最前線の育児論byはやし浩司

★子育て最前線でがんばる、お父さん、お母さんのための支援サイト★はやし浩司のエッセー、育児論ほか

●教育再生会議

2006-12-27 12:07:12 | Weblog
【教育再生会議・中間報告原案】

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06年の12月21日、教育再生会議の
中間報告会議の原案が、提示された。

「塾を禁止せよ」と提案した野依良治氏
(座長)。過激すぎるというか、現実離れ
しすぎているというか?

いろいろ提案がなされたようだが、本当
に、このメンバーの人たちは、教育の現
場を知っているのだろうかというのが、
私の率直な疑問。

案の定、教育再生会議の出した提案は、
ことごとく無視されている。

かろうじて通ったのは、(ゆとり教育の
見直し)だけ。

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 06年の12月21日、教育再生会議の中間報告の原案が提示された。内容は、以下のようなもの。

(1) ゆとり教育の見直し
(2) 教員免許更新制
(3) 学校の第三者評価制度
(4) 教育委員会改革
(5) 大学9月入学

 このうち、安倍内閣の教育改革の意に合致したものは、(1)のゆとり教育の見直しだけ。(2)の教員免許更新制については、検討中ということ。

 どこかわかりにくい中間報告の原案だが、私たちの視点で、もう一度、この原案なるものを、検討してみたい。

●ダメ教員の問題

 どこの学校にも、ダメ教員と呼ばれる教員がいる。その数は、「不適格教師」と認定された教師の10倍以上はいるとみてよい。

 しかしその基準が、イマイチ、はっきりしない。さらに40代、50代の教師となると、それぞれ個性があり(?)、上からの指導になじまない。自分の指導法に自信をもっている教師も多い。あるいは自分の指導法に、こだわる教師も多い。

 だからたとえばすでに文科省が、決めているように、10年ごとに30時間の講習を受けるなどいう制度だけで、こうした教師の再教育ができると考えるほうが、無理。

 もっとも効率的な方法は、親や子ども自身に、(教師選択の自由)を与えること。「あの先生に、うちの息子を教えてもらいたい」「私は、あの先生に教えてもらいたい」と。

 アメリカでは、こうした選択は、ごくふつうのこととして、すでになされている。「今年も、エリー先生の教室で勉強したい」と、親や子どもが願えば、学年に関係なく、その教室で勉強できるようになっている。教育再生会議では、(3)学校の第三者評価制度をあげているが、これは教育現場をまったく知らない、ド素人のたわごとと考えてよい。

 だれが、どうやって評価するのか? 具体性が、まったく、ない。

 ただ私立幼稚園のばあい、講演に招かれたりすると、その幼稚園がすぐれた幼稚園であるかどうかは、雰囲気でわかる。教師や子どもたちが、生き生きとしている。園長の個性が、あちこちで光っている。

 しかしそれは、私立幼稚園という、教育の自由が許された環境でこそ、可能だということ。しかも私立幼稚園は、常に、生き残りをかけて、壮絶な戦いというか、苦労を重ねている。

●美しい国づくり 

 提言の中に、「美しい国づくり」がある。大賛成である。が、どうして、「美しい国づくり」が、教育と関係があるのか。

 あえて言葉を借りるなら、「国民全体の資質向上」(会議)ということになる。これにも大賛成だが、では「美しい国」とは、どういう国をさすのか。

 外国から帰ってきて成田空港で電車に乗ったとたん、あまりの落差というか、醜さに、がく然とすることがある。「これが私たちの国か」と思うことさえある。

 雑然と並んだ町並み。自分の家さえよければと、無理に増築に増築を重ねた家々。クモの巣のように張りめぐされた電線。けばけばしい看板。標識の数々。入り組んだ道に、手あたりしだいにつけられたガードレールなどなど。

 その間にパチンコ屋があり、駐車場があり、軒をつらねて商店街がある。数日も住むと、今度は日本の風景になじんでしまい、今度はその醜さがわからなくなる。が、日本という国は、基本的な部分から、美的感覚を再構築しないと、決して「美しい国」にはならない。

 が、それは教育の問題ではない。社会の問題である。もっと言えば、日本人自身がもつ文化性の問題ということになる。これだけ豊かな自然(木々の緑)に囲まれながら、その自然を生かすことさえできないでいる。

 教育で、それを子どもに押しつけるような問題ではない。

●いじめを許さない

 提言では「いじめを許さない、安心して学べる規律のある教室」を歌っている。

 方法がないわけではない。現在のように、英・数・国・社・理にかぎるのではなく、科目数をふやせばよい。子どものもつニーズと多様性に合わせて、子どもたちにとって、好きなことを好きなだけできるような環境を用意すればよい。

 好きなことを生き生きできる。そういう世界を用意してこそ、子どもはいじめを忘れることができる。

 たとえばオーストラリアでは、中学1年レベルで、外国語にしても、ドイツ語、フランス語、インドネシア語、中国語、日本語の5つから、選んで学習できるようになっている。芸術にしても、ドラマ(演劇)、絵画、工芸、音楽などが、それぞれ独立した科目になっている。

 以前書いた原稿を1作、紹介する(中日新聞掲載済み)。

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【学校神話を打ち破る法】

常識が偏見になるとき 

●たまにはずる休みを……!

