またたびエッセイ集

ふと心に刺さった棘のようなもの。
それをきちんとしたコトバにしてみたい。

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価値とは

2011年05月09日 12時35分52秒 | こころ
結局の処、その人にとっての何かに対する「価値」は
対象にどれだけの対価を支払う気があるかでしか測れない。
もちろんここで言う「対価」とは金銭的なもののみを指すのではない。
 
素晴らしいワインがある。
ある人は全財産をはたいてもそれを飲む価値があると感じる。
別の人は「タダ酒なら素晴らしいのは認めるが自腹は切りたくない」と感じる。
これは直ちに後者にとってのそのワインがそれほどの価値しかないことを意味する。

別の例を挙げよう。
自分を虐げ理解せず愛情を感じない40年来の妻がいるとする。
方や、自分を愛し心が通い合う恋人を得たとする。
その恋人により、生まれて初めて本当に誰かに愛され理解される悦びを知ったとする。
ある日、崖っぷちで落ちようとする2人の腕を掴んでいると想像しよう。
あなたはどちらを選ぶのか? それがあなたの価値観ということになる。
「愛され理解される穏やかで幸福な人生」を自分の命に不可欠なものと感じるのか、あるいは、どんなに殺伐とし渇いていようが、それまで継続してきた人生を変えないことに価値を見いだしているのか。
ちなみに、「どちらかなんて選べない」と言う人は両方の手を離して一人になるか、もろともに自滅するかのどちらかを選ばなくてはならない。
 
何か「余りにも価値あるもの」に出会ったと感じるとき、私は常に自問自答する。
私はこのものの為に何を引き替えにする覚悟があるか、と。
常に秤にかけて重さを確かめる。
問われたときに慌てて考えずに済むように。
自分にとっての答えを前もって用意しておこうとする。
 


自分の物差しを常に磨くこと、それは大事だろう。
これまではそれで悔いのない選択をしつつ生きてこられたと思う。
自分で納得して選んだ道ならば、どんなに傷つき苦労してもいつか乗り越えてゆけると信じていた。しかし、生きていれば色々なことがある。いつもいつもそうやって前向きの苦痛に耐えていれば済むわけではない。
 
相手がいる場合に、それはやってくる。
双方にとっては100の価値があるなら良い。100もある、なのか、100しかない、なのかは問わない。要するに等価なら良いという意味だ。
ところが往々にしてそれは釣り合わない。
自分にとって100なのに相手にとっては10しかないような場合もある。
選ばずにいる間は問題は起きないが、価値の少ない側が選択を迫られた時、私にとって代替不能な価値を持つ何かが一方的に奪われるだろう。
あるいは逆の立場を考えても一緒だ。
 
この苦痛は簡単には乗り越えられないだろう。
 
自分と相手の想いが等価でないと気づいた時に、低い方の価値に目盛りを下げて釣り合わせておければ苦しまずに済むが、自分の心をそこまで冷静に制御出来るようになるにはあと千年ぐらい生きなければ私には無理だろう。
 

この苦しみへの処方があるとしたら、「相手にとってそれほどの価値がなかった」という「事実」を何度も繰り返し自分に提示して、徐々に「自分に価値がなかった」ことを受け入れさせてゆくこと以外にないのかもしれない。
 

 


 

 


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夢とうつつ

2011年05月02日 13時37分47秒 | こころ
Faureの有名な歌曲にAprès un rêve (夢のあとに)というのがあります。
原曲の歌詞は最後に紹介しますが、カザルスが編曲したチェロ曲にもなっており、チェロ以外にもいろいろな楽器で演奏されます。私もチェロでこの曲を弾きます。

YouTubeで巨匠の演奏を探していてロストロポーヴィチのものが見つかりました。




とても甘美な「夢のあとに」です。
知人の老チェリスト先生にこの演奏のURLを送りましたら、興味深いお返事をいただきました。曰く、「ロストロのフオーレは”夢の中で”であり、寝汗ぐっしょり、自分はフルニエとナヴァラのが良い。もっと冷淡で醒めた冷たさのある演奏が良い」と。
「子供の頃昼寝から目覚めたら、頭の上にたてかけてあった琴にちょうど初夏の風が吹きつけて琴糸を鳴らした。自分にとっては正にあれが”夢のあとに”である」

端正で上品で決して感情をむき出しにはなさらない静かな老先生らしい意見です。

私と老先生は2まわりは年が違います。たどった人生も時代も全く違います。
恋愛体質という奴なのか恋をすれば余りに強烈なエネルギーを注入してまっしぐらに突き進んでしまう気質だった私は、結婚も3度目でなんとか諦めたか落ち着いたか、というような恋愛遍歴の持ち主です。そういう波乱の果実として自分の中に育った「なにか」を表現の中に込めていかざるを得ません。
自分の書く詩でもそうです
  

私は「夢のあとに」の歌詞の世界に、あまりにも甘美で美しい夢から覚めてしまった直後の、胸の痛さ、深い喪失感のようなものを感じます。
まだ夢の感触が心に生々しく痛い感じ… そう。「生々しい痛み」がまだ残っている感じです。
いくら求めても「夢」だから二度と戻ってこない世界。
身もだえするほどの憧憬。
そういうわけで私は上記のロストロの甘美な演奏も好きです(^^)

でも、この演奏も好きです。 さっき見つけたばかり。ハインリッヒ・シフのチェロです。

■Faure: Apres un reve "Heinrich Schiff, cello - Samuel Sanders, piano"


