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武蔵野つれづれ   第3の生活を自由人として

中国での体験記を記して参りましたが2012年の秋に帰国しましたので、これからは武蔵野での生活を徒然なるままに書きます。

第20話 書道考

2010-09-15 15:19:05 | 上海
 前話で蘭亭の話が出たので、今回は書道に関する考えを書いてみたいと思う。

 自然院が書道に関わり合うようになったのは、6年前、ルーマニアの交流センターやブカレスト大学で書道を教えなければならない立場になったので、赴任前にTK先生の門を叩いた時に始まる。

 TK先生は、今上陛下の東宮時代の書道ご進講役であった故桑原翠邦先生の愛弟子で、今の書道界の重鎮である。そんな偉い先生であるが、快くマン・ツウ・マンで4時間みっちり教えて下さった。終わった時にはガックリ疲れが吹き出した。そんな特訓を数回繰り返したので、書道が上達したとはなかなか言えないが、少なくとも書道の楽しみ方だけは幾分でも分かった気がする。

 TK先生の書道は、古典の臨書を基本とする。つまり、日中の古典を手本にして達人の筆使いを疑似体験することによって、達人の美意識を学ぶことにある。達人の中でも王羲之は筆頭である。王羲之の作品は、初心者の自然院でも見ていて惚れ惚れとする。

書道の面白さは「不均衡の中の均衡」ではないかと、自然院は解釈している。
 そもそも前後左右、全く均衡の取れた文字なんてのは、面白くも何ともない。だから、わざと不均衡を作るのである。四角張って剛健に書いてみたり、丸みをつけて優雅さを出してみたり、突如、ズカリとやってみたり・・・・これらの不均衡は適度な味付けとなって、全体をみると見事な均衡に仕上がっている。そんな美を見つけるのが書道の面白さではないかと、自分なりに解釈している次第である。
 
 それでも時々「王羲之先生、この点はこんな所にあるのは変じゃない?」とか「この線は右下がりになっているけど、いいの?」とか疑問を感じることがある。そうすると王先生は自然院の心の中で答える。「そう思うなら、そう書いて見なさい。」よし、それならばと書いてみて、王先生の書と比べる。結果は明らか。王先生の書は品があり凛としていて魅力がある。自然院のは品も無ければ迫力も何も無い。自分の軽率な思いは無残に打ち砕かれ、「参りました。」それが楽しい。



 自分の未熟さを直視するために自分の書を壁に張り出して眺める。幸い私の社宅の居間は壁打ちテニスが出来るくらい広いので、張る壁には事欠かない。毎日これを見ながら、達人の足下にも及ばない(当たり前だが)自分の惨めさ、悔しさを心に刻んで、次に書くときのエネルギーにしている。

 ある時、ふとTK先生が言われた。「そうやって書いていると、習字なんてのは何てつまらないか分かるでしょう。」一瞬、耳を疑った。「習字がつまらない?」それでは自己否定になるのでは? ・・・・ 自問自答しながら、やっとその意味が掴めたのは翌日である。習字とは、学校教育で字を綺麗に書く練習である。我々がやっているのは書道。つまり美を求める芸術活動である。そうだ、習字を書道は違うんだ。やっと納得。それからは、他人から「習字をやっておられるそうで・・」と言われると「いいえ、書道です。書道・・・」

 中国の古家には、様々の書が飾ってあることが多い。それらを眺めながら、達人たちの息づかいを感じる。中国に来て良かったと思う一面である。

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