<鶴ヶ城>
喜多方ラーメンを食べる目的を一応果たし、腹ごなし(?)に近くの会津若松に寄ってきました。
ただし、時間の都合で鶴ヶ城見学と飯盛山の2カ所のみの短時間観光です。
(鶴ヶ城)
天候が悪いため写りが悪いですが、本丸付近の庭園から、城郭の一角を見たところです。
お城キャラクターの「お城ボくん」。
天守閣は、只今修復工事中で全面に覆いがされているため「お城ボくん」が代役です。
(「お城ボくん」とは、「おしロボット」から来ているそうです。ご存知でしたか)
鶴ヶ城と云えば蒲生氏郷公、さらには上杉景勝公などを思い浮かべると思いますが、私が住む信州にも深い
縁があります。江戸時代初期に会津藩が置かれた時の初代藩主保科正之公は、信濃高遠藩25千石の初代
藩主保科正光公の養子であり、義父保科正光公の奥様はあの真田幸村の父真田昌幸の娘です。
もともと保科正之公は幼名を「幸松丸」といい、徳川2代将軍秀忠公の4男でしたが、側室の子であったため
正室の「お江」の目を恐れた秀忠公は秘密裏に武田信玄の次女であった見性院に預け養育を受けさせ、後に
高遠藩主であった保科正光公の養子になりました。
保科家の家督を継いだ後、代々の将軍の覚えが良かった正之公は会津に移り会津藩初代藩主として大大名となり
徳川幕府の幕閣として幕府を支え、遂には松平姓を名乗ることも許されますが、義父の保科正光公の恩を忘れず
終生保科姓を名乗り続けたということです。因みに、保科家は三代目になりようやく会津松平家を名乗るように
なりますが、徳川家よりの恩をも忘れぬ正之公の命を守り幕末まで変わらずこの地から徳川幕府を支え続けました。
堅苦しくなりましたが、とても気持ちがいい話と思いませんか。
今日は、リマールで「ネバー・エンディング・ストーリー」。1984年の映画でしたが、大ヒットしましたね。
この快調・快速に流れるテーマ曲は、どなたも記憶にあるのではないでしょうか。
喜多方ラーメンを食べる目的を一応果たし、腹ごなし(?)に近くの会津若松に寄ってきました。
ただし、時間の都合で鶴ヶ城見学と飯盛山の2カ所のみの短時間観光です。
(鶴ヶ城)
天候が悪いため写りが悪いですが、本丸付近の庭園から、城郭の一角を見たところです。
お城キャラクターの「お城ボくん」。
天守閣は、只今修復工事中で全面に覆いがされているため「お城ボくん」が代役です。
(「お城ボくん」とは、「おしロボット」から来ているそうです。ご存知でしたか)
鶴ヶ城と云えば蒲生氏郷公、さらには上杉景勝公などを思い浮かべると思いますが、私が住む信州にも深い
縁があります。江戸時代初期に会津藩が置かれた時の初代藩主保科正之公は、信濃高遠藩25千石の初代
藩主保科正光公の養子であり、義父保科正光公の奥様はあの真田幸村の父真田昌幸の娘です。
もともと保科正之公は幼名を「幸松丸」といい、徳川2代将軍秀忠公の4男でしたが、側室の子であったため
正室の「お江」の目を恐れた秀忠公は秘密裏に武田信玄の次女であった見性院に預け養育を受けさせ、後に
高遠藩主であった保科正光公の養子になりました。
保科家の家督を継いだ後、代々の将軍の覚えが良かった正之公は会津に移り会津藩初代藩主として大大名となり
徳川幕府の幕閣として幕府を支え、遂には松平姓を名乗ることも許されますが、義父の保科正光公の恩を忘れず
終生保科姓を名乗り続けたということです。因みに、保科家は三代目になりようやく会津松平家を名乗るように
なりますが、徳川家よりの恩をも忘れぬ正之公の命を守り幕末まで変わらずこの地から徳川幕府を支え続けました。
堅苦しくなりましたが、とても気持ちがいい話と思いませんか。
今日は、リマールで「ネバー・エンディング・ストーリー」。1984年の映画でしたが、大ヒットしましたね。
この快調・快速に流れるテーマ曲は、どなたも記憶にあるのではないでしょうか。