「たまには学校をズル休みさせて、動物園でも一緒に行ってきなさい」と私が言うと、たいていの人は目を白黒させて驚く。「何てことを言うのだ!」と。多分あなたもそうだろう。しかしそれこそ世界の非常識。あなたは明治の昔から、そう洗脳されているにすぎない。

アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が一八歳のときにもった偏見のかたまりである」と。子どもの教育を考えるときは、時にその常識を疑ってみる。たとえば……。

●日本の常識は世界の非常識

★かねばならぬという常識……アメリカにはホームスクールという制度がある。親が教材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、州政府が家庭教師を派遣してくれる。

日本では、不登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけでも97年度には、ホームスクールの子どもが、100万人を超えた。毎年15%前後の割合でふえ、2001年度末には200万人に達するだろうと言われている。

それを指導しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は家庭でこそできる」という理念がそこにある。

地域のホームスクーラーが合同で研修会を開いたり、遠足をしたりしている。またこの運動は世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、こうした子どもの受け入れを表明している(LIFレポートより)。

★おけいこ塾は悪であるという常識……ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、クラブへ通う。早い子どもは午後1時に、遅い子どもでも3時ごろには、学校を出る。

ドイツでは、週単位(※)で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決めることができる。そのクラブだが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラブもある。学習クラブは学校の中にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が1200円前後(2001年調べ)。

こうした親の負担を軽減するために、ドイツでは、子ども1人当たり、230マルク(日本円で約1万4000円)の「子どもマネー」が支払われている。この補助金は、子どもが就職するまで、最長27歳まで支払われる(01年)。

 こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣向と特性に合わせてクラブに通う。

日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学校外教育に対する世間の評価はまだ低い。ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をもつが、それ以外には責任をもたない」という制度が徹底している。

そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号すら親には教えない。私が「では、親が先生と連絡を取りたいときはどうするのですか」と聞いたら、その先生(バンクーバー市日本文化センターの教師Y・ムラカミ氏)はこう教えてくれた。

「そういうときは、まず親が学校に電話をします。そしてしばらく待っていると、先生のほうから電話がかかってきます」と。

★進学率が高い学校ほどよい学校という常識……つい先日、東京の友人が、東京の私立中高一貫校の入学案内書を送ってくれた。全部で70校近くあった。が、私はそれを見て驚いた。

どの案内書にも、例外なく、その後の大学進学先が明記してあったからだ。別紙として、はさんであるのもあった。「○○大学、○名合格……」と(※)。この話をオーストラリアの友人に話すと、その友人は「バカげている」と言って、はき捨てた。そこで私が、では、オーストラリアではどういう学校をよい学校かと聞くと、こう話してくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。そこはチャールズ皇太子も学んだこともある古い学校だが、そこでは生徒一人ひとりにあわせて、学校がカリキュラムを組んでくれる。

たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように。木工が好きな子どもは、毎日木工ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。なおそのグラマースクールには入学試験はない。子どもが生まれると、親は出生届を出すと同時にその足で学校へ行き、入学願書を出すしくみになっている。つまり早いもの勝ち。

●そこはまさに『マトリックス』の世界

 日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っているようなことでも、世界ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。そこで一度、あなた自身の常識を疑ってみてほしい。あなたは学校をどうとらえているか。学校とは何か。教育はどうあるべきか。さらには子育てとは何か、と。

その常識のほとんどは、少なくとも世界の常識ではない。学校神話とはよく言ったもので、「私はカルトとは無縁」「私は常識人」と思っているあなたにしても、結局は、学校神話を信仰している。「学校とは行かねばならないところ」「学校は絶対」と。それはまさに映画『マトリックス』の世界と言ってもよい。仮想の世界に住みながら、そこが仮想の世界だと気づかない。気づかないまま、仮想の価値に振り回されている……。

●解放感は最高!