 

そして私もまた今、Après un rêve の痛みの中におります。
二度と戻らぬ憧れ、美しい時間。
心の底では決してそれは自分の手に入らぬものであることを無常観とともに受け入れているけれども、やはりまだ生々しい夢の感触が蘇れば、ちくりと沢山の小さな小さな針が心を刺す。
 

夢とうつつ。 

うつつとは何でしょう? 
日常のこと? 日常はうつろい、過ぎてゆく。
ならばそれは「夢」と何が違うでしょう。
「夢の中の出来事」であったとしても、それが心の中の一番深い部分に根を下ろし死ぬまで消えないならば、それは日常よりも私にとってはずっと大切な「うつつ」となるでしょう。
 
何故なら、本当に私自身のもの、つまり私の心の一部になったものだけが私にとって意味のあるものだからです。





詩: ロマン・ビュシーヌ

まどろみの中、君の姿を見た
幸せを、燃え上がる幻影をぼくは夢見てた
君の瞳は優しく、君の声は澄んでいて
君は光り輝いてた、朝焼けに照らされる空のように

君はぼくを呼び、そしてぼくは地上を離れて
君と一緒に光に向かい飛び立った
空はぼくたちのために雲の扉を開き
ぼくたちは見た、見知らぬ神々しい光を

ああ、ああ、夢からの悲しい目覚め
夜よ!ぼくにお前の作ったあの人のまぼろしを返してくれ
戻れ、戻ってくれ、素敵な人よ
戻れ、おお、神秘に満ちた夜よ


Dans un sommeil que charmait ton image
Je révais le bonheur,ardent mirage,
Tes yeux étaient plus doux,ta voix pure et sonore,
Tu rayonnais comme un ciel éclairé par l'aurore;

Tu m'appelais et je quittais la terre
Pour m'enfuir avec toi vers la lumière,
Les cieux pour nous entr'ouvraient leurs nues,
Splendeurs inconnues,lueurs divines entrevues.

Hélas! Hélas! triste réveil des songes,
Je t'appelle,ô nuit,rends-mois tes mensonges,
Reviens,reviens radieuse,
Reviens,ô nuit mystérieuse!



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夜に想うこと

2010年05月09日 00時29分48秒 | こころ
本音をどこまで人に話せるか。
人には、「直接知っている相手には却って吐けない弱音」 というものがあるだろう。
友人、あるいは 家族。 夫だろうが遠い存在だ。

私がどこの誰か
顔も年齢も何も知らない 
顔も知らない誰かが読むのは気にならないのに
知っている誰かに読まれるのはイヤな何か。
なぜ イヤか。

片鱗だけを読んで わかった気になられるのがイヤなのか?
先入観なしで瞬間的な真実だけが伝わるのは
むしろ見ず知らずの他人なのかもしれない。

日常に潜むほんのわずかなトラップに陥り
泥沼に沈む数日間というのがある。
うっかり「友人」に苦しい心の中を漏らしたとしても
何度も繰り返すうちにいつか「狼少年」扱いされるであろうような
そういう状況。

それを危惧するから案外知り合いには吐きにくい。
吐かないで隠す。

だから私に「深刻な状態」が訪れていたとしても
「友人」たちも家族も何も気づかないだろう。
「またいつもの狼少年だろ、放っておけば回復するんだから相手にしなくても」
そう思うだろう。
そして、たまたま私が ある日 ある「一線」を越えて転落してしまったならば
彼らにとってそれは
「青天の霹靂」
「まるでそうは見えなかったのに」
「なぜそうなる前に頼ってくれなかったのか」
とか なんとか いうのだろうな。



些細な出来事(外部から見れば)を引き金として
何度も何度も
似たような落ち込みと復活を繰り返した延長線上に
たまたま 
「とうとうバランスをとりきれなくなった」
そういう閾値越えは発生するのだと思う。

不幸にして越えてしまった過去の誰にとっても。


はたからは狼少年みたいに思われる、
そんなレベルのことの繰り返しの果てに
たまたま。
たまたま、その日に限って、
どうにも支えきれなくなって
ぽっかりとあいた暗い穴に転落する。

それだけのことなのだ。
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お祭りのなかで。

2009年08月22日 15時11分31秒 | つれづれ
生きている、ということは
それだけで「お祭り」なんじゃないかと
最近思います。
猫たちを見ていると、
死ぬということは、お祭りが終わることかなと。

猫たちに
「いつまでもお祭りの中にいたいね・・・」
と話しかけています。
いつか、終わらなきゃいけないものとわかっているからこそ。

黙々と仕事をこなしてくれる
彼らの(私の)心臓、腎臓、肝臓・・・・
たべたものを化学分解して使って、ちゃんと排泄して
そのことにとても畏敬の念を感じます

生命って、「生き続けることだけ」 しかプログラムされていない。
それが本質なんだな、と。
自分が「生かされている」という思いが湧いてきます。

それは、「誰によって」の部分がない受動態の表現。
英語では産まれることを I was born と受動態で表現するけれど
まさにそうなのだ、と。

そうして、吉野弘さんの詩を思い出します。


===========================================
       I was born

吉野弘「現代詩文庫」思潮社

確か 英語を習い始めて間もない頃だ。




或る夏の宵。父と一緒に寺の境内を歩いてゆくと 青
い夕靄の奥から浮き出るように 白い女がこちらへやっ
てくる。物憂げに ゆっくりと。



 女は身重らしかった。父に気兼ねをしながらも僕は女
の腹から眼を離さなかった。頭を下にした胎児の 柔軟
なうごめきを 腹のあたりに連想し それがやがて 世
に生まれ出ることの不思議に打たれていた。



