老いぼれよれよれ道中記

ひまなじっさまが、余生のあるうちはと、内外のおもしろげな街や村をほっつきあるく旅日記

インド道中記84

2007年03月22日 | Weblog
3月22日いま1:40プン。おなじみニューデリー駅前の、ネっと店に、家財用具一切?をもちきたりて、列車出発前の待ち時間を使ってのご挨拶であります。

昨日21日。早朝、一番乗り的気分で、在インド・パキスタン大使館に参りまして、小窓から笑顔で、「ジャパニーズ。わしyamada!」と声をかければ、すでにおなくなりになったフセインさん的アラブ顔の、係員どのが、パスポートの束を手にし、中から、赤色・・・まちがいなし。日本のいろで、わしの一冊だけ。

抜き散り、ニコリと渡してくれるセルフがなかせてくれました。
「ウェルカム!!!!!」
えっ、「どうぞいらっしゃい。われらの国パキスタン」のお誘いですよ。
まっ、当面は様子見ですが、やはり、行かなければならないか?。
悩みは深くなりにけりの状態ではございます。

昼前で、この日の最大の仕事がおわれば、広大な庭園風デカ区画というか、大別荘地と申すか、要は、世界各国の大使館が200メートル道路をはさみちらばる「大使館通り?」を、ハ・ハーン。インドさんも「やる気になれば、こんな町つくりが出来るんだなあ。えらいえらい。」と感心しつつ、かねてからきになっていた
「国立インド鉄道博物館」にひとりとぼとぼ・・・

で、つぎつぎ各国大使館の前をとうりすぎるとき、ちょい気になるデカ建物があり、近づこうとすれな小銃をもったヘイタイサンが阻止!「どこのネーションきゃあ?」とたずねれば「ロシヤ」ということでしたが、丁度そのとき一台のリッパな乗用車が重厚な鉄扉の玄関先に。

いや、いいところを見せていただけました。
なんか、車を持ち上げる「ジャッキ」風の地を這うような押し車が持ち出され、乗用車の車体下にグルグル引き回され・・はい。ガラスがはめられており、要は下から「爆薬」が仕掛けられていまいか、検査する道具なんでして・・・

ワタシ、ニュース番組などで、見た記憶がございますが、ホンモノは初見参。
テロの恐怖というか、爆弾の威力をかなり身近にかんじたわけですが・・・
その怖さを棒引きするような、おのしみのアイデア?

うん。わしはやらんけど、もしモシ、あほなやつがおって、その「したから覗き機」を、持ち出し、人並みの中で、スカートの娘さんに近づいていけば、それこそ「大人気」。ひとりぶらぶら、話相手がおらないと、ホント、人間というものはツマラヌ方に連想が働くものではありますうなあ。

ご承知。インドは世界に誇る鉄道王国。その看板ともなるであろう「国立鉄道博物館」は、その大使館街区をつけぬけたあたりで、やはり広大な公園風施設を展開いたしておりました。

前回の第一次作戦時も、偵察にきましたが、「月曜日」ということで、閉館。
ならばと、今回はリベジンなんですが、もうひとつ、わしの出来がわるいため後を継ぐことありませんでしたが、なき親父は「鉄道」一筋の人生。

いまなら、ある程度の職階になれば、海外の鉄道施設視察も公務的に可能でしょうが、当時はなまじっかの役職ではムリのはず。
多分、その名前をしっていても「ほんじゃ、得意の国鉄職員パスをつかい今度の日曜日に子供をつれてインドの・・」

となれば、はたせぬ親父の夢を!!。これぞ供養!!
そういうわけで、わしはなにも自分かってに好きに歩き好きなところをみているわけえはなく、しいていえば、遅まきながらの親子孝行の旅路?
大義名文はあるんであります。

で、夕刻、ちかく、デリー駅の安宿に入る前に、駅舎2階の「外人用予約センター」により、「よし、パキスタン・ビザを手中にすれば、キタナッコイこのデリーを一刻もはやく脱出と、翌日22日PM3:50発チャンデガル行きエアコン指定席指定上等キップをゲット。

で、本日22日は、ホテルの温水シャワーでデリーの汚れをながし、アジャイ・ホテルにある日本人情報ノートから、行くことになるかもしれない、国境越えをふくめての「パキスタン参考事項」を大急ぎでさがし、大急ぎで転記し・・

移しきれぬとわかれば「コピーショップはどこきゃあ」と、大急ぎで聞き出し、
「ソレ行け!」。裏道駆けずり回り、なんとか探し、大急ぎでコピー。

12時のチエックアウトをすぎないうちにと、汗かきもどり、荷物を抱きかかえるようにしてホテルを飛び出し、日本食堂で50ルピー100円ほどの、ほんと口にあう「かきあげどんぶり」の昼食。

あっ。もうダメ。時間切れ。列車発車まで一時間をきれば、ただちの駅の方角に歩行開始の必要あり。

また、当分、「メールのない収容所生活」にはいりますので、当分ご無沙汰いたします。次は、パキスタン?・まさか。

じゃ、収容所のあるチアンデガル市に、出発しまーす。
慣れておるとはいえ、誰もお見送りなしはやっぱさびいしいわなも。
「身から出たサビ」!。そういうことだわなも。

           デリーをたつ直前  駅前のネット屋にて 敬助

インド道中記83

2007年03月19日 | Weblog
本日、3月19日。在インド日本大使館に御表敬に伺うまですこしヒマがあれば、これまでのデリー安宿暮らしにつき、ちょいとばかりのご報告であります。

今回、はや珍しくもなくなった、このキタナッコイ印度の、キタナッコイ首都デリーに北インド・パンジャブ州の州都であり「ものすごい綺麗な計画都市」であるチャンデガル市から出てきた理由をまず。

デリーに来るはずの、名古屋青年にあうことと、それにかこつけこれ、メール遊びをやること。で、3月14日「勇んでデリーに出てくれば」・・・

その後、「ローマ字」メールの交信でわかったことは、な・な・な・な・なんと、当の名古屋青年、わしを訪ねて幾千里じゃあありませんが、とにかくその「チャンデガル市」に滞在中!