 ホームスクールは無理としても、あなたも一度子どもに、「明日は学校を休んで、お母さんと動物園へ行ってみない?」と話しかけてみたらどうだろう。実は私も何度となくそうした。平日に行くと、動物園もガラガラ。あのとき感じた解放感は、今でも忘れない。「私が子どもを教育しているのだ」という充実感すら覚える。冒頭の話で、目を白黒させた人ほど、一度試してみるとよい。あなたも、学校神話の呪縛から、自分を解き放つことができる。

※……1週間の間に所定の単位の学習をこなせばよいという制度。だから月曜日には、午後3時まで学校で勉強し、火曜日は午後1時に終わるというように、自分で帰宅時刻を決めることができる。

●「自由に学ぶ」

 「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On Liberty)」を引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。

 「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると考えてよい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいものでしかない。それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の上に専制政治を行うための手段として用いられてきている」と。

 そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由と社会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)学校教育を破壊するものだ」と言う人には、次のように反論している。

いわく、「民主主義国家においては、国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が始まっているではないか」「反対に軍事的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まるということを忘れてはならない」と。
 
さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という意見には、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の犯罪率はむしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考えるのは正しくない。

学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察システムや裁判所システムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと別の角度から検討すべきではないのか」と(以上、要約)。

 日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえている。なお2000年度に、小中学校での不登校児は、13万4000人を超えた。中学生では、38人に1人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、4000人多い。
 
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 世界は、ここまで進んでいる。にもかかわらず、(4)教育委員会改革だの、(5)大学9月入学だのと、そんなことを論じていること自体、バカげている。ノーベル賞を受賞した偉い(?)先生かも知れないが、世の中には、「専門バカ」という人もいる。

 「塾を禁止して、(勉強が)できない子どものための塾だけにせよ」(野依座長)という提言にいたっては、「?」マークを、10個ほど、並べたい。むしろ世界は、教育の自由化(=民営化)をこぞって選択している。

 カナダでは、そこらの塾が塾をたちあげるほど簡単に、学校の設立そのものを自由化している。その学校で使う言語も、自由である。たとえば、ヒンズー語で教える学校を作りたいと思えば、それもできる。

 (これに反して、アメリカでは、学校では英語で教育すべしというのが、原則になっている。またそういう学校しか認可されていない。)

 ドイツ、イタリアにいたっては、ここにも書いたように、「クラブ」が、教育の自由化を側面から支えている。野依座長も、もう少し、研究室から出て、世界を見てきたらどうか。少なくとも、もう少し教育の現場をのぞいてみてから、意見を述べるべきである。

 教育再生会議のメンバーたちは、「提言がことごとく無視された」と怒りをぶちまけているが、それもしかたのないことではないかと、私は思う。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 教育再生会議 再生会議提案 中間報告 中間報告原案)

●心を病む教師たち

2006-12-21 10:10:10 | Weblog
●心を病む教師

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2005年度にうつ病などの精神疾患
で休職した公立小中高の教職員の数は、
前年度比で、619人ふえ、過去最多
の4178人にのぼったことが、
12月15日、文部科学省の調査で
わかった。

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6年前に、こんな原稿を書いた。

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●受験競争の魔力

 受験競争に巻き込まれれば巻き込まれるほど、子どもはもちろんのこと、親もその住む世界を小さくする。この世界では、勝った負けたは当たり前。取るか取られるか、蹴落とすか蹴落とされるか……。

教育とは名ばかり。その底流では、ドス黒い人間の欲望がはげしくウズを巻いている。ある母親は受験どころか、子ども(中学生)がテスト週間を迎えるたびに病院通いをしていた。

いわく「テスト中は、お粥しかのどを通りません」と。子どもの受験競争が高じて、親どうしがいがみあう例となると、まさに日常茶飯事。幼稚園という世界でも、珍しくない。現に今、言ったの言わないのがこじれて、裁判ザタになっているケースすらある(小学校)。さらに息子(中3)が高校受験に失敗したあと、自殺をはかった母親だっている!

 こうした狂騒は部外者が見ると、バカげているとわかるが、当の本人たちはそうでない。それはまさしく命がけ、血みどろの戦い。もっともこうした戦いが親の世界だけでとどまっているならまだしも、子どもの世界まで巻き込んでしまう。さらに学校という教育の世界まで巻き込んでしまう。

この受験競争だけが原因とは言えないが、そのため心を病む教師はあとを断たない。東京都の調べによると、東京都に在籍する約6万人の教職員のうち、新規に病気休職した人は、93年度から四年間は毎年210人から220人程度で推移していたが、97年度は、261人。さらに98年度は355人にふえていることがわかった(東京都教育委員会調べ・九九年)。