 女はゆき過ぎた。



 少年の思いは飛躍しやすい。 その時 僕は<生まれ
る>ということが まさしく<受身>である訳を ふと
諒解した。僕は興奮して父に話しかけた。



----やっぱり I was born なんだね----
父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返し
た。
---- I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は
生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね----
 その時 どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。
僕の表情が単に無邪気として父の顔にうつり得たか。そ
れを察するには 僕はまだ余りに幼なかった。僕にとっ
てこの事は文法上の単純な発見に過ぎなかったのだか
ら。



 父は無言で暫く歩いた後 思いがけない話をした。
----蜉蝣という虫はね。生まれてから二、三日で死ぬん
だそうだが それなら一体 何の為に世の中へ出てくる
のかと そんな事がひどく気になった頃があってね----
 僕は父を見た。父は続けた。
----友人にその話をしたら 或日 これが蜉蝣の雌だと
いって拡大鏡で見せてくれた。説明によると 口は全く
退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても 入
っているのは空気ばかり。見ると その通りなんだ。と
ころが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっ
そりした胸の方にまで及んでいる。それはまるで 目ま
ぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとま
で こみあげているように見えるのだ。淋しい 光りの
粒々だったね。私が友人の方を振り向いて<卵>という
と 彼も肯いて答えた。<せつなげだね>。そんなことが
あってから間もなくのことだったんだよ。お母さんがお
前を生み落としてすぐに死なれたのは----。



 父の話のそれからあとは もう覚えていない。ただひ
とつ痛みのように切なく 僕の脳裡に灼きついたものが
あった。
----ほっそりした母の 胸の方まで 息苦しくふさいで
いた白い僕の肉体----

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生きていることの意味などなくてよい

2009年08月21日 22時27分08秒 | こころ
「生きる意味がわからない」

こんな悩みがこの世には存在するらしい。
人間という動物の脳が、いたく病んでいる証拠のような、この考え。

私はほとんど、生きる意味を考えたことがない。いや、あったのかもしれないが、少なくともそれは重要な問いではなかった。

「あなたは今生きている。
 だからあなたは生き続けなければならない」

これは、手塚治虫「火の鳥」の中で、
火の鳥が人間に投げる言葉だ。
舞台は古代。火口の中で生まれ育った若者が、
「外」へ出ようと壁を登り始めるが、途中で苦しさにもうやめようと思う。
「なぜこんな苦しい思いをして生きなきゃいけないのか」と自問する。
そこにあらわれた火の鳥が、このように叱咤激励するのだ。

初めてこの作品を読んだのは高校時代だったろうか。

私はこの論理になぜだか圧倒された。

「なぜ生きなければいけないのか」
「なぜ死んではいけないのか」
その答えはこれ以外にない気がした。
「だって、私は今生きているから、生き続けなきゃいけない」

生命というものの本質。
それは「生き続けよう」という意思のみで出来ている、ということだ。
それは圧倒的ですらある。

細胞の一つ一つが、生き延びることだけをプログラムされている。
それが生命だ。
万に一つも、死のうなどと望むことはありえない。


細胞の意志が「死にたくない」ということである以上、
自殺というものは、まさに英語で言うところの kill himself、
生きたいと願うもの、死にたくないとあがく命を「コロス」行為なのだということ。



同じく、高校の頃だったろうか。

お風呂で自分の手足を見ているうちに
とても奇妙な感覚に呑み込まれたことがある。

「これ、あたし?
 これはあたしの体?
 まるで全く知らない物体みたい」

しかし、つきつめれば、
自分の肉体、その中で息づく臓器たち、
それらは皆、独立した生き物なのだろう。

「わたし」とは、単に「わたし」という自意識に過ぎない。

「わたし」という実体は実はなく、
あるのは、ただ、自意識などというものと無縁な、
それ自体が生き延びる意志を持ったひとつの生命体=肉体。

これは「わたし」だと「わたし」は認識するするが、
実は「わたしのもの」ではない。
じゃあ誰のものかといえば、誰のものでもない。


わたし、という自意識がいくら苦しもうが、
「それ」には何の罪もない。
死にたくない「それ」を殺すのは酷い行為だ。
そこにいる愛らしい猫を惨殺するのに等しい行為。


いつからか、そういう感覚が私の根っこに居座った。


何十年も律儀に故障せず働いてくれている、私の心臓。
私の腎臓や膵臓や胆嚢。
それら全てに畏怖の念を感じ、感謝する。

今 触れてあたたく脈打つ 猫のからだは
その心臓が止まった途端に 熱を失い、
やわらかさを失い、
そして たちまちに腐敗し始める。

すごいことなのだ。
心臓が間違いなく動き続け、
消化器はひたすら化学分解を行い
血液は この体を腐敗から守り 熱を維持する。


猫も 私も
他の生き物たち全てを
そこにあらしめている
「生命」というシステムの物凄さ。

そこに畏敬を感じ
手を合わせ
感謝する気持ちは
たとえ 血反吐を吐きそうなほどに苦しい中でも
きっと忘れるまい。


そう。
あの内臓が生きながらにしてむしりとられたような苦痛の中で
まさに死にたいとのた打ち回るようななかでさえ
心の奥底に 「わたし」と「私の体が持つ生命」は別のもの、
という意識がずっとあった私。



