサーや宮崎監督の、戦争に対する認識、憲法改正に異議を唱える姿勢には、僕は共感している。だがこの「風立ちぬ」を観る限り、反戦・非戦を観る者に伝えるという意味においては、まったく足りていない、役不足である。
もちろん監督らは、先に引用したとおり、「それ」のためにこの作品を作ったのではない、と答えるのだろう。だとしたら僕は、ああそうですか、飛行機っていいものですね、という感想で終わればいいだけだ。だがこの国が近代以降犯してきた罪、今も犯し続けている罪の深さは、この映画の伝える「悲しみ」では到底見通せるものではない。僕はそのことを思い続けたい。この映画とは別に。
だけどこの映画によって、「歴史の悲しみ」の片鱗を見る者、その認識の端緒を開く者がいるなら、それは素晴らしいことだ。ぜひそうなってほしい。その意味では、世間の評判とは逆に、この映画は知ったかぶった大人どもではなく、歴史をよく知らない子どもにこそ見てもらったらいい、と強く思う。そして、「話がつまらなかった」という感想が出ても、それで全然いいと思う。「面白かった」映画とは違う、何か引っかかるものが、必ず残るはずだから。
だが僕は子どもではないから、もう知っているから、それどころではない現実を知っているから、もういい。そういうことだ。
まとまりの悪い感想文、なんとなく読んでくれた皆さんに頭を下げたい。お粗末でした。
*注1
もちろん、「数」が少なくなるか多くなるかは、本当のところはわからない。日本に限って言えば、戦死する日本兵は少なくなっただろうし、広島・長崎もなかっただろう。だがひょっとしたら、アメリカはその原爆を朝鮮戦争で、あるいは中国に対して投下し、その方がたくさんの死者が出たかもしれない。あるいは、日本軍の早期撤退は中国国内の力関係に影響を与え、泥沼の国共内戦で、よりたくさんの中国人が結果的に死んでいたかもしれない、等々。
こうした数字の多寡は、一つ二つの計算式で簡単に割り出せるものではない。だが数年~数十年のスパンでなく、もっと長い人類史のスパンでものを見るなら、非戦の方向で事態を収束させる努力こそが、歴史のうねりの中で結果を出し、勝ってきているのは明らかだと僕は思う(核抑止論者は鼻で笑うのだろうが)。
*注2
戦後の堀越は名機YS11の設計に参加する一方、新三菱重工の参与、宇宙航空研究所、防衛大の教授などを歴任。夢破れて裏街道を歩いた人生、とはとても言えない。
実際に観てみると、なるほどこれは美しい映画だった。ある種、宮崎監督にしか作れない美しい映画だと言っていい。けれど同時に、この美しさなら、「もういい」とも感じた。美しいものをあえて突っぱねてそう言うのではなく、自然に、どうしようもなく、「もういい」と感じてしまった。
この美しさなら、もういい。まして「千と千尋」や「ポニョ」で、見た事もないような新次元の美しさに引き合せてくれた宮崎アニメにして、今さらこれならば。
胸にこぼれ落ちてくるもの、はあった。それは主人公二人の愛の物語である。だがそれですら、恋愛の諸相を描き切っているわけではないというイチャモンは別にして、この映画の中でそれが果たしている役割に思い馳せる時、「もういい」と思ってしまう。彼女が彼を支え、彼の夢である航空機の完成を支えた、という役割。しかしその完成によって、どれだけの多くの人間が死地に赴き、どれだけ多くの「敵」の人間を死なせたのか。
「もののけ姫」では愛の物語が、シシ神と人間とを調停する力につながっていった。「ハウル」では愛の物語が、魔力による代理戦争に対する非戦のレジスタンスへとつながっていった。しかし「風立ちぬ」でのそれは、ゼロ戦という兵器の誕生を称揚し・美化する流れにつながっている。作者がいかにそれを否定しようと、それはそうなっている。主人公・堀越二郎の薄命の妻の献身が、ゼロ戦誕生を支えた、という形で。その時「生きねば」という映画のコピーは、そのまま戦争への消極的「参加」へとつながってしまっている。