この病気休職者のうち、精神系疾患者は。93年度から増加傾向にあることがわかり、96年度に一時減ったものの、97年度は急増し、135人になったという。

この数字は全休職者の約52%にあたる。(全国データでは、96年度は休職者が4171人で、精神系疾患者は、1619人。)さらにその精神系疾患者の内訳を調べてみると、うつ病、うつ状態が約半数をしめていたという。

 何だかんだといっても、受験が教育の柱になっている。もしこの日本から、受験という柱を抜いたら、進学塾はもちろんのこと、学校教育ですら崩壊する。問題はなぜ受験が教育の柱になっているかだが、それについては別のところで考えるとして、結論から先に言えば、受験が子どもや親を大きくする要素などどこにもない。仮にそれに打ち勝ったとしても、「何とかうまくやった」というあと味の悪さが残るだけ。

受験競争は決して教育ではない。そういう前提で、一歩退いてつきあう。そういう冷静さがあなたの心を守り、あなたの子どもの心を守る。

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 文科省は、心を病む教師がふえた理由として、「多忙や保護者、同僚との人間関係など、職場の環境が年々きびしくなっていることが背景と考えられる」(中日新聞)としている。

 調査結果によると、病気による休職者は、前年比709人増の、7017人。このうち精神性疾患による休職者は、13年連続で、前年度より17%ふえた。病気休職者全体に対する割合も、1996年度の37%から60%にふえている。

 が、私の印象では、こうした数字は、まさに氷山の一角。実際の数、つまり、内緒で通院、治療を繰りかえしている教師まで含めると、少なくとも、この5倍はいるとみてよい。もちろん程度の差もある。

 まさに教師受難の時代というわけだが、「職場の環境がきびしくなった」というよりは、教育制度そのものが、制度的限界に近づきつつあるとみるのが正しいのではないのか。教育とは名ばかり。雑事、雑事の連続で、教育どころではないというのが、教師たちの本音ではないのか。その煩雑(はんざつ)さは、おそらく教育に携わったものでなければ、わからない。30人の子どもがいれば、30人分の問題がある。私塾なら、最終的には、「やめろ!」「やめる!」という別れ方ができるが、公立学校では、それもできない。

 教師たちは、袋小路の奥の奥まで追いつめられる。その結果が、「4178人」という数字である。

 しかしあえて言うなら、まだ公立学校の教師は恵まれている。そういう状態になっても、職場と収入は、確保されている。安心して治療に専念できる。仮に退職勧告が出されたとしても、無視すればよい。通院証明さえあれば、5年でも、10年でも、少なくとも収入だけは確保される。

 今、教師の仕事はたいへんだと、私も思う。思うが、そんなわけで、私は、あまり同情しない。学校の先生たちと話していると、みな、そのきびしさを訴える。しかしそういう話を聞きながら、私はいつも、こう思う。「私のほうが、ずっと、きびしい」「民間企業に働く労働者のほうが、もっときびしい」と。

 そこでもし、こうした問題を本気で解決しようとするなら、学校制度そのものを変革させるしかない。教師を雑務から解放させ、教育だけに専念できるような制度を用意する。欧米では、とっくの昔にそうしているのだから、この日本だけができないということはないはず。

 何でもかんでも引き受けてしまうから、教師にそのシワ寄せが集まる。そういう制度そのものが、限界にきているとみてよいのではないだろうか。

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ついでに6年前の
同じころに書いた原稿を、
もう1作。

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●10%のニヒリズム

 テレビの人気ドラマに「三年B組金八先生」というのがある。まさに熱血漢教師のドラマだが、実際にはああいう教師はいない。それはちょうどアクションドラマの中で、暴力団と刑事がピストルでバンバンと撃ちあうようなものだ。ドラマとしてはおもしろいが、現実にはありえない。

仮に金八先生のような教師がいたとすると、その教師はあっという間に、身も心もボロボロにされる。第一、この世界には内政不干渉の原則というのがある。いくら問題が家庭におよんでも、教師は家庭問題までクビをつっこんではいけない。またその権利もなければ義務もない。つっこんだらつこんだで、たいへんなことになる。おおやけどをする。私にもいろいろな経験がある。

 私はある時期、毎日のように母親教室を開いていた。が、それがよくなかった。ある朝まだ床の中で眠っていると、一人の男がいきなり飛び込んできて、こう叫んだ。「うちの女房が妊娠した。どうしてくれる!」と。

寝耳に水とはまさにこのこと。私が驚いていると、その様子から察したのか、その男はこう言った。「すまんすまん。カマだった」と。話を聞くと、その男の妻がその前夜から家出をしたという。そこでその男は、妻がよく口にしていた私のところへ逃げてきたと思ったらしい。