だから、私はいやでもこの体が機能維持を諦め
負けていく瞬間まで
このからだ に感謝しつつ、生き続ける


繰り返そう。

「生きる意味などない」
「そんなものは、なくてかまわない。」
なぜなら、あなたは今 すでに生きている。
あとは生き続けることだけなのだ。


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「20歳過ぎたら楽になるよ」

2009年08月02日 22時32分46秒 | こころ
19歳の頃
ある人に そういわれた。
いつも辛いつもりでいた私に
「20歳過ぎれば楽になるよ」って


あの頃
今思えば何人も男の人がまわりにいて
とんでもなかったけれど
本人だけは
いたく自分が
潔癖症なつもりでいたのでした。
 
同い年のBF
6つ上の男性2人
10歳上のOBの男性
一つ下の 家庭教師の生徒
大学の先輩

いろいろな人と
ふわふわしていた私でした

今の私の醒めた目で見れば
いい加減
自己愛的
何もわかってない
強欲

そんな若い娘が
人を沢山傷つけながら
そのことについては真剣に考えず
自分が苦しんでいることばかりで
頭がいっぱいだったね。

20歳はとうに過ぎたけれど
いつまでたっても

「楽」

になど ならなかったじゃない。

むしろ、拡散していたソレが
鉛のように一点に集中し
心の奥で
碇のように
何も見えない深海の底へと
私を縛りつけていくみたい。

楽になるのは 死ぬときだけよね?


だけども
昔は当たり前に感じていたいろいろな日常のことが
まぶしいほどに美しく見えたり
手を合わせて感謝する気持ちになったり

今のほうが
そういう心持が芽生えてる

それは 少し喜ばしいことに思える。

だって そういう気持ちは 美しく思えるから。
やっと少しだけ浄化できたかもしれない、と思えるから。



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まだ問いかけは終らない

2007年12月17日 13時05分30秒 | 裏切り
まだ問いかけは終らない
自分への問いかけ。
 
ずっと考え続けている。
まだ明確な答えは出ない。
 
なぜ 私は ここにいるの?
なぜ 私は これほどまでの嫌悪感を
  この人に ときに感じるのに?

 
その嫌悪感を忘れている瞬間もある。
たぶん、それは二人で猫を囲んでいるとき
 
たったひとつ信頼でき、愛情を共有できる場所。
そのときだけ いろいろなことを忘れている。
 
今に差し込む 美しい秋の午後の光。
窓の外に見える 街路樹の紅葉。
その先に見渡せる 輝くすすきと 落日。
ひとりで眺める風景は
私だけの宝物で
私の心を休ませてくれる。
 
わたしひとりで 歩むときは すこし寒いけれど 
   満たされていると感じるときがある
それでも 私が 「いま」をそのまま引き伸ばし 
   つづけているわけはなんだろう?
 
 
簡単ではない。
 
あらかじめ よそで定義されてきたような枠組みで
片付けてしまいたくない
 
ほかになにかあるはずなのだ
 
それがわからなければ、だめ。
 
 
私はなにに希望をつないでいる?
なにを信じている?
ないを信じていない?
なにを失いたくない?
 
 
なににこんなに怯えているのかしら?
 
 
サイバンをした。
それを茶番だと 他人は感じるかもしれない(いや、感じるだろう)
なにより
私自身の中に そういう冷めた「他者」がいる。

それでもそれを選んだ理由は。
 
・・・・・私自身が納得するため。

     何に?
 
 
関わった人間の それぞれの考えたこと。感じたこと。
その中で私はどこにどう位置づけられていたのか ということ。
 
その中の私が何を軽蔑し 何に傷つき 何を許しがたいと感じ
一生許したくないと感じたものが 何なのか。
そしてなぜそれが許せないのか。
 
 
考えたかった。。
 
考えて、考えて、自分のこのかたちにならぬココロを
みつめて みつめて
気が変になるぐらいみつめて
 
ほかの誰にもわかることはできぬ それ を
せめて私自身だけは わかりたい。
 
そういうこと。
 
 
そういう私を見捨てないひとが 数名だけ まわりに 残り
そういう彼らの人間の広さに 感謝し 尊敬するのです。
どうして 去らないでいてくれるのかしら、と 涙ぐんだりして。
 
 





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去年のこの日

2007年08月09日 08時56分12秒 | 裏切り
激しいフラッシュバック。
こわくてこわくて
夏のカレンダーが正視できないのです。
このあいだ、とうとう 破り捨ててしまって
うちのカレンダーは 10月・・・

だけど この苦しさは
共有できる相手がいない。

わたしが あなたの世界からは 疎外された人間だからこそ
去年のこの日に
あなたは やすやすと
あのような時間を過ごしたのだから


それも1度ならず


審理のために
供述書、みたいな書類を書かされます

ひとつ、ひとつ
去年の 同じ時期におきた
わたしの心を完全に潰してしまった あのできごとのシーンを
追体験しながら
頭の中に 描きあげていく

その絵の具は わたしの 血です



あなたがたは 痛くない。
わたしは 痛い。
なぜ??
どうしてそんな理不尽が。


苦しくて苦しくて 吐きそうです。
少したべても
吐いてしまうのです。

去年から こちら
泣いてばかりいる毎日。
だけどあなたの前で 泣いたことはほとんどないはず。


ひとりぼっちのときだけ
あるいは 声を殺して
あるいは 耐えきれなくなると
キッチンで
トイレで
泣くからです。


あなたの前でしないのは
あなたを信じていないから
 
 
むかしのわたしは 泣いて見せたはず。
それは どこかに希望があったからです。
わたしが あなた という迷路の中で
行き倒れになろうとしたら
見捨てず 救いの手を述べてくれるかも知れないという。
 