この時代、彼らの愛の背後に、どれだけの報われぬ愛の物語があっただろう。いや「背後に」というよりも、それが押し潰され報われずに終わったのは、まさにゼロ戦が活躍を見込まれ、実際に活躍したからこそ、という因果関係だって当然あるのだ。そこまで考えなければ、歴史の「悲しみ」など、わかったことにならないだろう。
さらに「もののけ姫」や「ハウル」と違うのは、「敵」が描かれないことである。「敵」が何者だったかは歴然としているのに、それが描かれないということが──今さらながらの「日本人の物語」でしかないということが、僕を滅入らせる。
「風立ちぬ」公式サイトには、監督のこんなメッセージが掲載されている。
私達の主人公二郎が飛行機設計にたずさわった時代は、日本帝国が破滅にむかってつき進み、ついに崩壊する過程であった。しかし、この映画は戦争を糾弾しようというものではない。ゼロ戦の優秀さで日本の若者を鼓舞しようというものでもない。本当は民間機を作りたかったなどとかばう心算もない。
自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人物を描きたいのである。夢は狂気をはらむ、その毒もかくしてはならない。美しすぎるものへの憬れは、人生の罠でもある。美に傾く代償は少くない。二郎はズタズタにひきさかれ、挫折し、設計者人生をたちきられる。それにもかかわらず、二郎は独創性と才能においてもっとも抜きんでていた人間である。それを描こうというのである。
(宮崎駿「企画書」より.太字はレイランダー)
言いたいことはわかる。だが、こちらも言わせてもらえば、夢とその代償が本人の人生の中で完結するように描かれるだけなら、それが「悲劇」であろうと、それは「美化された悲劇」と呼ぶしかないものだと思うのである。「一機も帰ってこなかった」とか「国を滅ぼしてしまった」というセリフによって、完結できる「悲劇」ならば。なぜなら僕は、「一機も作るべきじゃなかった」と思うし、「あんな国はもっと早く滅びるべきだった」と心から叫びたい人間だから。
映画の中で堀越二郎の同僚・本庄が「俺達は兵器商人じゃない」とうそぶくシーンがある。そんなバカな、である。いくら自分達は「飛行機」を作っているだけだと技術者が自己規定しようと、発注者が軍であり、その用途を知ってその用途に合わせて設計している本人達が「兵器商人じゃない」はずがない。
歴史上初めて航空機が都市攻撃に使われたのは、ドイツ軍によるゲルニカ爆撃だと言われる。だが、単発の掃討作戦ではなく、一定期間にくり返し行なう空爆によって、敵国の産業や民衆の生命・財産に無差別に被害を与え、物心両面で戦意をくじくという、「戦略爆撃」を歴史上初めて実行に移したのは、日本海軍である。ゼロ戦の初陣は、その海軍による対重慶空襲「百一号作戦」である。無差別爆撃の爆撃機を護衛するために投入されたのだ。それが本来の設計目的ではないにしても、そのような紛うことなきジェノサイドの道具としての任務も、ゼロ戦はこなしていた。
本庄の設計した爆撃機(九六式陸攻、あるいは九七式重爆か)が編隊を組んで敵地に向かい、迎え撃つ戦闘機によって被弾するシーンが一瞬登場するが、まさにあの編隊の下に南京・武漢(漢口)・重慶といった長江沿いの都市があり、日本軍は毎朝の牛乳配達のように、そこに大量の爆弾をばら撒きに行っていた。その、地上の地獄は描かれず、被弾する日本の爆撃機だけが戦争の現実として描かれる。それが「日本人の物語」、ということだからである。
そういう「物語」は、もういい、と思うのである。
代わりに僕は、こう思うのである。
堀越が、ゼロ戦をもっと平凡なものに作っていたら──あるいは、いっそ獄につながれることを覚悟の上でその開発をサボタージュしていたら、アジア・太平洋戦争はもっと早くに(日本の敗北で)終わっていたのではないか。「敵」も「味方」も、もっと少ない犠牲で済んだのではないか*注1。