その妻というのは、私の母親教室の熱心な受講生だった。以来私は、毎日の母親教室を、週一回に減らした。同時に、子どもの子育ての問題以外、「私は関係ない」という姿勢を貫くようにした。

 こうしたトラブルは、本当に多い。毎年少しずつ賢くなったつもりだが、つい油断をすると、同じような失敗を繰り返かえす。そこで10%のニヒリズムということになる。昔、どこかの教師が懇談会の席でそう教えてくれた。

「どんなに教育に没頭しても、100%、全力投球してはいけない。最後の10%は自分のためにとっておく。裏切られてもキズつかないようにするためだ」と。

実際、この世界、報われることよりも、裏切られることのほうが多い。10%のニヒリズムは、そのための処世術である。



●子育て格言

2006-12-14 07:27:50 | Weblog
●涙にほだされない

 心の緊張感がとれない状態を、情緒不安という。この緊張した状態の中に、不安が入ると、その不安を解消しようと、一挙にその不安が高まる。このタイプの子どもは、気を許さない。気を抜かない。他人の目を気にする。よい子ぶる。その不安に対する反応は、子どものばあい、大きく分けて、(1)攻撃型と、(2)内閉型がある。
 
 攻撃型というのは、言動が暴力的になり、ワーワーと泣き叫んだり、暴れたりするタイプ。私はプラス型と呼んでいる。また内閉型というのは、周囲に向かって反応することができず、引きこもったり、性格そのものが内閉したりする。慢性的な下痢、腹痛、体の不調を訴えることが多い。私はマイナス型と呼んでいる。(ほかにモノに固執する、固執型というのもある。)

 こうした反応は、自分の情緒を安定させようとする、いわば自己防衛的なものであり、そうした反応だけを責めたり、叱っても、意味はない。原因としては、乳幼児期の何らかの異常な体験が引き金になることが多い。家庭騒動や家庭不和、恐怖体験、暴力、虐待、神経質な子育て、親の拒否的な態度など。一度不安定になった情緒は、簡単にはなおらない。

そこで子どもによっては、この時期、すぐ泣く、よく泣くといった症状を見せることがある。少しいじめられても、すぐ泣く。ちょっとしたことで、すぐ泣くなど。こうした背景には、子ども自身の情緒不安があるが、さらにその背景には、たとえば恐怖症や神経症が潜んでいることが多い。

たとえば子どもの世界でよく知られた現象に、対人恐怖症がある。反応はさまざまだが、そうした恐怖症が背景にあって、情緒が不安定になるということは珍しくない。親は、「友だちを遊んでいても、ちょっと何かをされるとよく泣くので困ります」と言うが、子どもは泣くことで、自分の情緒を安定させようとする。

 もちろん子どもが泣くときには、原因をさがして、対処しなければならないが、「泣く」ということを、あまりおおげさに考えてもいけない。コツは、泣きたいだけ泣かせる。泣いてもムダということをわからせる、という方法で対処する。ぐずりについてもそうで、定期的に、また決まった状況で同じようにぐずるということであれば、ぐずりたいだけぐずらせるのがコツ。泣き方やぐずり方があまりひどいようであれば、スキンシップを濃厚にして、カルシウム、マグネシウム分の多い食生活にこころがける。

 こうした心の問題は、「より悪くしないこと」だけを考えて、一年単位で様子をみる。「去年よりよくなった」というのであれば、心配ない。あせってなおそうとして症状をこじらせると、その分、立ちなおりがむずかしくなる。


●波間に漂(ただよ)わない

 子どものことで、波間に漂うようにして、フラフラする人がいる。「右脳教育がいい」と聞くと、右脳教育。隣の子どもが英会話に通い始めたときくと、英語教室。いつも他人や外からの情報に操(あやつ)られるまま操れられる。私の印象に残っている母親に、こういう母親がいた。

 ある日、私のところにやってきて、こう言った。「今、通っている絵画教室へこのまま、通わせようか、どうかと迷っている」と。話を聞くとこうだ。「色彩感覚は、三歳までに決まるというから、あわてて絵画教室に入れた。しかし最近、個人の絵の先生に習うと、その先生の個性が子どもに移ってしまうから、よくないという話を聞いた。今の絵の先生は、どこか変人ぽいところがあるので心配です。だから迷っている」と。

 こうしたケースで、まず問題としなければならないのは、子どもの視点がどこにもないということ。「子どもはどう思っているか」ということは、まったく考えない。そこで私が「お子さんは、どう思っているのですか」と聞くと、「子どもは楽しんで通っています」と。だったら、それで結論は出たようなもの。迷うほうが、おかしい。

