木原孝一という詩人がいる。
故人であるから「いた」と過去形で書くべきなのであろうが、作品は生き続けているので、あえて現在形で書いてみる。
木原孝一は戦後の詩史の中心であった「荒地」同人であり、わが父親の親友でもあった。
木原氏についてはいろいろな思い出がある。
私が幼児の頃、川崎の社宅住まいだったのであるが、その当時、この「木原のおじちゃん」はよく家に遊びに来たのを覚えている。子供心に「いつもお酒飲んでる」「声がおおきい」と思っていた。
ある時など、私が母親に叱られて玄関先に閉め出されていたところへ「おじちゃん」はやってきた。
「木原のおじちゃん」は来るなり玄関の前で仏頂面(多分)で座り込んでいる小さな女の子を抱えあげ、無理やり肩車をして、勝手に玄関をあけて我が家に凱旋したのであった。
「この子、玄関に捨ててあったぞ~」と叫びながら。
私は泣きながら「捨ててあったんじゃない!」と「おじちゃん」をボカスカと殴っていたようなおぼろげな記憶があるのである。
さて この「おじちゃん」はいつも酔っ払っていたような気がする。
子供心に 「なんとなく苦手」と思っていた。
父親も大酒を飲んではクダを巻いていたので、大酔っ払いが二人揃えば、傍に居た子供がどんな目に合うかは、あなたにも想像がつくことだろう。
この「酔っ払いのおじちゃん」が実は結構有名な詩人であるなんてことは、子供には何の価値もないのであった。
高校生になった頃、私は詩に親しむようになっていた。蛙の子は蛙、だからなのか、単なる親の洗脳教育の成果なのかはわからない。
何しろ、本だけは腐るほどある家である。 現代詩関係の文献なら、その気になればそれこそ何でも読めるわけである。こういった「恵まれた環境」の中で次々と新しい詩作品に出会い、黒田三郎、高野喜久雄といった詩人に傾倒していったのであった。そんな文脈の中で、高校1年生の夏休みの現国の自由課題として「作家論」または「作品論」を書け、という課題が出た時、私は「黒田三郎論」を書こうと決意したのである。
父親に色んな質問をしながら「詩学」(故 嵯峨信之氏の主宰されていた同人誌)や「鮎川信夫詩論集」や「言語にとって美とは何か(吉本隆明氏の名著)」などを片端から引っ張り出してもらい、父親と詩の話をする。 そんな中で、ある晩、いつものように少し酔った父が、妙にしんみりしながら、書棚から一冊の詩集を取り出した。
「木原孝一詩集」
その中からあるページを開いた彼は、「この詩はお父さんが一番好きな詩なんだ」と言って、一編の詩を読み上げ始めた。 「鎮魂歌」。
読み終わったとき 彼は泣いていた。
泣きながら私に謝った。娘に思いかけずそんな姿を見せてしまったことへで彼も動転したのかもしれない。
娘はどうしてよいかわからず、戸惑い、黙っていた。 気恥ずかしかった。
ずっと時間がたってから振り返ってみると、あの時、父と心の回路が開けたような気がした。
一人の人間として、苦悩を抱えた人間としての存在として、私の前に立つようになった。
彼と文学の関わりも垣間見た気もした。
戦争にまつわる悲惨な詩の多い木原氏の作品は、バリバリの戦後世代の私には、父が感じたようには生々しく受け止めることができないものが多いのだが、「鎮魂歌」だけはその夜以来私にとって「特別な詩」になったのである。
鎮魂歌 木原 孝一 弟よ おまえのほうからはよく見えるだろう 昭和三年 春 一九二八年 一九五五年 |
父が逝きました。
膵臓がんでした。
葬儀の席で
司会の方に この詩を朗読してもらいました。
本当は自分が読み上げたかったです。
いまだ父を思うと 会いたくて泣きます。