もちろん、戦争が生み出した悲惨の責任は、、総じてそれを止められなかった全ての「臣民」にある。だが、多くの「生き延びるだけで精一杯」だった彼らに比べ、堀越の立場は別格であり、その役割は戦争遂行において重大なものだった。その彼がどのように罪を自覚し、懺悔したのだろうかと、興味を覚えるのは自然なことではないだろうか。難しいことを考えるのは苦手だ、という人は別として。
映画は「地獄でした」「終わりの方はボロボロでした」というセリフとともに、堀越の「夢」をしめくくろうとする。だがユーミンのエンドテーマは、戦争の現実を知らずに世を去った妻・菜穂子の心情には寄り添っても、戦時を「ズタズタにひきさかれ」ながら生き抜いた主人公の「潰えた夢」には寄り添っていない、むしろパステル絵の具で塗りこめて隠してしまう。生身の人間なら、そこに耐え難い慙愧の念があったに違いないのに。
それとも、本当に技術一本槍の人間で、右も左もわからない政治オンチだったというのだろうか?海外事情に広く接する機会も能力も与えられ、ドイツ語を流暢に話すほどのインテリでありながら、日本帝国のために自身の本当の夢・未来を投げ出すつもりでいたというのか?*注2
いったい、日本帝国にそんな価値があると、当時の堀越が信じられただろうか。映画で主人公は幾度か、日本の民の生活を、欧米に比べてのその「貧しさ」を思い、自分にできることを考えるような顔をする。できることは夢の航空機の実現だと彼が腹をくくったとしても、その彼や同僚の作った飛行機が、同じくらい貧しいアジアの子供達の家に爆弾を落とすために使われる現実を知りながら、その日本帝国の方針に従うのが善だなどと、どうして信じられるだろうか?
・・・映画は映画、フィクションなんだから、映画の堀越と実在の堀越が必ずしも一致しなくてもよい、あの堀越は(堀辰雄を含めた)様々な人物の合わさったもの、あるいは宮崎駿自身のパーソナリティが投影された人物なのだ、という解釈が一方ではあるようだ。僕はその解釈を否定はしない。ただ、僕はそんな人物には興味が持てない。そんな人物に、リアリティを感じないからだ。
そう、僕はこの映画の主人公に、不思議なくらいリアリティを感じなかった。ディテールはこれまでの宮崎作品と比べても一番といっていいくらいリアルに描かれながら、人物そのものは今までのどの宮崎作品の主人公よりも、リアリティを感じない。監督が描きたかったという、「毒」も「狂気」も取り立てて感じなかった。
あの時代に国家に抵抗するなど無理だった、それこそリアリティがないと言われても、僕はたじろがない。僕が生きているのは「あの時代」ではなく、現代なのだ。
歴史に「if」はないといって歴史を批判的に検討することを拒絶する人は、現在も未来も自力でたぐり寄せることを拒絶する、あきらめる人だろう。そのような人間は少なくとも大人ではないし、責任ある人間とは言えない。歴史を批判的に検討することは現在を生きるための必須条件である。歴史に「if」はなくても、現在に「if」はある。いや、現在には「if」しかない、「if」の連続が現在なのだから。
過去ではなく現在に生きている僕らには、過去にまつわる嘘をあばく権利が、いやむしろ義務がある。それは歴史を裁くことではない。現在を生きるためにすること(してきたこと)なのである。
国のために命を捧げた兵隊達がいたから、今の日本の平和があるという嘘(→そういう兵隊達がいたから、なかなか戦争が終わらなかったのだ!)。
戦時中の兵器の開発経験があったから、日本の科学技術は戦後も発展したのだという嘘(→戦争がなくてもそれは発展できるのだし、なければ発展できないような技術なら発展しなくていいのだ!)。
