遥か狂乱の祖国を離れて

 

 ドイツの美術館で久しぶりに思い出した、ハンス・プルマン(Hans Purrmann)。作家ヘルマン・ヘッセとの友情で有名なのだが、私にとっては、その昔、静物画というジャンルの絵を観て初めて面白いと実感させてくれた画家。

 ドイツに表現主義が大きく盛り上がっていく時代、フランスのマティスに心酔し、終生、パリでもベルリンでも、亡命先のスイスでも、マティスに負った自らのスタイルに忠実だった。そのせいで祖国の画壇を追われた画風を手放さず、祖国の暴走の行方を見守った。

 父親の工房で室内装飾を修行したが、満足できずに画家の道へ。ミュンヘンで絵を学んだ同期には、クレーやカンディンスキーらがいた。
 ベルリン滞在の際に、当時のドイツ画壇の大御所、マックス・リーバーマンに薦められ、ベルリン分離派展に参加。この頃からドイツは、人間の内面を吐き出す表現主義が興隆する。が、プルマンは表現主義には傾倒しなかった。彼が夢中になったのは、その後すぐに赴いたパリで出会った、野獣派のマティス。

 なのでプルマンの、自然光あふれる、明るくカラフルで繊細な、いかにも絵画的な瀟洒な画風は、決定的にフランスとマティスとに負っている。パリで交流のあったピカソらのキュビズムにも動じず、現実を現実以上に豊かに創造する色彩讃歌が揺らぐことはなかった。

 その後、パリにて、同郷の女流画家と結婚。だが、第一次大戦が勃発し、帰国を余儀なくされる。この戦争中、多くの作品をパリのアトリエごと失った。

 以降、第二次大戦前夜まで、活動の拠点はベルリンへと移る。が、ナチスが台頭すると、彼の絵は、「おフランス的すぎる」という理由で頽廃芸術と見なされ、ドイツ画壇から追放される。
 ゲシュタポ監視下にあったプルマンは、失意のうちに死んだユダヤ人画家リーバーマンの葬儀に列席したことで、ドイツを逃れる。フィレンツェでヴィラ・ロマーナ校長の地位を得るが、ムッソリーニ転落後、北イタリアがドイツに占領されると、スイスに亡命する。

 長くそばで支えてくれていた妻が病死し、絵を描く気力を失ったプルマンは、ヘッセの住まうモンタニョーラ村へと移る。ナチズムの時代、ヘッセの館は、迫害された亡命文化人たちが住み着いていたのだった。
 連合軍の爆撃で、ベルリンのアトリエは燃えてしまう。だが、あの頃と同じ色彩は画家のもとに戻って来る。「仕事場の老画家」は、プルマンに捧げられたヘッセの詩。

 戦後、バーゼルにて死去。

 画像は、プルマン「花瓶とオレンジとレモンのある静物」
  (Hans Purrmann, 1880-1966, German)
 他、左から、
  「浮彫細工のある静物」
  「マリー・ブラウネの肖像」
  「裸婦」
  「カーサ・カムッツィのヘッセの部屋」
  「ラジョーレ館の中庭のベンチ」

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