で、結局、名古屋青年が、帰国するため17日にデリーに入ることがわかり、「下手に動いていったりきたり」するよりもと、わしが、安宿をいいことに、ここでの待機作戦。

はい。前回のインド旅のバラナシで出会い、地元の大学生ということで、その後帰国後も一緒に遊んでもらっているこの名古屋青年・・建築学専攻ですが。

この春、卒業して就職の設計事務所も決まり、それならなつかしのインドへ、さらにどうせなら「建築学上、国際的に名高い現代の計画都市チャンデガル市に」
その彼が「メールによれば、どうもあの名古屋のじいさんもそこでヒマで困っているようすだから、慰問をかね」と考えてくれたんですな。

心がけはうれしかったんですが、わしが「メール不可地帯」に生存したていたことがアダで、コルカタで見た「ぼく、17日深夜にデリーから帰国をのメール」をたよりに、見当をつけて出てきたことにより「われ早まてり」の顛末。

まっ、そんなんこって、14日からひたすらこの安宿街でひとりブラブラし、ひたすらメール遊びをして消日。はい。17日午後、わしの宿に、重いザックを担ぎ訪ねてきてくれた彼と「やぁあ、やあ、お久しぶり」と手を取り合って再会。

(いま8時半。大使館行きの時間ですので、ここで中断)


(いま午後4時半。戻ってきて再会じゃあなくメール再開)

彼のデリー空港発は深夜であれば、その午後から夜にかけての貴重なる数時間は「恋人どうしでも、そんなにベタベタしとらんぞ」とドヤサレンばかりに、仲良く街をうろつき、食事をともにし・・・

おかげで、ここに来てメールの禁断症状に加え邦人枯渇禁断症状がどうやら改善。
ただし、その夜、名古屋青年を「エアポート行き」闇相乗りタクシー乗り場に見送れば、またまた、一人身の寂しさと、新たな「悩みがモンモン」とまではいきませんが、とにかく、これで当面の「名古屋青年」にあうという目的がうれしくも達したことで「さーて、このあとどうするか」

「いいかげんにしとき。考えてまで、病み上がりの老体引きずって外国で遊ぶことかんがえおらんで、せっせと日本に帰ってきたらどないでっか!。どうせ、帰国してきてもなんの役にもたちおらんおっちゃんやけど、それでも心配かけんようになるだけでもおくさん孝行ちゅうもんでっせ」

「たしか、おくさん。最近ではお仲間のかたたちから、あんたが意地悪するよって旦那が帰国に二の足をふむんでるんじゃないのって・・ヘンに言わるってなやんでいやはりましたで」

へい、それは、この前、電話でわしも「だから、わたしがイジワルするんじゃなく、本人が好きでだらだら帰国をのばしているんだって、ブログにちゃんと書いておいてくださいね!」ということで、承知の助でありんす。

とにかく、これから何をやるか、どこへふらつくか、悩んでおってもしかたなし。いずれにしても、荷物や貴重品がおいてあるチャンデガル市のアシュラムの独房?には戻らなければならないのである。

と、自己を説得しながらも、「そんでもわざわざ、首都のデリーにまで出てきて、約一週間。その間、らしい戦果といえば数時間の名古屋青年との邂逅のみ。ちょいなさけないことではあるなあ」

せっかくなら、もうひとつここデリーの「お土産に」とない知恵絞ってでてきたのが、「パキスタン・ビザ」の取得でして・・はい。

「待ちっ!。よもや、おっちゃん。外務省が危険情報出しはっておるパキスタンに!。たとえぼけたにしろ身の程しらずも度がすぎまっせ!。多分ホンマに行く気はおまへんでっしゃろが。」

まっ。正直、いまのところは、わし自身決めているわけでなく、せっかくインドの首都に開設している在インドパキスタン大使館と在インド日本大使館の所在地にきたことだし、幸い、パキスタン・ビザ取得はタダ。これは、お土産がわりにいただくのがベターではあるなあ。そうだそうだ。ビザ・ゲットの練習にもなるしよう。
ほんと、そのあたりが心情なんでございます。

で、思いついたのが昨日18日で、それがあいにくの日曜日で大使館お休みなら、またもやることなし。にしても、モシ・モシもですよ、決っして行くと決めているわけじゃあありません。正直ヨ!。そのモシ、行くとしても、テンから行く意志をもたないわしには、なんの情報も資料もナシ。モシ。モシもですよ(くどいんであります)とすれば、少しは、国境越えなどのことを含め勉強も・・

それに、モシ本当に行くことになったにしても、いまの病み上がりからみても単騎ではこころもとなし、はたして友軍はいないものかなあ・・・

裏道の裏道の奥まった薄暗いとこで巣くっておったわしの安宿は、ズッーと日本人の姿なくわし一人が代表でということで、そうなると完全に不利!。夕刻、散歩がてた目抜き通りに出て「ホテル・パヤル」と下手糞なカナ文字を併記した看板を掲げる、どうにか「日本人宿」と呼べそうな宿のフロントに立てば・・