 「優柔不断」という言葉があるが、この言葉をもじると、「優柔混迷」となる。自分というものがないから、迷う。迷うだけならまだしも、子どもがそれに振り回される。そして身につくはずの「力」も、身につかなくなってしまう。こういうケースは、今、本当に多い。では、どうするか。

 親自身が一本スジのとおった方針をもつのがよいが、これがむずかしい。だからもしあなたがこのタイプの母親なら、こうする。何ごとにつけ、結論は、3日置いて出す。このタイプの母親ほど、せっかちで短気。自分の心に問題を秘めて、じっくりと考えることができない。だか3三日、待つ。とくに子どもに関することは、そうする。この言葉を念仏のように心の中で唱えるとよい。……といっても、簡単なことではない。私のアドバイスが効力をもつのは、せいぜい一週間程度。それを過ぎると、またもとに戻ってしまう。もともと子育てというのは、そういうもの。その親自身の全人格がそこに反映される。
(以上10-18分まで)


●三つ子の魂、百まで

2006-12-07 07:42:19 | Weblog
●三つ子の魂、百まで

 『三つ子の魂、百まで』というのは、その人の基本的な性格や方向性は、3歳ごろまでに決まるので、それまでの子育てを大切にしろという意味。しかし教育的には、つぎの4つの意味をもつ。

(1) この時期の子どもをていねいに見れば、その後、子どもがどんなふうになっていくかについて、おおよその見当がつくということ。

(2) この時期までに、何か心にキズをつけてしまうと、そのキズは、一生つづくから注意しろという意味。


(3) この時期をすぎたら、その子どもはそういう子どもだと認めたうえで、子どもの性格や方向性はいじってはいけないということ。

(4) そしてもう一つは、子どもが大きくなってから、いろいろな問題が起きたときには、この三歳までの育て方に原因を求めろということ。

 ただ念のために申し添えるなら、この格言は、公式の場(公の雑誌や新聞など)では、使えないことになっている。「差別につながる」ということだそうだ。私も一度、G社から出している雑誌に、この格言を引用して、抗議の電話をもらったことがある。いわく、「3歳までに不幸だった子どもは、おとなになってからも不幸になるということか」と。

 しかしそういった抗議はともかくも、この格言は、たしかに真実を含んでいる。「3歳」と切ることはないが、幼児期の子どものあり方は、その子どもの基礎になることは、もうだれの目にも明らかである。

 さて本題。よく親は、子どもの性格は、変えられるものと思っている。しかし実際には、そうは簡単ではない。子どもの性格は、乳児から幼児期にかけての時期。私は性格第一形成期と呼んでいる。そして幼児期から少年少女期にかけての時期。私は性格第二形成期と呼んでいる。これら二度の時期を経て、形成される。

とくに大切なのは、幼児期から少年少女期(満4・5歳~5・5歳)の時期である。この時期を経るとき、子どもに、人格の「核」ができる。教える側からすると、「この子はこういう子だ」というつかみどころができてくる。それ以前の子どもは、どこか軟弱で、それがはっきりしない。

が、この時期をすぎると、急にその形がはっきりとしてくる。言いかえると、この満4・5歳から5・5歳の時期の、幼児教育が、とくに大切ということ。冒頭にも書いたように、この時期にできる基本的な性格は、その子どもの一生を方向づける。

 またこの時期というのは、自意識がそれほど発達していないので、子ども自身が、自分を飾ったり、ごまかしたりできない。その分、その子どもの本来の姿を、正確に判断することができる。「この時期の子どもをていねいに見れば、その後、子どもがどんなふうになっていくかについて、おおよその見当がつく」というのは、そういう意味である。

 が、何よりも大切なことは、この時期をとおして、子どもは、子育てのし方そのものを、親から学ぶ。子育ては本能でできるようになるのではない。学習によってできるようになる。しかし学習だけでは足りない。子どもは自分が親に育てられたという経験があって、もっと言えばそういう体験が体の中にしみこんでいてはじめて、自分が親になったとき、今度は、自分で子育てができるようになる。

そういう意味でも、この時期は、心豊かな親の愛情や、心静かで穏やかな家庭環境を大切にする。またそれにまさる家庭教育はない。
(02-11-7)

● 3歳までの家庭環境を、大切にしよう。
● 幼児期をすぎたら、性格をいじってはいけない。あるがままを認め、受け入れてしまおう。

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この原稿に関連して書いたのが、つぎの原稿です(中日新聞にて発表済み)
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●教育を通して自分を発見するとき 

●教育を通して自分を知る

 教育のおもしろさ。それは子どもを通して、自分自身を知るところにある。たとえば、私の家には2匹の犬がいる。1匹は捨て犬で、保健所で処分される寸前のものをもらってきた。これをA犬とする。もう1匹は愛犬家のもとで、ていねいに育てられた。生後3か月くらいしてからもらってきた。これをB犬とする。

