食堂に3ヶ所にわたって塗り絵が飾ってありました。「いいな」と感じました。しかし、なぜいいなと感じたのか、自分の気持ちが整理できないままでした。パッと見て直観的にいいなと感じたのだが、よく見ればはなはだ稚拙な塗り絵でしかない。それをなぜ私はいいなと感じたのだろうか。
●技術的、認知的には稚拙だが・・・
2歳2カ月の孫の塗り絵、見られていることを意識しないありのままの塗り方で、稚拙だが生き生きとした勢いがある。まだ形を意識していない色を意識していない、指先、手首腕の運動機能のままに動かすことの筋感覚的な快や視覚的な変化を楽しんでいる。稚拙だが、上手になって、この1カ月の変化を如実に感じるからすごいと思える。
さて、食堂に飾られた塗り絵はどうであろうか。平均年齢30歳、知的障害者の塗り絵である。だんだん上手になっているとは感じられない現実である。ムラがあり形を無視した塗り方で、たとえ形を意識しているように見えても丁寧さがなくぎこちなくはみだして、技術的、認知的にはお粗末な塗り絵であるといわざるを得ない。でも、直観的にいいなと感じたのだ。
●作品の中に人間関係を見ると・・・
技術や認知の視点ではなく、これらの作品の中に1つの時間を共有した関係を見たからなのかもしれない。こんな活動をしている人たちだ、こんなことが好きなんだ、これを一緒にやったんだ、笑いながら「何色にする?」「いいね」と声をかけられながら楽しい時間を共有したのだ、和やかな時間がこの作品になったのだ、と感じたのである。
●生活介護利用者への応援は・・・
こんなアドバイスを受けた。生活介護を利用する人たちの働くということは、やれること、できることを引き出してまとまりのある力、1つの形にすることだと教わった。すると、この作品群は彼らの働きの成果なのだ、と改めて思った。
千歳台福祉園のミッションは、一人一人が主体的に生きていく歩みを応援することだ。人は、一人で生きていくわけではないから、人との関係の中で生きていく、大事にされることで幸せに、大事にされないことで幸せでない歩みになる。そのうえで、主体的に生きることが大事になるのだと肝に銘じている。
●なぜ「いいな」と感じたのか
直観的な「いいな」を改めて整理してみた。でき具合、形、結果は個体としての完成度であり、個別能力で見る評価的な価値観である。一般論では、個別能力を発揮することが幸せや「いいな」の基準になっているのだが、そうではなく、別の見方に立つことで見えてくるものがある。楽しい時間を過ごしたのだ、これが好きなのだ、一緒にやってくれる人がいたのだ、関心を持ってくれた人と一緒だったのだ、その時間を共有する関係があるのだ。これが幸せの土壌なのだろう、と思われた。このような感覚で見て「いいな」と感じたのである。知的障害者の生き方を応援する視点として改めて考えた。
施設長 村瀬精二