うれしくも、ひとりソファーに座るヒマ顔のよき青年。「福岡のNさん」にお声をかけさせて貰えば「ぼくも明日は日本大使館に。バラナシからの列車内で、パスポートを盗られ・・いや、もう手続き中なんですが、その中にあるインド・ビザも再発行してもらう必要があり、その相談に行こうと」「では、明日、ご一緒に」

で、今朝19日。約束の8時半、このパヤルホテルにNさんを誘いに来て、連れ立ちフロントの前を通るとき、チョイト気になり「きょうシングルあるの」「昼になれば多分ネ」「いくら?」「200ルピーよ」「じゃ、わし。いま向こうのホテル・チックアウトしてくるけんネ」

やはり、日本人がいるお宿がいいし、ひょっとすれば行くことになるかもしれないパキスタン前線への友軍も、みつかるかもしれない・・と、あわただしく引き返し、荷物をまとめ、ほぼ十分後。「えっ、お荷物はそれだけですか」「いや、そうじゃなく・・・」なんて言い訳をしながら、「行きはオート・リキシャを値切って」と一気に、二人で日本大使館にぶっ飛ばし。

大使館でのNさんの相談結果は、どうもビザのこともあり、緊急用にだされる「渡航許可証」で、日本にいったん帰り戦線たてなおしのウエに、どうも落ち着いた様子。わしは、すでに初体験がすんどるゆえ、手馴れたモンで、日本国外務大臣が「この日本人老人は、貴国を訪問しても、けっして暴れたり、乞食をするようなことはしませんから、よろしく入国許可をおあたえください」

というようなことが英文に加え、最後にリッパな日本国大使のサインが重々しげに書かれた、俗にいう「レター」ちゅうもんを、AM11時前には「サンキュウ・ベルマッチ」で難なくゲット。

ここで、「盗難被害事後処理」ですぐ宿にかえるNさんが「たしか、帰りは605号のバスがデリー駅にむかいますので」と、わしに助言を残しバス・スタンドに向かい、残されたわしは、すでにその所在地を知っているパキスタン大使館にトボトボと、日陰をもとめるようにして歩いていきました。

いや、こちら、いまだ乾季とはいえ、暑さで死人がでるといわれる「4月」「5月」の暑季・・夏季ではなく暑気がすごいとこです・・を前に、昼近くなれば、もう完全に、この老体であれば木陰でも歩かないかぎり、すぐに干からびる厳しさ。

大使館区画は、一つずつがバカでかいんですが、「パキ大使館」は一軒おいて隣りに位置し、イスラム建築を象徴するような「紫色」「タマネギ様式」の塔をもって建っていますので、すぐに到着。

しかし、申請窓口に並ぶなかに日本人の姿なく、もしやと声をかければ、やはりコリアンの娘さん。英語の申請書であれば、わしにスイスイわかるはずなし。出始めのネームや次のボーン・デートの生年月日ぐらいまでやっと書けば、あとは、「わるいけんど、それ見せてまえんかなも」

ひどいモンで、わしは、それの引き写し。で、パキスタン国内の行き先都市、泊まるお宿の名前、アドレスなんてはそのまま借用して、期間だけは自分がモシ行くならちゅうような日にちにかえ・・・

できのまるっきり、申請書なんでしょうが、受付窓口から「よろしゅうたのむで顔」でニコニコだけしている日本人老人を見ては、相手も「こりゃあ、なにいっても分かるあいてじゃあないある。まっ、そう悪いじじいじゃなさそうだからよしとすっか」顔で、親切にも自分で書き足し・・・

ええ。いま泊まっているホテル名と住所があわてたせいで未記入だったんですが、「ここにカードあるね」と窓口にホテルカードを突っ込めばご自分で追記してくれるわけですから、ほんとパキシタン人、わし大好き。ネ、日本の役場より親切な感じでしょ。ほんと助かるて。

昼前には、提出したパスポート・顔写真2枚・申請書と引き換えに「これをもって、同じ窓口にきなさい。期日は、明後日21日、きょうと同じタイムです」というムスリム的紫色?の公印を押したメモを頂き、「やれ、うれしや。モシかしたらパキスタンを訪問しなけえば、相手側に失礼になることになるかもしれないわい。よわったことではあるなあ」と内心喜びながら、Nさんに教えていただいた「605番市内バスで」昼過ぎには、朝、移ってきたパヤル・ホテルに。

はい。このところ病気でヒイヒイ言わされてきたわしにも、名古屋青年に再会を含めどうやらツキが戻ってきたようで、戻ったパヤルにはドンピシャリ。昨夕からお世話になり、今日もご一緒したNさんの隣り「305号」が空き部屋となり、このわしをお待ちかね。

いいへやでしてね。風とうしもよくナマのお日様も入り・・今朝までの窓なにお宿150ルピーより50ルピーの値上げですが、100円そこそこにかえられぬ高級感?。洗いざらしの白いシーツもしっかりのダブル・ベットでございあますから、「もったにゃあ。このさい・・」

と、よこしまな妄想が出る危険(とにかくまだ病み上がりですので激戦は無理)があれば、これにてインド道中記83は直ちに打ち切り。

ほんと、つまらにゃあ報告で申し訳にゃあけど、「なんや、えらそうに外国にいっても、あいつはそんないいかげんなことしてふらつてとるんやなあ」
ご理解の一助になれば幸いでございます。

インド道中記82

2007年03月17日 | Weblog
本日17日。今度の旅だけでも3度目の「デリー入り」であれば、もう病み上がりの老体を引きずってまで、市内観光する欲望(まっ、なにによらずですが)きわめて淡白になりまして、今朝もすでに8時前からパソコン部屋にしけこみ・・・