あるいはゼロ戦について言えば、これは嘘をついているという問題ではないが、その優秀性にはいくつもの但し書きが必要だということ。すなわち、運動性能と航続距離の長さで、ゼロ戦は列強諸国の戦闘機を圧倒したが、防弾性能においては(他の多くの日本軍用機にも共通した問題として)初めから劣っていた。つまり運動能力で被弾のリスクをカバーしていたのだが、戦争後期には米空軍の戦闘機の能力アップに追いつかれ、欠点をカバーできなくなった(こちらなどを参照のこと)。
これは、僕自身が軍艦・戦闘機に熱中していた小学生の時、本で読んだ話で、とても印象に残っているのである。米空軍のパイロットがゼロ戦のことを、一発の被弾で「紙のように燃える」と形容していたという事実。また、すでにミッドウエー海戦の頃から、優秀なベテラン・パイロットをその「紙のように燃える」機体のせいで多く失い、戦争後期には未熟な若手を乗せるしかなくなり、戦闘能力ダウンにつながったという事実。
アメリカの戦闘機なら、被弾しても何とか母艦まで帰り着けることが多かった、少なくともそういう方向の設計思想があった。大切なパイロットを失わずに済むし、機体も無駄にならない。日本にそれがなかった、というのは軍事的な合理性に疎かったという話ではどうやらなく、そもそも人命軽視の思想が国家・軍の柱に刻まれていたからだ、それこそが日本敗戦の遠因である…ということまで、僕が昔読んだ(子供心に戦争美化を刷り込むのかと日教組あたりに抗議されそうな、源田実元大佐なんかが監修に名を連ねている)戦記本にさえ、書いてあったのである。
そのような人命軽視の思想(味方に対してさえそうだから、敵にはなおさらの)から、堀越二郎も無縁だったとは思えない。不本意かもしれないが、ゼロ戦こそはその分かりやすい象徴だったりする。「優秀な日本の技術」の象徴でありながら、同時に人を部品としか思わないような(何かブラック企業のような)体質の象徴でもある、と。
ともあれ、そんなゼロ戦の弱点を、僕が知っているくらいなのだから、飛行機マニアの宮崎翁が知らないわけがない。「一機も帰ってこなかった」のは、「戦争」だったんだから仕方ない、ということだけではなかったはずだと、現実の堀越は知っていたはずだ。だが映画のスクリーンからは、その問題を突いた時に現実の堀越が発したであろう「うめき」は、聞こえてくる気配もなかった。
たかがアニメに何を噛み付いている、と言われるかもしれないが、僕は宮崎駿が好きだからこそ、真面目に噛み付かなければ失礼だと思っている。
夢に向かって突き進む、なんていう綺麗な言葉で、ゼロ戦開発とそのもたらした現実を美化することは不可能である。それは原発を、みんなを幸せにする未来のエネルギーだといって、国家ぐるみで推進したことが何をもたらしたか、その現実を美化することができないのと同じことだ。ゼロ戦という「兵器」と、発電所という「産業」または「インフラ」は、おのずと違うものである。だが、国策をもって自明のことのように公費を費やして開発される、その自明性を疑う権利すら奪われて屈従するのは、帝国臣民にはふさわしいかもしれないが、地球市民にはふさわしくない。その観点からは同じこと、同じく「もうたくさん」と言ってやらなきゃいけないこと、だろう。
そんなこと、宮崎氏はとうにわかっているはずだ。わかった上での、それでも最後に作り上げたかった氏の「飛行機の夢」、それがこの映画なんだろう、と思う。
ならば僕のこの文章は、氏に突きつける、一つの「代償」として受けとってもらえばいい。
鈴木プロデューサーや宮崎監督の、戦争に対する認識、憲法改正に異議を唱える姿勢には、僕は共感している。だがこの「風立ちぬ」を観る限り、反戦・非戦を観る者に伝えるという意味においては、まったく足りていない、役不足である。
もちろん監督らは、先に引用したとおり、「それ」のためにこの作品を作ったのではない、と答えるのだろう。だとしたら僕は、ああそうですか、飛行機っていいものですね、という感想で終わればいいだけだ。だがこの国が近代以降犯してきた罪、今も犯し続けている罪の深さは、この映画の伝える「悲しみ」では到底見通せるものではない。僕はそのことを思い続けたい。この映画とは別に。