 
 
 
いま 私は 6等星ほどの希望も持っていない。

これだけいためつけれられれば
どんなお馬鹿さんだって
希望を持つことが どれだけ自分にRISKYか を学びます。
その分 無防備になって ダメージをくらう。
だから
信じない。
つまり あなたの前では決して泣けない。
   他 人
・・・・・・・・・の前で 泣かないのと一緒です。


あなたは 今日 この日の私の地獄を
ひとかけらも 関知しないことでしょう。
いつもと変わらず 仕事に専念し
いつもと変わらず 家に帰ってきて
いつもと変わらず(あの夜と一緒で) シャワーを浴びて
いつもと変わらずビールを飲む、
その自分のリズムを
妻の精神不調などという うっとぉしいもので 邪魔されたら 不愉快でしょうから
わたしは お邪魔をいたしません。
死ぬならひとりで死ぬし、
私の友人たちが 知っている心の軌跡を
   (だって あなたは
    一度もそれを 知りたがらなかったから。)
あなたには なにひとつ 知らせず 消えてあげましょう。



妻を裏切ったまま ひとり楽しくやっている●●●さんも
婚外で誰かとつきあう自由を制限されたら息が詰まるわ!
・・・・といっている◎◎さんも
みな 死んでください。
 
 
足を踏んだことしかないひとたちは。
本望でしょう?
好きに生きて殺されても。
そのぐらいの覚悟はあるんでしょう? 

  も ち ろ ん。
 
 
 
 

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『情熱的にときめいてみたい』なんていうそこのアナタ。

2007年08月02日 16時22分01秒 | 
私のいわゆる恋愛遍歴が うらやましい、という そこのアナタ。
人生をとりかえられるものなら 喜んで取り替えてあげますよ。

それにしても、自分の人生を「ドラマチックですね」、なんて言われると
かなり違和感を覚えます。


そりゃ…そう見えるかもしれないでしょうけど、だから何?
あなたは「ドラマチック」に生きたい?
…できますよ。誰だってその気になれば


ただし、命がけでやってください。
「ときめき」も「情熱」もはコンビニには売ってません。
そして、「ときめき」の代償は とてつもなく高かったりする。

そんな高い対価は払えないから、「万引き」しますか?

笑っちゃいます。
払えないなら 望むのもやめておきなさい。


気力も体力も相当にいるんだから。




大恋愛してみたい?
自分の脳内の幻想でしかない、あんなものを?


あなたがたが羨ましがる「情熱的な恋」は
少なくとも私を幸福にしたことがありません。
もう飽き飽きしました。

あんなの、ヤク中のハイテンションと一緒。
(ヤク中になった経験はないけどね。美容にも悪そうだからw)
ヤクが切れるのがこわくなるだけじゃないですか?
それはすなわち 何かに追われること。
それで心が安らかになれるわけがない。


いやっていうほど痛い目にあって
甘美な想いなんかより、しんどいほうが多くて
30代前半までならそれもいいでしょうけど、
いつまでもやってらんない。


恋なんて 不毛。
もう沢山。
そんなふうに嘯きたくもなる。

あの大脳皮質が融けちゃうような感覚を 気持ちいいとは感じなくなってしまった。
おそらく、それを苦々しく感じる別の自分が冷淡に観察してしまう。
もし 相手が勝手に陶酔していれば、たぶん今の私はそれを 
とても冴え冴えと醒めた目で眺めてしまうだろう。

今の私は、
酒をいくら飲んでも酔えない、ああいう感覚になってしまったのかもしれない。



だけど、たやすく安酒に酔っ払う人々が
そこらじゅうに蔓延していて
それが 私をうんざりさせてしまうのだ。
君たちは、私に、そしてあなたが言うところの「ときめき」に何を期待するのだ?


悪いけれども ひとりで酔っ払っていてくれたまえ。


私は 独りで 空でも見ているほうがいい。

人の心も
自分の心も
ときおり
ハサミで切り落として 切って捨てたくなる。





      
      谷川俊太郎

鳥は空を名づけない
鳥は空を飛ぶだけだ
鳥は虫を名づけない
鳥は虫を食べるだけだ
鳥は愛を名づけない
鳥はただふたりで生きてゆくだけだ


鳥は歌うことを知っている
そのため鳥は世界に気づかない
不意に銃声がする
小さな鉛のかたまりが鳥を世界からひき離し鳥を人に結びつける
そして人の大きな嘘は鳥の中でつつましい真実になる
人は一瞬鳥を信じる
だがその時にさえ人は空を信じない
そのため人は鳥と空と自らを結ぶ大きな嘘を知らない
人はいつも無知に残されて
やがて死の中で空のために鳥にされる
やっと大きな嘘を知り やっとその嘘の真実なのに気づく



鳥は生を名づけない
鳥はただ動いているだけだ
鳥は死を名づけない
鳥は動かなくなるだけだ

空はいつまでもひろがっているだけだ





10代の頃に出会って 心に刻まれた、この詩。



だけど アンビバレンスのかたまりのような わたくしは
鳥のように 生きることは できていない


















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あなたと わたしの距離

2007年06月27日 14時29分03秒 | 裏切り

ある夜。

共通の友人と

3人で飲んでいた。

 

「宝くじで3億円当たったら どうするか?」

などという他愛のない話題。

 

わたしは 

「趣味の店をやりたいなぁ」

と云った。

 

夫は

ごく当然のような顔で

その景色のなかでの 自分の役割を

笑いながら 友人と語った。

 

 

胸に感じたひっかかりは たぶん

自分は その夢の景色をえがくときに

無意識

わたしひとりを配置していたから。

わたしの描くシーンに

夫はいなかったから。

 

だって 裏切り者だもの。

裏切り者と 夢の未来の中でまで

一緒にいるわけがないでしょう?