その前、7時ごろには2階のダブルベットつきシングル部屋?からのこのこ起きだしたんですが、「まっ、すぐにキーをたたきはじめんでもええか」「どうでもええけど、朝飯をくったほうがええし」「それに、お日様にもあたったほうが身のためやし」

ええ。この安宿。小路を入った先を曲がり、さらに細くなった小路に面し「どうやってここに建築資材をもちこんでこれたんや」
ほんと、なんよ。驚くべきはそこにも時としてノラ牛がノソノソ巨体をゆすってあるくんで、わしなんてすれ違うとき、背中をむけて脇の店先にへばりつき・・・

とにかく、ゴイチャゴチャ隙間なく不規則に建て込み、このあたり一帯、屋上かメイン道路以外に日の当たる場所とんとなし。もちろん、わしのお部屋に太陽光線が入るときは建物が崩壊したとき!だけ。

身体にいいわけないよ。その面からいやあ案外、路上生活者のほうが恵まれておるんかなも。
はい。そんなんで、徒歩1分。薄暗い裏道を抜け出て大通りは、インドの首都駅ニ-デリー駅前にノラウシを看板に?「どえりゃあ汚さ」と「雑踏」と「生き物」と「ノリモノ」と「こじき」と・・とにかく「う・へへへ」と二の足を踏む光景をただで見せてくれる国際的安宿街「メインバザール」にでまして・・・

道端の屋台にいちゃんから「チャイ」に加えて、「エッグ・トースト」(ええ7ルピーですから20円弱)の朝食を、道端に座り込みお日様にあたりながらそれなりにおいしくかつ寂しくいただききまして・・・。

いや、ほんと、このところ旅とも氷河期ちゅうか、ポツリンこんと老人ひとりの異国暮らしをしいられていますが、主力となる学生が新学期とか就職まじかで一斉に引き上げたということでしょうかねえ。

ぼやいておってもしょうことなし。で、いま、このパソコン部屋に戻り・・。
さてと、上陸3日目のオうたから再開でおます。


11月3日

雑踏のオールドデーリのものすごさ つれはタジタジわしはなつかし

この日は、旧市街をご案内。「その人波!」「その混沌!」その「汚たならしさ」
まちがいなく「世界遺産級」だわなも。
「リキシャ」にもお乗りいただきましたが、慣れればドーテことありませんが、初経験のみなさまは「デズニーランドのド高いだけで嘘っぽいノリものより、こちらの方がお安くかつ実用的で、雑踏の見晴らしもよく、ほんとに面白くていいわねえ」顔で、コトのほか喜んでいただき即席添乗員といたしましても、少し顔がたったと、こないわけでおます。

旅日記=
深夜1時過ぎ、やはり格安航空券に関係なく無事デリー空港に着陸。「危険である!。明るくなるまで空港を動くな!。それも現地人や客引きがたむろするロビーにでるな!。」前作戦は単騎のためこの警告?にしたがえど、今回は小隊規模。
衆の力を信じて、「現地人バス」で市内突入

軍装重き初年兵の一団ならば、「安宿」求め深夜の街を徘徊するは、敵の術中にはまる危険大。ただちに目に付きし「中級ホテル」を確保。

仮眠のち、ニューデリー駅2階にありし「外人予約センター」に出向きて、「おまかせします」の声を背に、慎重にしてかつ乱暴に、以下の行程の寝台券・指定券5人分を確保。

この日の夜ニューデリー駅発。ご遺体やきのバラナシ、タージマハルのアグラ・
風の宮殿のジャイプルと「北インド観光目玉都市ゴールデンアングル」を10日間かけて一巡のコース。

その後、市バスやリキシャの初体験?のお遊びをいただきなが、ほぼ半日夕刻までオールドデリーの見学。夕刻、2等三段寝台列車で「これは意外にラクですねえ」のお褒めの声を頂きながら、バラナシに向けいよいよ出発侵攻!



11月4日

ベテランの顔して添乗する身やが 本人自身は不安イッパイ

うちのかみさん、コトがあるたび笑顔ながらも、「添乗員さん、しっかりしてくださいよ」「添乗員さんホントにだいじょうですか」かなりわしにはこたえるスルドイゆすりをかけてきますが、まっ、友人ご夫妻まで巻き込んだドタバタ道中ですから、それなりに代表して、わが亭主に・・

まっ、そうではありましょうが、わし自身、前回はよき青年たちにつきそわれてインドをまわったようなモノ。とてもじゃなし、ヒトサマをお連れしてなんては、暴挙にも近きことやけど、今回は、コトのなりゆきでガラにもなく「引率する」それもよりによって「異国」の、それもよりによって「インド」を。
ソノ不安!。わかってくださいおかっさん! ほんと。

旅日記=
最初の夜行体験を終え、背をのばして早朝降り立ったバラナシ駅で、ホテルを衆議。ガンジス川岸の中級お宿をガイド本から選び、そこ、リシャーマンに示して「ここに連れて行け!」


インド道中記81

2007年03月16日 | Weblog
えぇ。本日、16日。そういえば、はるか昔の現役時代は薄い月給袋がこの日に・・。もちろん口座振替なんてシャレタもんはなく、すべて現金でありましてネ。で、この日を外せば「また取りはずれ」。
廊下に、和服姿の「女将」なんてが、請求書を手提げにいれウロチョロ。

なつかしき思い出に、ひたっていますが、要するにヒマ。いまだ半障害者の出歩くことせずであれば、せっかくメールの出来るニューデーリまでのこのこ出てきておりながらも、ご報告することなーんもなし。

