アジア映画巡礼

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「So in Love with Leslie」ご来場御礼

2013-09-16 | 香港映画

本日の台風による悪天候の中、「So in Love with Leslie」@東京国際フォーラムにお越し下さいました皆様、本当にありがとうございました。お陰様で、とてもいい追悼イベントとなりました。御礼申し上げます。イベント関連の写真が使えないので、中国でレスリーの業績の研究を行っている榮雪烟さんから送られてきた、レスリーの本の表紙を載せることにします。実はこの間、このイベントを紹介したブログに榮雪烟さんが送って下さった本の表紙をスキャンして載せたところ、スキャンがあまりきれいでないのがあるのと、写真撮りをした表紙があまりにも見にくいということで、わざわざメール送付して下さったのでした。

で、本日のレスリー・チャン追悼イベント「So in Love with Leslie」ですが。ちょうど台風が関東を通る時間が開場時間の午後3時半ごろ、という直撃状態。午後1時頃に楽屋入りした我々に飛び込んで来たニュースは、「大井川が警戒水位を超えたため、新幹線がストップしている!」というまさかの情報。関西や中部から来て下さるファンの方も多く、プロマックスのスタッフの方のケータイには、「動かないのであきらめて戻ります...」という悲しいメールが入ったりして、一同やきもき。というわけで、開演は10分遅れの午後4時10分となりました。

前半のパートは、予告編やPVを使ったレスリーの映画&音楽の紹介。取り上げられた映画は、『男たちの挽歌』 (1986)、『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』 (1987)、『ブエノスアイレス』 (1997)、そして『さらば、わが愛 覇王別姫』 (1994)の4本。配給会社各社が協力して下さって、なつかしい日本公開時の予告編などを見ることができました。一方PVは日本語で歌う『マシュマロ』と広東語の『紅』。そして、関谷元子さんが2002年に香港でレスリーのインタビューをした時のエピソードが披露されました。インタビューの場となった某ホリデイ・イン・ホテルは、関谷さんがインタビューのための部屋を借りる交渉をしたところ特別スイートルームを提供してくれ、レスリーの到着を最高級待遇で迎えてくれたとか。その時レスリーは、これから撮る予定の初監督作品について雄弁に語ったそうなのですが、後日その話が頓挫してしまい、「悪いけど、映画の話は載せないでくれる?」となったとか。インタビューの時はとっても上機嫌で、「終わったらみんなで食事しよう。頼む料理は任せるけど、えびチャーハンだけははずさないでね」と言ったりと、その時のレスリーは監督デビュー作の実現を露ほども疑っていなかったのに....。その後、レスリーのコンサート映像が10分余り流されました。

後半の幕開けでは、レスリーの歌「夢到河内」が流れる中、真っ白な衣裳をまとったダンサー西島千博さんが、ステージ上に作られた階段の上から登場しました。その行く手には、スポットライトに照らされたスタンドマイクが1本。西島さんは、そのマイクを見つめながら踊ります。まるでマイクの後ろには、レスリーが立っているような気配が...。これは生前のレスリーのコンサートで、実際にレスリーがマイクに向かって立っている所へ西島さんが踊る、というパフォーマンスを再現したもので、4月2日にあった香港での追悼コンサートでも演じられたそうです。そしてその後のトークでは、まず西島さんがレスリーの映画を見てファンになり、大阪でのコンサートに行ってたまたま楽屋を訪問する機会を得た時のお話が披露されました。「ぜひ一度、ご一緒に仕事をしたいです」と西島さんが言ったところ、即レスリーから連絡が入り、その大阪でPV共演の話が具体化したのだとか。あの芸術的な「夢到河内」は、そういう経緯で完成したのですね。

そして次は、昨日急遽北京から戻って出演して下さることになった衣裳デザイナーのワダエミさん。ワダさんのお車のナンバーは最後が「1000」なのだそうですが、これはレスリーの電話番号から取られたものだとか。そのレスリーから最後に電話がかかってきたのは、2003年の3月31日。亡くなる前日です。『キラー・ウルフ 白髪魔女伝』 (1993)で衣裳を担当して以来、レスリーとすっかり仲良くなったワダさんは、香港に行くといつもレスリーが「作業服(!)を着て、ジープで空港に迎えに来てくれた」そうですが、ある時レスリーの自宅に連れて行かれて、金庫の中を見せられたと言います。「壁に作られた隠し金庫でね、レスリーが開けると米ドルが30センチぐらい積んであるの。それから日本円も30センチぐらい。ああ、中国人って銀行を信用しないのね(笑)、と思ったけど、その時監督として映画を作ろうとしていたレスリーは、製作資金はあるんだよ、ということを見せたかったらしいの」。その映画製作が頓挫したのは、前にも書いた通りです。でもワダさんは、「ロケハンもやったし、私はどこまでもつきあうから。絶対映画はできるわよ」と励ましていらしたそうで、亡くなる前日にかかってきた電話でも、「この映画は必ず完成させましょう」とレスリーと話されたそうです。「今も残念です」とおっしゃっていました。

イベントの最後は、レスリーが『君さえいれば 金枝玉葉』 (1994)で歌った「追」の作曲者、ディック・リーのミニコンサート。「Modernasia」、そしてレスリーとサンディ・ラムがデュエットした「From Now On」、締めはもちろん「追」というわけで、久しぶりにディック・リーの素晴らしい歌声を聞きました。その合間のトークでは、レスリーと初めて会ったのは1983年、シンガポールの録音スタジオだったというエピソードも話してくれました。ディックがある日録音中のスタジオに出かけていくと、知らない青年がイスに座っていて、振り向いた彼に「君、誰なの? ここで何をしているの?」と言ったのが初対面だとか。まだ大ブレーク前だったレスリーは、ちょうどシンガポールに録音に来ていたわけです。その後「MONICA」が大ヒットして、その歌手を見たディックは、「この人、知ってる!」と叫んだそうです。後年、『君さえいれば』などの仕事をレスリーと一緒にすることになったディックでしたが、何と亡くなる前年、2002年の9月にバンコクのホテルで朝食をとっている時に、偶然にも同じホテルに泊まっていたレスリーとバッタリ出会い、初めてじっくりと話をしたのだとか。その時の話は3時間にも及んだそうですが、レスリーはほとんど声が出ない状態で、胃酸が逆流する病気が相当深刻だったようで「つらいミーティングだった」とディックは話してくれました。最後にディックが言った言葉、「レスリーは自分に歌うチャンスを与えてくれた。レスリー、ありがとう!」が心にしみました。

こんな風に、とっても充実した内容となったレスリー没後10年目の追悼イベント。台風による列車等の遅れがあったため、イベントの途中からの参加となった方々もいらっしゃいましたが、どの部分も濃密なレスリーへの愛が漂っていたので満足していただけたのでは、と思います。最後にみんなで歌った「月亮代表我的心」、きっと天国のレスリーに届いたに違いありません。レスリーが、大好きだった東京国際フォーラムの舞台に帰ってきてくれた2時間でした。

 


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