 

 

だのに

そんなことは まるで 感じていない風の夫をみて

ちくり と 胸に違和感が刺さったのだきっと。

 

 

痛かった人と

痛くなかった人の

ズレ。

 

そこらじゅうに。

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恋、なんて。

2006年10月11日 12時48分57秒 | 裏切り

矛盾だらけの自分のこころに疲れています。

 

憎んだり 愛したり

冷淡になったり 石になったり

涙のかたまりになったり

 

ただ ひとつだけ

ほんのりとあたたか にだけは なれなくなりました。

一番 なりたい心。

 


嫉妬? いいえ そんな単純な感情とは違う。

憎しみ? それは ずっと心にある。

軽蔑?  軽蔑すべき悪しき品性の片鱗を知ったのは ずっとずっと最初のころ。

   だけど それが100%ではないのだから 別に、いい。
      だいたい、この私だって 軽蔑すべき卑しき人間のひとりだ。

 

 

 

では・・・・さみしさ?

さみしさ、なのだろうか?

わからない。

寂寥感?・・・・そうかも。

暖かな夏の海の水の中に ふわふわ漂っていても

ときたま 冷たい水のかたまりが 通り過ぎて ぞくっと鳥肌をたたせる

 

 

恐怖?・・・・・・・・・たぶん きっと そんなのも混ざってる

 

 

泣けない。泣く場所がない。

泣いて泣いて 吐き出してしまわないと

石臼のように海のそこに沈んで浮かんで来れなくなるかもしれない。

だけど 

彼の横で泣いてはいけない。

 

 

 

だって人は 自分を責められるのは大嫌いでしょ?

自分を責める人を憎むじゃない。

しかも 彼は 自分でも自分を責めない人間だ。

ましてや 自分以外から責められたって

逆切れするか 責める相手を憎むだけなのだろう。

責めているつもりでなくても 

彼の行為で傷ついた涙を見せられるというのは

きっと彼には そういうことになってしまうんだろう。

そういう人なのだから。

 

 

 

出合ったころ 彼が示したものは「情熱」であって「愛情」ではない

そんな単純な真理を 理解できなかったのは

その激しい自他の情熱のなかで 完全に自分を見失っていたからだろう。

そして きっと 彼が私をなじるように

私は彼を愛してなんかいないの?

もう自分で自分のこころがわからない。

私は彼を愛してないのか?

彼がいうのが正しいの?

 

自分の中の識者がクールにささやく。

「それは利己的な彼の言い訳にすぎない」

うなずきたい。だけど 自信がない。

いったい 相手を愛している、と 絶対の自信をもっていえるときって

どんなときなのだろうか?

 

 


恋は自分をなくすから

あんまり 激しく恋してしまうと

人は幸せにはなれないのではないかしら

恋は 人を幸せになどしないのではないかしら?

 


すくなくとも 私の人生はそうだ。

 

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私は 「記号」 ではない。

2006年10月04日 18時07分43秒 | 裏切り

女からは「奥様」という記号。
彼からは「女房」という記号。

そして、どちらからも疎外されているという感覚。

 

・・・・・ずっと考えていた自分の心の反応の奥底を
言語化してみようとする試み。
一部しか言語化されていないのかもしれないけれど。


やりきれなさの根源にあるのは 「疎外感」 だったのだろうか?

 

「記号」だから 生々しい感情を引き起こさない。

「記号」は、彼らの中の私は血肉を持たない情報でしかないというわけだ。

 


だけど。

 

他者の存在「記号」としてしか受け取れない人間は

やはり 想像力が欠如してないか?

 


 

遠いよその国で繰り広げられる戦争も  「記号」

誰かの不幸も  「記号」

うっかりしたら 人間の頭の中など、記号だらけになる。

 


 

人の痛みを自分のものとして どれだけナマで感じることができるか。

それが人としての想像力だ。






私 は 記号 ではない。

私 は 血肉を持った 心を持った女だ。

私 は とても生々しい存在だ。




記号化されることは 殺されることと同義だ。

あなたは私を殺したのだ。

あなたは殺人犯と同じなのだ。

あなたがたは。

 



 

見なさい。

この塞がらない傷口を。

これはあなたが刺した傷口なのだということを。

 

 

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冷酷だった20歳の自分へ

2006年09月27日 13時53分13秒 | 

        

それなのに あなたは
コトバを手放そうとはしなかった

コトバの洪水を
わたし に 浴びせ
わたしの
口 を こじ開けようとする
あなた


そうやって 中に
生まれようとしていた
真珠を
殺してしまう

 


    鏡は 曇り
      鏡は 割れる


新しい 粒 を 宿すため
わたしは 身づくろい し

毒に しびれて
あなた は 底で
のたうちまわる


これは 20歳のときの 私の詩である。

当時つきあっていたのは6つ年上の男性だった。
もう1人の男性も絡んでいて、かなりどろどろになった。

しかし 20歳の娘に、26歳の男が勝てるわけはないのだ。
当時の私はもちろん、そのような「自覚」は持ち合わせていなかったが
今の自分からなら、よく見える。

ここに在るのは なんと冷酷な娘か。

ダイヤモンドのように疵付かず、
平然と自らの毒にあたった男を見下ろしている。

なんと傲慢な娘か。

 