しからば、今回のインド作戦決行の赫々たる戦果・・じゃなく散々たる敗戦状況を総括し、もって第三次作戦樹立の教訓とせしと、ここに・・・。

どうも、体にチカラが入らんのに、口先ばっかりチカラがはいってスイマヘン。
で、「そうや。今回の旅立ちで、悪評のダラダラ節にかえて、日々、簡潔に31文字のオウタにより・・」なんて、えらそうにホザイタことを思い出し・・

まっ、ある程度、メモ書きで並べて来たものがございますれば、これから時間とヒマの許すかぎり、少しづつ恥ずかしながらも御笑覧いただこうと、こういうわけでおます。

にしてもよう、途中での「腰砕け」「中折れ」は、わしのもって生まれた「個性」ちゅうか「性癖」だで、最後まで続かんでも「叱らん」よう頼むでなも。
こんで気分がラクになったんで、ほんじゃこれからソロソロと。
「おっちゃん、なんかヤラシイこと、はじめる気分になりおったいかいな」
ではじめから、ツッコミはなしでたのむぎゃあ。じゃ、さてと・・・


2006年11月1日

わざわいは口からくるというけんど 福にかわりてまたもインドへ

「インドはよう、どえりゃあ汚たにゃけど、どえりゃあオモシロて、ほんで物価がド安スて・・一度ご一緒にいかがですか。わたし、どうせヒマですのでいつでもお供させていただきます」

懇意にさせていただいている大学名誉教授のY先生に、お声をかければ「それなら早速に・・」
さすが、テキパイとコトをきめるY先生。「街のスーパーや郵便局にいくわけではなし。外国のそれもインドとあれば、もし出かけるとしても年明けて来年の秋口とか・・多分、お断りになるんじゃあないか。なにぶん、この当てにならぬわしが添乗員役だからなあ」

悠長に考えとった、わしは「これはエライことになった」と反省?する一方、「武士に二言わなし!。一緒しなければならないのである。よし、今年もコレで、インド行きの大義名分が立派にたったぞ。」というわけで、「口の災い」がここで幸せにも「福」にかわったというわけでおます。

で、Y先生が「ご夫妻」でということで、当方も釣り合い上、カミサンもとなり、「休暇がとれるからオレも」とそれに愚息がくわわり、都合5人の仲間ずれで、秋天のこの日、中部空港から個人旅行団?としてコワゴワかつうれしげに出発いたしました。

なを、この日は「月初め」。偶然じゃあなく、これ意識的。どうせ年中ヒマこいているわし。いつ出発してもいいとあれば、前回もそうやけどケリよく「一日」を旅立ちの日に。長い旅を始めるとコレが便利で、出国後の日数がドン・ピシャと「何ヶ月と何日」。

「アホカ!いつ出発しようと、そない日数の計算ぐらい、おっちゃんとちごうてウチらすぐできますよって」まっ、そういわんと。どうせなんの日程もない老人なら、これに限りんコでおます。


11月2日
ネ!この日が二日目。計算しおらんかてわかりまっしゃろ。

格安の航空券の余禄やな わしらソウルで一泊できたぎゃあ

便利な「直行便」はオタカイことから、当然に今回も「乗り継ぎ便でいいけん一番安いチケットをたのむわなも」
毎度、おなじみ。名古屋駅ちかくの貸しビルの一室にあるわしのご用達零細エージェント「有限会社ムーンデート」本社・・とはいっても、別に支店があるわけでなし社長いか5名ほどの社員が、経費をきりつめ真面目だけを看板にするようにネ。

あのここだけの話やけど、Hを付けた三文字の「格安券売りモン」のデカ企業が、役員かかえ地価目をむくような繁華街に多くの支店をだし、膨大な宣伝費を使いがんばっておいでですが、あれって巨大な費用でっしゃろ。それが、格安チケットに跳ね返る。

ところが、わが御愛顧のデートさんは支店なし、宣伝なし、人件費わずかで、インターネットによるご商売が主であれば、もう最低価格は保障されるようなもの。

最初、わしがこの会社を使いはじめたときは「そんな名前、聞いたことない小さな旅行業者でホントにいいんですか」と真面目に心配していたカミサンも、「どこで買ったきっぷでも、飛行機が墜落するときは同じ」のリクツがわかったらしく、特に意義なし。

じゃ、早速にと、50ccバイクを名古屋駅前に飛ばし、インド・デリーの格安券を調べて貰えば、上海乗り継ぎのたしか「中華東方航空」とかが確かにド安く、「それでお願いします」と頼んだ結果、ほどなく「手配できました。お代金をこちらまで」の回答でわかったことは、これがド高く?なっての不思議。

いや、驚きました。たしかに「航空券」そのもは最低価格でしたが、空港税や保険料などに加え「航空燃料チャージ料」が、万の単位で購入するチケットに万の単位で加算されるんですわ。

「細身のオンナのコを頼んだら、着膨れてそばによってきた」
わし、すぐに言いました。「あのよう、頼み方がいかなんだかもしれんけど、わしが欲しいんは、着膨れしとらんヤツだで、わるいけど総額で一番やっすいの探してまえんきゃあ」

その結果が、「韓国インチュン空港」乗り継ぎのアシアナ航空やったんですが、これが格安の悲しさ?。なんと、空港で7時間を越える待ち時間。

わしだけなら、前回のようにこの待合ロビーにあるインターネット店で時間かせぎはなんとかなるけど、お連れの4人さんがいれば、そうかとはいかず、「一旦、空港を出て、列車でソウル市内チョイ観光をしましょうか」
「いいですねえ。わたしたち、韓国は始めてですし」のY先生に、わしが、「そういうことなら、数時間ではモッタイないですから、ついでに一泊しましょう」
の上乗せ発言で返し、「はい」ここにて、インドの旅に加えて、急遽「一泊2日片手間でたずねる韓国ソウルの旅」が実現できたと、こないわけでおます。

