聖書あれこれ:トマスの不信(続)

 
 トマスの反応は神に対する、畏怖というよりも単純な驚愕だ。次に来るのは、自分の懐疑に対する悔悟や狼狽ではなく、神の存在に対する感激だ。彼の不信仰は誠実で、その懐疑は信仰を排除しないからだ。

 私はこのトマスの率直さが好きだ。そして、その率直さを良しとするキリストが好きだ。

 実際に見るまでは信じない、と言ったトマスを、他の弟子たちは咎めない。ましてや、「不信心な罰当たりめ」とか「お前以外の者は全員信じているんだぞ」とかとは詰らない。
 キリスト本人も、トマスが疑ったことを叱りも責めもしない。トマスのほうも、自分が疑ったことを恥じたり謝ったりしない。

 このエピソードから、私の想念はてんでに勝手な方向へと広がってゆく。

 一、ドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」で述べたこと。無理強いされた信仰には何の意味もない。信仰に、物的証拠などナンセンスだ。聖トマスにはもともと信仰があったから、復活を信じたのだ。現実主義者は物質主義者ではない。そして現実主義と理想主義とは、相容れないものではない。……

 二、その派生で思い出す、かつての相棒の言葉。おそらく自分のことを含めて言った、「まったきリアリストは、まったきロマンチストだ」。

 To be continued...

 画像は、グェルチーノ「聖トマスの懐疑」。
  グェルチーノ(Guercino, 1591-1666, Italian)

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