いくら多くの「恋」をしても
人はあまり変わらない。

恋は 所詮 恋なのだ。

脳内で編み出される 自分だけの世界。
相手は映っていても 映っていない。
映っているのは 自分が生み出した幻像。

 

 

時は経ち  今 私の隣には 狂おしいほどに恋した男がいる。
かつて この男への狂乱の恋愛感情に私は 完全に自分をなくした。
そう。恋は自分をなくすからキライなのだ。
恋する自分を軽蔑し そんな自分に自尊心を傷つけられ
這うようにして それでもまだ 私をここにつなぎとめるのは一体何?

なぜだろう。 なぜと問うて 答えは出るのだろうか。

 

今の私は 
20歳の私とは違い、
この男の毒に当てられて 
地べたでのたうちまわる存在。

 

永遠に続くかと思われる苦しい自意識の戦いの中で
ひとつだけわかっているのは
もし 今  前出の詩のような場所に自分が立ったら
今の私は  のたうちまわる男に
手を差し伸べるだろう ということ


今は
相手の胸に刺さった棘は
私の胸にも同時に刺さるであろう ということ

 

その変化が
今の自分の 逃げ出せない地獄を生み出しているのかもしれないが


 

 

 

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父よ。母よ。弟よ。

2006年05月28日 00時57分54秒 | 家族

父を亡くしたのは 去年の秋口のこと。

 

この春 父が世話人をしていた詩の同人誌から、追悼集が出た。

それを知ったのは ごく最近だった。

弟が 生前の父に託されて、詩人達と連絡を取り合いながら話を進めたということだ。

詩人としての父を弟よりも多分愛していたと自負している 娘 は 最期の仕事 に 関わる機会すら与えられず、その間 静かに無視された。


突然 受け取った その遺稿集には 「遺族からの寄稿」ということで母と弟の文章が載せられた。


私 は 遺族ではない。 私 は 父の 後継者 ではない。
詩のひとつも縁がなかった弟に 父は 詩人としての自らの「その後」も託してしまった。


私 は 疎外された存在。

 

そんな悔しさが 静かにわきおこる。

 

何度も味わった この種の疎外感。

それは いつから 宿ったか。

 

 


まず、姉が生まれ、3年後に 私が生まれた。
「また女」と落胆された。

しかし 私は ある年齢まで 「長男」として育てられたように思う。

勉強もできたし学校でも目立っていた。
音楽をやらせたらやらせたで、どんどん上昇気流に乗った。
だから。


たしかに ある時期まで 男 として 育てられていた。 母親に。
(拙稿「黒いランドセル」参照)


7年後 弟が生まれた。 待望の「長男」の誕生。
産院から帰る父親は小躍りしていたそうだ。


「長男」が高校生になる頃 娘 は 少しずつそれまでの役割を剥奪された。
それはそうだろう。本物の長男が登場したのだ。
代替品にはもう用はない。


静かな疎外 が始まる。


・・・・大学。

私が本命の国立に落ち、滑り止めの早稲田に合格したとき、母親は何と言ったか。
『国立に落ちたんだから就職しろ』の一点張り。
父親の取りなしで どうにか大学に入ることができた。

・・・・就職。
現役合格、留年なしで卒業して、いわゆる一流企業と呼べるところに就職した。
これで母親にも認めて貰えるのだろうかと たぶん私は思ったはずだ。
母親のご機嫌取り。
そして 社内結婚。

そのころ 弟の大学受験を迎える。


弟は いつも 私の後を追っていた気がする。
高校受験のときは 私の行った高校を目指したがかなわず、1段下の高校へ。
そして 大学受験。
やはり 目指したとおりにはいかず 2年も浪人生活を送る。
その結果が 明大。


母親は何と言ったか?・・・・・何も云わない。
『男の子なんだから』


就職しろとは 口が裂けても言わなかった。
私の時とは違って。


2年浪人しただけではない。
弟は その後 ご丁寧に「留年」までしたのだった。

 

しかし 母は 何も云わない。


・・・・・・・・・・・おそらく 母も弟も そういったことに無自覚=イノセントなままだろう。 私がこのように心の底にずっと消えぬものを抱えていることなど。


そう。
疎外は まだ続く。


10年ほど前に父が 生まれて初めて 分譲マンションを購入しようと物件探しをしていた頃のこと。 不動産購入経験が2度ほどある私は、乞われて、一緒に物件を見につきあったものだ。

ある物件はメゾネット方式になっており、室内に階段があった。

母が ひとりごつ。

「こんな階段があったら、もし将来 ●●(弟の名)のお嫁さんが妊娠でもしたとき、危ないわよね」


その台詞を聞いたときの私の心中がおわかりだろうか。
母にも弟にも永遠にわかるはずのない、ショックを。


話せば長くなるが聞いていただきたい。


その1年ぐらい前のこと。
私は切迫流産で大学病院に入院していた。
私の2度目の夫と暮らし始めて半年ぐらいのことだった。
夫は多重債務者だった。しかもそれは結婚することが決まってから明かされた秘密だった。内部事情もいろいろあるが、私は信じた人に手ひどく裏切られたという想いから癒されぬままの借金に追われる生活のさなかだった。
調べてみると夫の多重債務は優に1000万を超えていた。悪いことに私自身がバブル崩壊で不良債権化した中古マンションのローンを抱えて身動き取れなかった。経営参加していた社員数名の零細企業は売上が立たず給与も遅配。
しかも夫の性格的な問題点も明らかになり、不安のどん底の中での妊娠だった。