ほんと。これも格安乗り継ぎ便ならばこそ。とよろこび、浮かれすぎたのか、遊びすぎて、この日夕刻、あやふく「インチョン空港発デリー便」に乗り遅れそうなきわどい場面に遭遇しましたが、やはり「即席臨時添乗員」の限界。

以後、長いインドの旅の教訓としなければならない、「そうだそうだ」と冷や汗ぬぐいつつインドにとびたちました。


といとうころで、本日はすでに23時50分。これから2階のわが部屋にもどることにしますが、一日かかって、わずか二日目まで。こりゃあ駄目だも。


インド道中記80

2007年03月15日 | Weblog
♪ 拝啓 ご無沙汰 しましたが ボクも ますます 元気ですー
  上陸以来きょうまでの 鉄の兜の弾の痕 自慢じゃないが みせたいなー

愛国少年団だったわたし。このあたりはソラででてきますが、すでに「よぼつき老人団」であれば、見せるにしても、コロカタ前線で不名誉にも割腹した手術の痕という始末。とてもじゃございませんが弾の痕とはちがい自慢できるシロモノではないんであります。

この、たしか「上海だより」という軍歌。後ろに
♪ いまに見ておれ おれっだって 敵の戦車を分捕って
  ラジオでニュースを聞かすから 待っててください おっかさん・・
なんて歌詞があるんですが、わたしのニュースは、コルカタにて敵の術中にはまり
睡眠薬強盗の被害者となりし新聞記事。


というしだいで、「♪ 勇んで国を でたからにゃ・・・」の壮途もむなしく
どうみても第2次インド作戦も、はや敗戦模様。

というしだいで、いまだ外地にいる戦友や内地の銃後の各位さまからは、
「精神力だけではなんともならんのは、かって大日本帝国陸海軍が手本を見せたこと。わるいこといわんさかい、玉砕せんまえに復員しおったらどないでっか」

この身の程しらずの予備役老兵にありがたきご忠告のかずかず。
いや、ほんまでっせ。なろうことなら、わしのために「千人針」でも送りたいちゅうけなげな、ご婦人までいははるんでおます。

というご忠告にしたがい、最前線のコロカタから後方「チャンデガル」に転戦して以来、今日までのご無沙汰。
お詫びいたしつつ、このところの休戦状況の一筆でおます。


3月3日
魔のホリデーにぶつかったこの日夕刻、街中の「水鉄砲」を掻い潜り、なんとか「ハウラー駅」を夜行列車で脱出。
ただし、停車駅で敵情視察と、デッキから身をのりだそとすれば、ホームで乗客いじめを待ち構えているガキどもが、柱の影から飛び出てきて、「祝福してほしくない」「祝福の色水」を抜き打ちに!

「コンヤロウ!」と逆襲しようとすれば、ガキどもの勝ち誇った笑い声をホームに残し、わが乗る軍用列車はしずしずと動きだすのくやしさ!
まったく、改札のないインドの駅舎やホームは、ガキやコジキや野良牛・野良犬の遊び場兼生活の場・・なんとかならんもんかいなあ。

もっとも、わし、過日コルカタで、初めて列車の「無賃乗車」を。
親切に案内した少年が「キップはどこで?」の英語を解さぬのか、「いいっから、いいっから」と、線路ずたいにホームにあんない。
近場であれば、指定券いらずの人民車両のせいか検札もなく、無事目的の「シアルダー駅」に。

「乗客がすべて正式に乗車賃を支払うと、インドの国鉄は、相当の黒字になる」
読んだことありますが、かなりうなずける・・といことでした。

3月4日
ズート、終日、列車の中。経験的に疲れるのは、中距離列車で、一昼夜をこえると頭がマヒするというか、もう惰性ないし「ヤケッパチ」的気分で、「好きなだけはしってケ!。わしゃ、上段ベットで横になっとるでよう・・」
意外に、ラクになるもんでございます。

にしても、インドの列車も、すでに手馴れたモノとなれば、「タイクツ虫」がうずきますが、この日は、幸か不幸か魔のホリデーちゅうことで・・・

なんと、わが乗る列車車両に向けて、ガキならともかくいい青年ちゅうかヨタ公どもが、水鉄砲にかえ、なんと、石をぶつける暴挙!!
それこそ、敵中、弾の浴びて、列車は逃げるように走る抜ける光景でなも。

「カーン、カーン」敵も意識して、鉄板部にぶつけるのか、その金属音でかなりのタイクツしのぎ?をとうりこしての恐怖感!

しかし、まとが外れてガラスを直撃すれば、これはまたも名誉の負傷?
いや、ほんとに驚きました。こんなことあるとは、地球の歩き方にものっとらせんで、あんがい、「わし個人」を狙って・・・
そういうわけではなそうで、目の前をつかする車両に線路際から次々投石しておりました。

インドの車両や車体が、デコボコしとるは、ホリデーのため仕方にゃあか?
学習いたした事例でございます。

3月5日 早朝 38時間ぶりにふらつくように地上に降り立って、なつかしの
北インド・チャンデガル市はなつかしの「アシュラム」のなつかしのわが独房?にほぼ3ヶ月ぶりに帰陣。

「日本老人。ユーは空気がきれいで、緑に囲まれたこのアシュラムでしばらく静養するがいい。お前は、自分でもう余命がいくらもないからはやく旅に出るというが、ここにいれば100歳を超えるようシバの神様が手配してくれる。
だから、ゆっくりするがいい」

わが身をいたわって、なにかと気をつかってくれるスワミー師であり、食客というか居候のわしに、修行僧青年も会話が藤生ながらもよく仕えてくれ、おまけに寝食は全てタダ!

