未来組

宝塚の舞台、DVD、SKYSTAGEを観た感想と、最近はカメラに凝ってます。

グレート・ギャツビー

2008年09月09日 | 舞台感想(2007~2009年)
~F・スコット・フィッツジェラルド作 “The Great Gatsby”より~
月組日生劇場公演
2008年9月7日 15:30~
脚本・演出:小池修一郎/主演:瀬奈じゅん、城咲あい他

 20世紀アメリカ文学の最高傑作の一つと言われるスコット・フィッツジェラルドの「The Great Gatsby」を原作にしたミュージカル。身分の違いと戦争に引き裂かれた若き恋人たち。育ちが卑しいと侮辱されたジェイは、帰国後、女性に相応しい男になるためにひたすらに努力し、危険なビジネスに手を染めてまで富を手に入れ、デイジーと再会する日を待ちわびていました。デイジーは二度と恋などしない、自分の考えを持たずに決められたレールの上を歩き、平凡な結婚生活を送ろうと決意。富豪トムを夫に選びますが、彼の浮気が結婚生活に影を落としていました。
 そしてついにジェイが夢に描いた再会の日。5年の歳月を経て、二人は愛を確かめあいますが、再会と同時に運命の歯車は狂いだしていて…
 どんなに努力しても幸せをつかむことができなかったジェイの切なく苦しく、空しくも尊い(ベルばらか?)生き方は、アメリカンドリームが幻想と化し、ロストジェネレーションと呼ばれた世代の精神性にあっていたのかもしれません。また見事に散りゆく者に男の美学を見いだす日本人の情緒、とくに宝塚の舞台にはぴったりの題材と言えるかも。恋に落ちた二人が自分の夢を歌う回想シーン。その純真さ、この先二人を待ち受けている残酷な運命を思うと涙があふれました。

 オフホワイトのスリーピースに帽子、白いエナメルの靴。暗黒街に通じ、禁酒法時代に酒の売買で財をなしたジェイ(瀬奈じゅん)。人妻となったデイジーが暮らすブキャナン邸を対岸から毎日見つめています(ストーカーか?)。突堤にたたずむ後姿がポスターにもありましたが、孤独な生き方を象徴しています。
 瀬奈じゅんは、前作「ミー・アンド・マイ・ガール」のビルとは正反対。語らず、動かず(踊るけど)、表現しすぎず、抑えた演技。発散するのはデイジーの前でワードローブから豊かさの象徴である外国製のワイシャツを投げ散らかす時だけです。宝塚の様式美である、クリーンで気障で、華やかで超格好いい男役像を魅力的に演じていました。(これだけ若くて格好良ければ、多少貧乏でもオッケーかも?)

 原作を愛する文学少女や、ロバート・レッドフォード、ミア・ファロー主演の映画「華麗なるギャツビー」ファンも多いことでしょう。91年に杜けあき主演で上演された雪組公演「華麗なるギャツビー」(1時間半の大劇場版)を観た方も。ジェイの求めたものはなんだったのか? デイジーなのか? 上流社会の成功なのか? 読者または観客がどのライフステージでこの作品に接するかによって印象は異なるはず。原作を読んでおらず、昔見た映画もおぼろげにしか覚えていないわたしには、小池修一郎の描こうとしたジェイしかはっきりわかりませんが、一途にデイジーの愛を得ようとする男の純情が描かれていました。きっとジェイは自分の生き方を後悔はしないでしょう。デイジーに誠を捧げた人生は、本望だったのではないでしょうか。

 デイジーを城咲あい。悲劇的結末を迎えるヒロイン像がよくはまります。デイジーは少女の頃の心の傷を必死で隠し、周囲の期待に応えようとし、夫の浮気も見て見ぬふりをして耐えています。ジェイとの再会に動揺し、ジェイとやり直そうと思いつつも、娘を捨てることはできません。
 原作ではデイジーはわがままでエキセントリックな女。映画では何一つ自分で決められないほど軽薄で脆い。宝塚では、ヒロイン像が宝塚的でないという理由で2度却下されたそうですが、愚鈍でドライを装いながらも純な部分を残しているという肉づけが絶妙なのではないでしょうか。お墓のシーンは宝塚オリジナルですが、デイジーの造形は原作以上にデイジーらしい。そして城咲あいの歌唱力が格段の進歩を見せていて驚きました。