だけどこの映画によって、「歴史の悲しみ」の片鱗を見る者、その認識の端緒を開く者がいるなら、それは素晴らしいことだ。ぜひそうなってほしい。その意味では、世間の評判とは逆に、この映画は知ったかぶった大人どもではなく、歴史をよく知らない子どもにこそ見てもらったらいい、と強く思う。そして、「話がつまらなかった」という感想が出ても、それで全然いいと思う。「面白かった」映画とは違う、何か引っかかるものが、必ず残るはずだから。
だが僕は子どもではないから、もう知っているから、それどころではない現実を知っているから、もういい。そういうことだ。
まとまりの悪い感想文、なんとなく読んでくれた皆さんに頭を下げたい。お粗末でした。
*注1
もちろん、「数」が少なくなるか多くなるかは、本当のところはわからない。日本に限って言えば、戦死する日本兵は少なくなっただろうし、広島・長崎もなかっただろう。だがひょっとしたら、アメリカはその原爆を朝鮮戦争で、あるいは中国に対して投下し、その方がたくさんの死者が出たかもしれない。あるいは、日本軍の早期撤退は中国国内の力関係に影響を与え、泥沼の国共内戦で、よりたくさんの中国人が結果的に死んでいたかもしれない、等々。
こうした数字の多寡は、一つ二つの計算式で簡単に割り出せるものではない。だが数年~数十年のスパンでなく、もっと長い人類史のスパンでものを見るなら、非戦の方向で事態を収束させる努力こそが、歴史のうねりの中で結果を出し、勝ってきているのは明らかだと僕は思う(核抑止論者は鼻で笑うのだろうが)。
*注2
戦後の堀越は名機YS11の設計に参加する一方、新三菱重工の参与、宇宙航空研究所、防衛大の教授などを歴任。夢破れて裏街道を歩いた人生、とはとても言えない。
日本人は「被害は描いても加害は描かない」その呪縛から宮崎アニメも解けなかった、というところでしょうか。
が、他の見方をすれば、現代の子供は「被害」さえも実感していないのだから、これぐらいでなければ、「戦争を学ぶ入口」にさえ立てないかも、とも思いますが…
かつてないほどの右翼化が進む今の日本の限界を見せつけているようでもあります。
戦争を描く以上、加害を描かなければいけないって決まってるわけではもちろんないと思いますけど、「風立ちぬ」の場合だと、「それを描くならあれも描けば?」って言いたくなる場面が多いですね、個人的には。ただ「被害」もそんなには描いてないですね。一般庶民みたいな被害を受けにくい立場の人が主人公ですから。
子どもの観客に対しては、よくあるような戦争観・被害⇔加害の概念とは違う切り口を見せることによって、いわゆる「反戦」の意図を明確にしたお堅い作品よりも、ある意味心に残るものがあるのでは、と信じたいところなんですが・・・その主張に自信は持てません。
これを言ったらいろんな人から反論されるかもしれないけど、結局アニメって、本当に悲惨なもの、愚劣なもの、醜いもの、汚いものって、描けないメディアなのかな、美しいものしか描けない宿命を背負ってるのかな、って気もします。まあ一方で僕は、エヴァンゲリオンなんて(その美しさゆえに)愚劣なアニメだと思いますけど。
まあ僕の評にとらわれず、機会があれば実際に観て考えてみてくだされば。
現実の堀越はエリート街道そのもの、ご指摘の通りと思います。
風立ちぬ・・・これがなければロマンが作れなかったのでしょう。ただ、風立ちぬ、は使ってほしくなかった!
世間では普通に「感動の名作」扱いされてるかもしれないけど、いろいろ引っかかるところのある作品ですね、本当に。
ファンと言うより堀辰雄が卒論でした^^;
極めて怠惰な学生論文でしたが。
おそらく宮駿は『風立ちぬ』のムードのみに憧れていたのでしょうが、反戦的思想性を持った堀とその代表作は、あのアニメでは、映画では表現が不可能なのだと認識しています。