ところが、すでに道中記でもふれたごとく、ここの街では「日本語のインターネット屋」が絶無で、その後10日もこの楽園暮らしをのんびりすごしたわしは完全な禁断症状!

ところが、コルカタで最後に覗いたメールの中に、名古屋の学生N君(かって一緒にバラナシで遊んだ)の「卒業したから就職までの間、なつかしのインドへ再び。18日ごろデリに」の、うれしき記事があってよう。

ほんで、「わしに会いに地元名古屋の青年が、デリーに来るで、3・4日、外出させてまえんかなも」ちょこっとオーバー気味に、スワミー師に陳情し、今朝方、10時の列車で。

で、すでにおなじみのニューデリー駅に、ショルダーバックと寝袋だけという軽装でおりたち、3回目となる定宿「アジャイGH」のフロンロに行き、顔なじみの受付にいちゃんからフルでとことわられ、今晩は、その近くの「KULDEEP LODGE」に投宿。はじめてやけど、この4階の部屋{一晩125ルピー=約300円・それもダブルベットでなも。)の下2階にネット部屋が。

で、早速に、おひさしぶりのメール遊び。
にしても、「この道中記80」。
「メール打つため、わざわざ5時間あまりも列車にのってからに泊りがけで・・・
アホとちがうか。こんな作文、どこに値打ちがおますんかいな!
インドの国鉄とゲストハウスに儲けさせるだけやおまへんか」

へい。わかっとります。
ほんでも、このところすっかりお世話になっとる我が愛すべきインドだもんで、せめて多少とも、この国の経済振興にお役にたとうと・・・???

と、つまらぬ弁解をさせてもらったとこで、これから夕飯をあさりに前の雑踏するとおりにふらつかさせていただきます。

今朝方、スワリー師が、めずからしく、(送別の気持ちかなあ)自分で、わしの独房に運んできてくれたパンふた切れだけで、まんだメシをくったらせんでよう。
じゃ、明日は、らしい作文をこころがけますよって。
きょうのとこは、これで勘弁してちょうだやあ。

インド道中記79

2007年03月03日 | Weblog
えぇー。本日は2007年3月3日。日本じゃオヒナサマで、「♪あかりをあげましょ ぼんぼりに」・・・・。お神酒にことよせ、飲みたい放題でクダをまくおとうさんもおいでですが、それは例外として、まっ、全体に静かな祝日てなもんですが、ご当地、コルカタ!

年にいちどの「ホルデー」とか称する、イロ気違いの底抜けの馬鹿騒ぎ。
なにをやってもよし。この2日間は警察力も及ばぬ無法地帯化し、一旦、町や道路にでれば、水鉄砲によるイロ水が容赦なく浴びせられ、さらに顔や肌にはいろ粉を塗りたくられ・・

すでに、朝飯にちょいと出かけ、被害にあった旅行者が、みるも無残な姿で、ヤスホテルに命からがら引き上げて来ている状況でございます。
バカが、わたしめですが、少しご拝見にただいま、鉦や太鼓打ち鳴らし、ガキドモがみさかいなく水鉄砲やピストルの銃口を向けてくるホテル前に出て、
「命あってのモノダネ」とすぐ逃げ帰りましたが、ちらりと見た中には・・・

現地人にまじり、もう完全に色彩化して、顔さえわからぬ欧米人にまじり、用意周到・・多分、プロ野球の優勝祝賀会場のビール掛けでご勉強したのでございましょう。日本の年増おねいさんが、ビニールカッパを着込み、完全に盛り上がり。
わが国を代表して、とお褒めいたすか、恥をさらしてとケナスカ・・
いずれにしろ、やはりオナゴの限界?
ビニールでふせごうとは、本人にすれば「裏技」で観衆を感心させるつもりであっても、私からみれば、イサギヨサがさらさらなし。
やるなら正々堂々とコルカタで現地人相手に勝負いただきたいのであります。

とは、いってもよう。わし自身、コルカタでは昨年に引きつずき、まったくの敗戦模様でなも。すでに臨時ニュースちゅうかメールで報告したように、病気三昧ちゅうか野戦病院暮らしというか、薬ずけちゅうか・・・
(どうせ薬なら、元気なバックパッカーの一部がやっとる麻薬のほうがまんだたのしいだけマシ・・なんてよからぬ欲望も?)

で、もう、散々の戦況で、なんとか塹壕に身を伏せ、命を永らえているわけなんだわ。とりわけ手術退院後は、陣地から離れず、ひたすら戦力回復を待つの日々で今日までなすこともなく、いたずらに安宿に毎朝、一泊シングル、130ルピー約300円の宿賃を支払うだけのバカみたいな前線暮らし。

なんも動かんもんやで、カネはほとんどへらせんし、日本人青年とまわし読みする文庫本なんてで時間ををつぶしておれば、「アホカ!わざわざ外国まで行ってからに、なにもせんと!」のご忠告もあるかもしれんけど、いつかその怠状な生活が身にあって、いっそ、ここで寿命のつきるまで・・・なんて、オソロシゲな野望が心の片隅に宿ってくる始末でよう。

しかし、「♪勝って来るぞと 勇ましく」敢さんで国を出た身であれば、このまま異国はカルカタの前線で朽ち果てるは、老兵ながらも大和男子としてとる道にあらず。
ここは一旦、後方に退き、戦力を建て直したうえ再度の戦闘に備えることこそ賢明な策。