 田舎から出てきた純朴な青年ニックを遼河はるひ。上流階級やマフィアなど、一筋縄ではいかない登場人物の中で、普通の感覚を持った彼の視点で物語は進展します。遼河はるひは身長があり、目鼻立ちがはっきりして低音がよく通ります。悪役が似合う存在感のある役者なので、普通の青年を演じるにはアクが強かったかもしれません。
 一方、デイジーの旦那トムは、筋肉フェチで脳みそも筋肉? 演じる青樹泉が浮気をするような自分勝手な男に見えないのが玉に瑕。演出側も、役者にいつもとは違う役に挑戦させたいでしょうし、序列があるので仕方ないのですが、ニックとトムは逆の方がよかったと思います。
 暗黒街の顔役、マイヤーを越乃リュウ。あれだけ大げさにねっとりと演じてくれると観ていて気持ちいいし、演じている方も男役冥利に尽きるでしょう。むさ苦しい子分を引き連れた男くさいダンスがツボにはまります。
 プロゴルファーで進歩的な女ジョーダンを涼城まりな。小柄で華奢なのでスポーツ選手にはどうしても見えなかった。ゴルフのスイングも一番心もとなかったかも? この役は男役が演じても面白かったかもしれません。
 舞台上に何十人もが所狭しと並んでゴルフ・スイングをするダンスシーンは、ぶつかりはしないかと冷や冷やしました。八百長の噂の付きまとうジョーダンがボールの位置をごまかしたり、遼河はるひの空振りもおかしかった。
 トムの愛人マートルを憧花ゆりの。甲高い声で自分勝手な嘘ばかりついて、いいところのないマートルですが、テーブルの上に横座りになって歌う姿は華奢で、可愛く思う旦那の気持ちがわかったような?
 マートルの旦那でガソリンスタンド経営者のジョージを磯野千尋。つなぎで髪はボサボサで顔は煤だらけ。どう見たって不釣り合いな二人です。でも心からマートルを愛していたんですよね。
 最後に登場するジェイの父親を汝鳥怜(二役)。家を訪ねてくれと誘われたけれど気が引けて来られなかったという素朴さ、息子の日記を読むシーンは泣けました。

 生のオーケストラはやはりいい。気持ちを乗せた歌でミュージカルを構成するのは小池修一郎の十八番。難を言えば、初演にはなかった「神の眼」、断罪と懺悔の歌のシーンが若干冗長だったかもしれません。最後にショーをつけてもよかったのではないかと思います。
 私が観に行ったとき、1幕で青い車が止まってしまってハラハラしました。(何食わぬ顔で乗り捨てて歩き去る青樹泉に、客席からは笑いが…)青い車と黄色い車はとても重要で、2台が舞台上に登場しないと話になりません。2幕では予定どおりに動いてくれてほっとしました。

 ところで91年の「華麗なるギャツビー」をNHK BS放送を録画したビデオで観ました。主演の杜けあきは、ジェイを演じていたのではなく、ジェイそのものでした。そのものと言って、ジェイを見たことはありませんし、決して丸顔でふっくらした唇はしていないでしょうけれど、“暗闇を這いつくばって生きてきた”という歌のリアリティ。苦み走った男の陰影。フィッツジェラルドの著作権を管理しているご夫妻が“ロバート・レッドフォードよりずっとよかった”と仰ったそうですが、さもありなん。
 デイジーを演じた鮎ゆうきも確かに美しい。ニックを一路真輝。美青年に違いは無いけれど、普通っぽさが感じられて共感できます。トムを悪役担当の海峡ひろき。暗黒街の顔役マイヤーを美人の高嶺ふぶきが、素顔がわからないくらいの大変身で演じていました。そのほかにも轟悠、香寿たつき、和央ようか、純名理紗など、ため息の出るほど豪華で重厚な役者陣。宝塚と言わなければ普通の芝居として観られるほどの出来栄えでした。

 権利の問題など難しいのかもしれませんが、宝塚の名作として「風と共に去りぬ」程度には再演を重ねてほしい。次はだれがジェイとデイジーを演じるのかな~と妄想を抱かせてほしいものです。 
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