 まずA犬。静かでおとなしい。いつも人の顔色ばかりうかがっている。私の家に来て、12年にもなろうというのに、いまだに私たちの見ているところでは、餌を食べない。愛想はいいが、決して心を許さない。その上、ずる賢く、庭の門をあけておこうものなら、すぐ遊びに行ってしまう。そして腹が減るまで、戻ってこない。もちろん番犬にはならない。見知らぬ人が庭の中に入ってきても、シッポを振って、それを喜ぶ。

 一方B犬は、態度が大きい。寝そべっているところに近づいても、知らぬフリをして、そのまま寝そべっている。庭で放し飼いにしているのだが、一日中、悪さばかりしている。おかげで植木鉢は全滅。小さな木はことごとく、根こそぎ抜かれてしまった。しかしその割には、人間には忠実で、門をあけておいても、外へは出ていかない。見知らぬ人が入ってこようものなら、けたたましく吠える。

●人間も犬も同じ

 ……と書いて、実は人間も犬と同じと言ったらよいのか、あるいは犬も人間と同じと言ったらよいのか、どちらにせよ同じようなことが、人間の子どもにも言える。いろいろ誤解を生ずるので、ここでは詳しく書けないが、性格というのは、一度できあがると、それ以後、なかなか変わらないということ。A犬は、人間にたとえるなら、育児拒否、無視、親の冷淡を経験した犬。心に大きなキズを負っている。

一方B犬は、愛情豊かな家庭で、ふつうに育った犬。一見、愛想は悪いが、人間に心を許すことを知っている。だから人間に甘えるときは、心底うれしそうな様子でそうする。つまり人間を信頼している。幸福か不幸かということになれば、A犬は不幸な犬だし、B犬は幸福な犬だ。人間の子どもにも同じようなことが言える。

●施設で育てられた子ども
 
たとえば施設児と呼ばれる子どもがいる。生後まもなくから施設などに預けられた子どもをいう。このタイプの子どもは愛情不足が原因で、独特の症状を示すことが知られている。

感情の動きが平坦になる、心が冷たい、知育の発達が遅れがちになる、貧乏ゆすりなどのクセがつきやすい(長畑正道氏)など。が、何といっても最大の特徴は、愛想がよくなるということ。相手にへつらう、相手に合わせて自分の心を偽る、相手の顔色をうかがって行動する、など。

一見、表情は明るく快活だが、そのくせ相手に心を許さない。許さない分だけ、心はさみしい。あるいは「いい人」という仮面をかぶり、無理をする。そのため精神的に疲れやすい。

●施設児的な私

実はこの私も、結構、人に愛想がよい。「あなたは商人の子どもだから」とよく言われるが、どうもそれだけではなさそうだ。相手の心に取り入るのがうまい。相手が喜ぶように、自分をごまかす。茶化す。そのくせ誰かに裏切られそうになると、先に自分のほうから離れてしまう。

つまり私は、かなり不幸な幼児期を過ごしている。当時は戦後の混乱期で、皆、そうだったと言えばそうだった。親は親で、食べていくだけで精一杯。教育の「キ」の字もない時代だった。……と書いて、ここに教育のおもしろさがある。

他人の子どもを分析していくと、自分の姿が見えてくる。「私」という人間が、いつどうして今のような私になったか、それがわかってくる。私が私であって、私でない部分だ。私は施設児の問題を考えているとき、それはそのまま私自身の問題であることに気づいた。

●まず自分に気づく

 読者の皆さんの中には、不幸にして不幸な家庭に育った人も多いはずだ。家庭崩壊、家庭不和、育児拒否、親の暴力に虐待、冷淡に無視、放任、親との離別など。しかしそれが問題ではない。問題はそういう不幸な家庭で育ちながら、自分自身の心のキズに気づかないことだ。たいていの人はそれに気づかないまま、自分の中の自分でない部分に振り回されてしまう。そして同じ失敗を繰り返す。それだけではない。同じキズを今度はあなたから、あなたの子どもへと伝えてしまう。心のキズというのはそういうもので、世代から世代へと伝播しやすい。

が、しかしこの問題だけは、それに気づくだけでも、大半は解決する。私のばあいも、ゆがんだ自分自身を、別の目で客観的に見ることによって、自分をコントロールすることができるようになった。「ああ、これは本当の自分ではないぞ」「私は今、無理をしているぞ」「仮面をかぶっているぞ」「もっと相手に心を許そう」と。そのつどいろいろ考える。つまり子どもを指導しながら、結局は自分を指導する。そこに教育の本当のおもしろさがある。あなたも一度自分の心の中を旅してみるとよい。
(02-11-7)