ということで、昨年12月中旬に前線基地として確保したるコルカタの安宿ホテルパラゴンを、本日3日さきほどAM11時のチェック・タイムを前にアウト。
夕刻7時ハウラー駅を発ち、乗車約32時間かけデリーのさらに後方、チャンガル市まで撤収することになり候。

なを、過日、列車爆破テロで60余名の死者をだした駅は、デリーとチャンデガルの間にあり、そこを通過しての撤収であれば、祖国日本の銃後のみなさんにおかれましては、なにぶん、この老兵(敗残兵ちがいまっか?。そこまでいわんかて!)の武運長久を祈念いただけば、まこと有難きことと存じる次第でございます。

で先ほど宿引き払い、出発は夕刻。
さらばといえ、このバカ騒ぎのコロカタのバカ祭りのなかに出ることの危険があれば、居場所なく、ならばとこのメール屋に潜伏いたしておれど、いまだ時間あり。
あと少し、補足させていただけば・・・

病気のほう。やはり手術は、相当にこたえて、回復も順調ともいえず、いまだ長く立っておれば、痛みでチクチク。ただし、かならずしも横にならずとも、道端でしゃがめば、ちょいラク。手術後約一ヶ月。事後の養生が悪いのか、老いの身の限界なのか、いずれにしろ、本人が期待しているわりには、体調ハカバカシクなし。

で、チャンデガルのわがヒンズー教の大僧上「スワミー師」のアシュラムにて、食客として居候しつつ、帰国も視野にいれつつ、暫し真面目な療養生活をおくろうかなあ・・こんな考えであります。

なを、もし帰国となれば、今回はやはり、ハズカシながらの復員となるのでございましょうが、その期日としては、不可能な野望を加えてヒマに任せて書き上げれば

① 一週間ほど見て、はかばかしくなければ即刻に帰国。
② 少し、体調に自信がでれば、チャンデガルのアシュラムを基地に、数日の北いんどの観光を繰り返し、6ヶ月間有効のインド・ビザが切れる5月末に帰国。
③ 5月末一旦出国し、近隣の国にでてビザを取り直し、再度インドにもどり、一年有効期間があるオープン航空券の期限切れ10月末まで徹底抗戦をスル?

なを、昨日、薬局に行き、医師から前回いただきし処方箋を提示し、持病の「通風」と「前立腺肥大」の薬、2か月分を補給。長期作戦も可能の優れた戦略?
日本での3割負担より、まるまる払ってもコッチのお薬がかなりトクですし、インドの薬はよくきくが旅人仲間の定評であります。

という、バカな戦略ですが、とにかくそんなバカを思いつくまで、体力・気力が回復して来たということで、よろしくお見逃しいただきたく存じます。

なを、今回の撤収の経緯をすこし報告いたせば、「動けるようなら、帰国を」というかみさんからの電話もあり、自主的にチャンデガルに撤収を考え、2月26日の列車きっぷを、外国人専用ブッキングオフェスにヨロヨロででかけ、ゲット!

ところがこの日、2月24日うれしげにゲットしたるキップを持ち、昼近くお宿に辿り着けば、なんとレセプションにスワミー師からわしあての英語のメモあり。
なかみは、「自分はいまタイのバンコクに続き、バングラのダッカに来て説法している。28日にコルカタにユーを迎えに行き、一緒にチャンデガルに連れ帰る。
汽車のキップはミーが手配する」

しまった!。われはやまてり。とおもいつつも、迎えに来ていただけば、重い荷物を携えての孤軍転戦は回避。ありがたきことと、次の日に今度は26日分のキャンセルに「これもリハベリにいいか」とわが身をなぐさめ再び、ヨロヨロとブッキングセンターに。

ところが、約束の28日になっても、スワミー師、わがパラゴンホテルに出迎えなし。「電話で私が、確かめてみましょう」

退院後、病院や医師のところ、さらには薬局に行く介添えをして、さらに通訳秘書もかねてくれた東京のキミちゃんがバラナシに発ったあと、その後釜をうめるように懇意にしてもらって、同じように医師との通訳を務めていてくれる名古屋の好青年「ヨウセイ」君が申し出。

苦労しながらも、電話がつながり、「日程遅れ、明日3月1日pm1時にパラゴンホテルにアライバル」とのスワミー師の言葉をわしに通訳してくれ、ここでやれやれ。

で、当日、うれしくも師と、12月中旬チャンデガルをわしが飛び出して以来の再会。師、わしを見守るため、わざわざ近くの高級ホテルに投宿。

昨日2日は、師の信者で、リッパな自家用車を持つ方が、わしたちを、コルカタ市内観光に。おかげで、ノホホン生活でまんだご挨拶していなかった、プラネタリュームやビクトリア記念堂の目玉施設に。

この日がなければ、2ヶ月余のコルカタ生活で、肝心の観光施設に足を運ばず仕舞いになるところ。あやふくセーフでございました。

で、本日は、朝、師を表敬いたし、朝のチャイとパンを頂き、「じゃあ、このあと自由にすごしpm2時にわたしの部屋に。一緒にハウラー駅に向かいます」

英語ですが、昨年以来の師弟関係?であればこの程度の会話は、通訳無くともおかげでわかるようになっております。

ということで、すでにそのお約束の2時になりますれば、コロカタ最後のメール。
おそまつながら、これにて一巻の読みきりでございます。

         2007・3・3
           いよいよ転戦すっか…と病身ながら、気合を入れ始めた
           老兵・敬助