夢の話:無知への憤り

 
 小さいときから私は、夢のなかで自分を追いかける奴らの理解のなさに、憤怒し、辟易していた。
 
 例えば、餌を探すトラやライオンに追いかけられたときには、「あっちにもっと、美味しそうな太った奴らがいるのにー!」と憤った。木の根っこと思って踏んだ地面の盛り上がりが、実は地中に眠るゴジラの尻尾で、怒って眼を醒ましたゴジラに追いかけられたときには、「わざとじゃないんだから、そんなに怒ることないじゃんかー!」と憤った。
 もちょっと大きくなって、文化祭で模擬店を出していた新興宗教集団に勧誘され、断ったところが、内情を知られた上では生かしてはおけない、と追いかけられたときには、「自分たちが勝手に秘密をペラペラ喋ったくせにー!」と憤った。洞窟での村民たちが秘密の儀式をしていて、それを見られた上では村から出すわけにはいかない、と追いかけられたときにも、「見てなんかいないったら、通りかかっただけなんだってばー!」と憤った。

 追いかける奴らの、追いかける理由の道理のなさ。説得したり弁解したりしても、それを理解するだけの頭のなさ。仮に私を上手く捕まえて始末しても、すぐにまた同様の邪魔者が必ず現われるはずなのだから、結局、私を追いかけてもあまり意味がないのだと悟るだけの先見のなさ。
 ……そういうものを憤りながら、私はいつも逃げていた。

 私にとって夢の世界は、リアリティを持つ。そして、夢には夢の合理性がある。その夢のなかで私は、物事を合理的に考えようとする。……らしい。
 例えば、乗っていた電車が事故に会って、海のなかに落っこちてしまい、ジョーズ顔負けの超巨大シャチに電車ごと襲われたとき。私はシャチの、どでかい丸い鼻先は、車両の四角い隅には届かないだろうと考えて、大破した車両の角に必死になってへばりついた。……相棒はこれを聞いて、大いに笑ったんだけど。

 夢も合理性を持つ、と思う。だから私は、「夢の世界のような」と称して取りとめのない世界を描くシュルレアリスムの絵が、全然理解できないでいる。
 夢とはもっと豊かで、意味を持ち、しかもスピリチュアルなものだ、と思う。

 To be continued...

 画像は、ルドン「眠る女の頭部」。
  オディロン・ルドン(Odilon Redon, 1840-1916, French)

     Previous / Next
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« ギリシャ神話... 煙害の憂鬱 »