● いつも同じパターンで、同じような失敗を繰り返すというのであれば、勇気を出して、自分の過去をのぞいてみよう。何かがあるはずである。問題はそういう過去があるということではなく、そういう過去があることに気づかないまま、それに引き回されることである。またこの問題は、それに気づくだけでも、問題のほとんどは解決したとみる。あとは時間の問題。


●見せる質素

2006-12-07 07:39:42 | Weblog
●見せる質素、見せぬぜいたく

 子どもの前では、質素を旨(むね)とする。つつましい生活、ものを大切にする生活、人間関係を大切にする生活は、遠慮せず、子どもにはどんどんと見せる。

 ときに親もぜいたくをすることもあるが、そういうぜいたくは、できるだけ子どもの目から遠ざける。あなたの子どもはあなたの子どもかもしれないが、その前に、一人の人間である。それを忘れてはいけない。子どもは、一度ぜいたくになれてしまうと、そのぜいたくから離れることができなくなってしまう。こんな子どもがいた。

 ある日、私の家に遊びに来ていた中学生(中2女子)が、突然、家に帰ると言い出した。理由を聞いても言わない。しかたないのでタクシーを呼んであげたら、あとで母親がこう教えてくれた。「あの子は、よその家のトイレ(便座式)が使えないのですよ」と。「ボットン便所だったら、なおさらですね……」と言いかけたが、やめた。

 このまま日本が、今の経済状態を維持できればよし。しかしそうでないなら、それなりの覚悟を、親たちもしなければならない。多くの経済学者は、2015年には、日本と中国の立場が入れかわるだろうと予測している。実際には、2010年ごろではないかという説もある。すでにASEAN地域での、政治的指導力は、完全に中国に握られている。そういうことも考えると、2015年以後は、日本人が中国へ出稼ぎに行かねばならなくなるかもしれない。たいへん残念なことだが、すでに世界はそういう方向で動いている。

 で、こういう状況の中、子どもにぜいたくをさせるということは、たいへん危険なことでもある。先日も、中国で使っている教科書(国定教科書)を小学生に見せたら、全員が、「ダサ~イ」と声をあげた。見るからに質素な装丁の教科書だった。しかし日本の教科書のほうが、豪華すぎる。ほとんどが四色のカラーページ。豪華な写真に、ピカピカの表紙。

アメリカのテキスト(アメリカには日本でいう教科書はない)も、豪華で、その上、たいへん大きく重い。しかしアメリカでは、テキストを学校で生徒に貸し与えたり、順送りにつぎの学年の子どもにバトンタッチしたりしている。日本では、恐らくこうした教科書産業のウラで、官僚と業者が何らかの関係をもっているのだろうが、しかしそれにしても……? たった1年しか使わないテキストを、ここまで豪華にする必要はない。カラー刷りが必要だったら、子ども自身にカラーペンで色を塗らせれば、よい。

 またまたグチになってしまったが、将来、今のような経済状態が保てれば、それはそれでよい。しかしそうでなくなれば、苦しむのは、結局は子ども自身ということになる。「昔はよかった」と思うだけならまだしも、親が生活の質を落としたりすると、「あんたがだらしないから!」と、それだけで親を袋叩きにするかもしれない。よい例が、小づかい。

今どきの中学生や高校生は、1万円や2万円の小づかい程度では、喜ばない。それもそのはず。今の子どもたちは、すでに幼児のときから、そらゲーム機だ、そらソフトだと、目いっぱい、ほしいものを買い与えられている。あのプレステ・2にしても、ソフトを含めれば3万円を超える。そういうものを一方で平気で買い与えておきながら、「どうすればうちの子を、ドラ息子にしないですむでしょうか?」は、ない。

 この「質素」の問題とからんで、「家庭経済」の問題がある。よく「家計はどこまで子どもに教えるべきか」ということが話題になる。子どもに不必要な不安感を与えるのもよくないが、しかしある程度は、子どもに見せる必要はある。たとえばアメリカの学校には、「ホームエコノミー」という科目がある。小学校の中学年くらいから教えている。日本でも家計簿の使い方を教えているが、アメリカでは、家計の管理のし方まで教えている。機会があれば、家計のしくみや、予算のたて方、実際の支出などを子どもに教えてみるとよい。子どもをよき家庭人として育てるという意味では、決して悪いことではない。
(02-11-7)

● 質素な生活を大切にしよう。
● 子どもには、ぜいたくは見せないようにしよう。
● 子どもには、ぜいたくな生活をさせないようにしよう。
● ある程度の家計の流れは、子どもに見せておこう。