私が走り回らなければ会社が回らないのに入院などしていられる身分ではなかった。おまけにK病院は大部屋がなく差額の必要な2人部屋。
経済的事情で、産んでも 自分ひとりでは 育てられない、という絶望。

それだけではない。
産んでも 夫がどう子供に対するのかを想像したら恐ろしくて産むことを躊躇する、という不安。
なぜならば夫は崩壊家庭の子息で、父親を激しく憎んでいた。夫が母親の腹の中にいたときに実父が「経済的に無理だから堕胎せよ」と家計簿を証拠書類に家裁に堕胎を申請したのだそうだ。父に殺されかかった子供。
その憎悪は計り知れなく、父と息子の間の確執を温存した夫は、生まれてくる子供が万一男の子だったら、間違いなく・・・・・・
もちろん夫は妊娠を喜びなどしていなかった。

あの入院時代は忘れもしない。
病室は2人部屋だったが、隣のベッドには家族全員から妊娠を祝福された妊婦が寝ていた。

私は孤独だった。誰も味方がいないと思った。
おそろしかった。

そこへ 見舞いにやってきた 母親は、こう言ったのだ。

「あんた、自分たちだけでどうにかできないんなら 
 早いうちに
始末(=堕胎)しなさいよ。
 親をアテにされても困るんだから」

 

一生忘れない、その台詞。

 

娘には 子供を始末しろという台詞を平然と吐いた その母親が
当時まだ恋人の影すらなかった弟の 
「未来の赤ちゃん」のことを 心配する。

その残酷さ。


あなたに わかるだろうか。
私の心中が。

 

 

・・・・・・・そして 父の入院。死去。
確かに私は一緒に暮らしていない。

だからといって。

 


やるせないのは、母も弟も まるでそんなことには気づきもしないだろう、という現実だ。

 

私は この淋しさを どこにぶつけようか。

そう。
そういうときに 心をみつめ
自分を保つために
「書く」ということを
その生き方で教えてくれたのが 父だったのに。


私は 書く。
私は、こうやって コトバに向き合う。

そうすることによってしか、私は私をつなぎとめることができない。

父よ。
母よ。
弟よ。

私は あなたたちから 静かに疎外され 遠くにいる。
遠くで 今日も ことばと格闘している。

 

 

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「私たちは皆、無自覚に病んでいる」

2006年05月28日 00時22分53秒 | こころ

山本文緒の「シューガレス・ラブ」という短編集を読んだ。
そのなかの一編  「秤の上の小さな子供」  より。

                                ◆

登場人物は柊子と美波という二人の女性。
二人は大学時代の友人だったが
ある日 街で再会する。

美波の現在の職業はソープ嬢。


美波は昔から並はずれてデブだった。
それなのに  学生時代から何故か男にもてた。
納得がいかない柊子。柊子は必死のダイエット中なのである。


美波のことば。

   「ねえ、本当に面白いわね。
    もてたかったら 痩せろって 世の中は女の子を煽ってるじゃない。
    雑誌でもエステの広告でも。
    でも、痩せてようと太ってようと 美人だろうとブスだろうと、
    もてない女はもてないの。」

柊子 「美波はもてるものね」

美波 「そうね。私には自分がないから」

柊子 「?」


美波 「ねえ、私が今まで会った人の中で 
          愛されたいって思ってない人は一人もいなかったわ。
    男も女も、あなたもそうよ。皆愛されたがってるの。
    話を聞いてほしくて、 肯定してほしくて、
    頭を撫でて可愛い可愛いって言ってほしいの。

    だから私はそれをしてあげる。 ただそれだけのことよ。

    世の中には愛されたがってる人ばっかりで、
    愛してあげられる人はほんの少ししかいないの。
    貴重がられて当然よ。」

 


柊子は、痩せさえすれば、
テレビなどで見かける女の人のようになれば   
自分も幸せになれると思っていた。
だけど 彼女は結局のところ  18のときと変わらず
何も持っていない不安な、孤独な子供のままだった。

少しでも太ったら  もっと失ってしまうような気がして
食べ物が喉を通らなかった。

彼女は疲れ切っていた。


美波を通して 柊子はやっと気付いた。
自分がこんなにも飢えた子供だったことに。
それなのに
どうやってものを口にしたらよいのかわからないのだ。

 

  そして小説のなかの「柊子」は語る。(以下引用)

 

美波にしても ただ単に「もてている」だけなのだ。
彼女は穴の開いたバケツのようなものだ。
いくら入れてもいっぱいにならない。
そして人がものを入れなければ、彼女はタダの外側だけなのだ。
自分がない、ということはそういうことだろうか。


この一編は強烈に私の印象に焼き付いた。

美波のいう、それは ほんとうに  「愛する」 ということだろうか?


自分のない人に  話を聞いてもらって、
片っ端から肯定してもらって、
頭を撫でて  可愛い可愛いって言ってもらうこと、

穴の開いたバケツに 自分という液体を ありったけつぎ込ませてくれること、

 

それが「愛されること」だと  あなたがたは錯覚しないほうがよい。

もちろん それが「愛すること」だとも。

 

 

 

 

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